忘れたいコト その2
一体どういうつもりなのだ。
自分の髪を引っ張る陣原の手首を、品子は右手で掴む。
握り損ねることの無いように、親指にぐっと力を込めそのまま更に強く握ると、ぐるりと内側に回すように捻りこむ。
髪を掴む力が緩むと同時に、陣原の顔が痛みに歪むのが見えた。
先に痛かったのは、こちらの方だ。
そう考えた品子に、今までの怒りが込み上げる。
感情のまま今一度、彼の手首を握りしめ、体を反転させながら陣原の後ろに回り込む。
勢いをつけたまま、相手の上腕部に自分の左手を思い切り叩きつける。
「ぐうっ」という声が、陣原の口から漏れた。
そのまま彼の腕に当てていた左手を、真下に落とすように自分の体重をかけながら押さえ込んでいく。
耐えられず膝をついた陣原から即座に左手を外し、握りつぶさん勢いで目前の頭を鷲掴みにして品子は発動を行う。
「……動くな」
この言葉でようやく陣原は動きを止め、大人しくなる。
握っていた手首を放し、品子はその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまう。
恐怖が今になって、体を襲ってきたようだ。
がたがたと震えている自分の体を両腕でぐっと抱え込む。
陣原が体を動かそうと、必死の形相でもがいているのが品子の目に映る。
自分の動かない体に、もどかしさを感じながら品子は疑問を抱えていた。
一緒に来ていた二人。
なぜ彼らは、こちらに来ないのだと
「斉藤さん、江藤さん! 大丈夫ですか!」
震えてまだ体が動かないので、取りあえず彼ら二人に品子は声をかけてみる。
だが彼らからの返事はない。
大の大人二人が、動けなくなっているというのならば危険な状況だ。
一刻も早く陣原の記憶を消し、ここから撤退すべきだと品子は判断する。
震えが少し収まったのを確認し、ゆっくりと品子は立ち上がっていく。
陣原の前に立ち、人差し指を彼の額に当てる。
こちらを睨みつけるように見上げてくる目つきに、先程の恐怖が蘇りビクリと品子の体が揺れた。
「……落ち着け。こんなところで、まごまごしている時間はない」
品子はそう呟き、目を閉じて心を落ち着かせる。
数秒の後、ゆっくりと目を開き再び陣原の顔を見ると、どうしたことか彼は笑っている。
けげんな表情を浮かべた品子は、その答えを再び背後から来る衝撃によって理解することとなる。
後ろからまたもや肩を掴まれ、今度はそのまま床に引き倒されてしまった。
相手の力の加減も一切ない動きに、品子はしたたかに背中と頭を打ち付ける。
あまりの痛みに一瞬、息が止まりながら見上げた先。
それをしてきた相手を見た時の絶望が品子から言葉を失わせる。
声も出さずに笑いながら見下ろしてくる人物は。
仲間であるはずの江藤だった。
◇◇◇◇◇
「江藤さん! どうしたんですか!」
倒れ込んだまま、品子は問いかける。
江藤はただ笑っている。
だが目からは涙が、そして強く噛んだであろう唇からは、血が滲んでいるのが品子には見える。
江藤は途切れがちに口を動かし、何かを品子へと伝えようとしていた。
その一方で彼は、品子の両手首を片手で握ると、思いきりの品子の両手を床へと打ち付けていく。
痛みと驚きで、品子の体がのけぞる。
そのまま品子にのしかかると、今度は両手で品子の手をそれぞれに掴む。
そして再び床へと、勢いよく叩きつける。
だん、だんと音が響くたびに、襲い来る痛みに品子は悲鳴を上げる。
「……げて、はや……。おね……」
一方で彼の口からは、懇願に近い、悲鳴のような声が品子の耳に聞こえてくる。
江藤に握られた品子の腕に彼の爪が食い込み、じわりとした血が滲んでいく。
いつ終わるともしれない、繰り返される苦痛に品子は抵抗する心をも奪われていく。
最初こそ品子も逃げ出そうと足をばたつかせ、もがいたりしていた。
だが今はただ、この痛みからの解放を願い続けるのみ。
見下ろしてくるこの人物を押しのけよう。
ここから逃げ出そうとする思いは、とうに品子からは消え失せていた。
とめどなく流れていく涙すら、拭う事を許されないのだ。
もはや自分の手も腕も感覚すらない。
自分は、殺される。
ならば、早くそうしてほしい。
