靭惟之は疑問を抱く
「んもー、惟之さん! 駄目でしょ! 冷静にならなきゃいけない場面ですよ。さっきのは~」
話をしながら、手に持った黒いファイルを惟之に向け上下にぱたぱたと振っている。
この風は、自分にクールダウンしろということだろう。
風の送り主である彼に、惟之は詫びる。
「すまない。お前が来てくれて助かった。……明日人」
「本当ですよ~。もぅ! どうせ蛯名様が挑発して来たんでしょうけど。次からは、絶対に、ぜーったいに気を付けてくださいよ。あぁ、本当にひやひやした。……ってどうしたんですか、惟之さん? 僕の顔、まじまじ見たりなんかして」
惟之がただ彼の顔を見ているだけの様子に、明日人は不思議そうに尋ねてくる。
「い、いや。お前さんが『靭様』なんて呼ぶのを久しぶりに聞いたというか。お前のさっきの言葉遣いが、あまりにも珍しくてなぁ」
惟之の言葉に、明日人はぷぅと頬を膨らませる。
「何を言っているんですか? 僕だってお仕事の時は、きちんとしますよ。ましてや先程のお相手は、蛯名様でしたからね。下手に行動して目立って、惟之さんや品子さんみたいにロックオンされるなんて、僕は嫌ですよー」
明日人が器用に指先で、ファイルをくるくると回しながら話すのを惟之は見届ける。
「さて。一条の管理地の入口に一度、戻りましょうか。今度こそ品子さんを迎えに行きたいし。僕としては一度、彼女の体調も確認しておきたいです」
惟之は明日人へとうなずくと、先ほどまでいた一条