こんなに痛くて辛いのに。
誰も助けてくれないのだから。
そう考える品子に誰かの声が聞こえてくる。
「……っ! 人出様っ!」
体に来る振動。
上にのしかかっていた、重さが消えた。
「逃げれる? 私、逃げれるの?」
品子は体を起こそうするが、痺れたように腕は動こうとしない。
体を横に回転させ、声が聞こえた方を見る。
この部屋の中で、自分を助けられるのはもう一人しかいない。
そこには斉藤が江藤を抑え込んでいる姿があった。
「人出様っ! ここから一刻も早く、離れてください!」
苦しそうな声で、斉藤が品子に訴える。
「斉藤さん! 一体、これは何が起こっているのですか? どうしてっ! どうして江藤さんは、私に危害を?」
今までの出来事で、自分の中にある恐怖を何とか落ち着かせたい。
一刻も早く、逃げろと言われているのは分かっている。
だが品子は、唯一ここで理性を保っている斉藤に叫ぶ。
問いかけに彼は、とぎれとぎれに答えを返してきた。
「人出様はおそらく無自覚で今、何らかの発動を行っています。そのために私共はあなたにっ……! お願いです! 早くここから逃げて下さい! このままでは私も……」
叫びに近いその言葉を聞き、品子は体を起こし足を前へ動かしていく。
「どうして? 私は何をしてしまったの? 私が無自覚で何かを発動している?」
斉藤の言葉に品子が思い当たるのは、一つの発動能力。
相手を自分の意のままに操ることの出来る力。
だが、今まで品子はその発動を行ったことはない。
その能力の存在は知っているが、発現の方法を自分は理解していないのだ。
それが今、なされてしまっている。
きっかけは陣原が襲ってきたタイミングから考えて、洗面台に入って間もなくだろう。
こみ上げる怒りと髪を洗う、あるいは髪を解いた辺りが発現要素だったに違いない。
斉藤の行動を無駄にするわけにはいかない。
おぼつかない足取りで、品子はただ出口に向け歩みを進める。
ようやくたどり着いた部屋の扉に、少しだけ力の戻った腕を伸ばす。
そんな品子の後ろから伸びた来たのは、何者かの腕。
そのまま品子の腕を掴み、耳元で嬉しそうな声で囁く声が聞こえてしまう。
「だから、早く離れてと言っていたではないですか。……ほぅら、捕まえてしまいました」
かたかたと品子の体が震え出す。
「……嫌だ、嘘だ。だって、さっき助けてくれたじゃない」
振り返りたくない。
それなのに品子は体をぐいと引っ張られ、後ろを向かされる。
そこには……。
「どう、……して? 斉藤さん」
品子を見返してくる斉藤の目に、もはや理性の光は無い。
濁った眼で、何もおかしいことなど無いのに。
声も出さず、ただ笑い続けている。
もう、この人は自分を助けてくれた人ではなくなっているのだ。
「離れなかったということはつまり、ここに居たいのですね。了解しました。人出様。では四人でゆっくりと楽しみましょうか」
今、彼は四人と言った。
おかしいではないか。
陣原は発動で動けなくなってるはずなのだから。
そう考える品子の前に現れたのは斉藤と江藤と、そして陣原。
「何で! なぜこの人が行動できるの?」
叫ぶ品子に斉藤が答える。
「それは、あなたの動揺が原因かと。発動の根源たる『思い』が相当、揺らいでいるのではないですか? ……おやおや、どうして泣いているのですか?」
笑い声を漏らし、斉藤が品子の体を二人の方へ向け強く押す。
よろけながら数歩すすみ、品子はへたりとしゃがみ込む。
「はは。あははは……」
品子の口からは勝手に笑い声が漏れる。
怖くて仕方がないのに、なぜか笑いが止まらないのだ。
怖い怖い、誰か助けて。
何で私が、こんな目に遭わなきゃいけないのかな?
ねぇ? 何で?
品子の頭の中を回るのはその思いだけ。
「ははは……」
笑い声が、気に入らなかったのだろう。
陣原が品子の前にしゃがみ込むと、片手で顔を無理やり上げさせ、もう一方の手で品子の頬を叩く。
それでも、品子の笑いが止まらない。
品子はただ笑い、ただただ泣き続けることしか出来なかった。
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次話タイトルは「忘れたいコト その3」です。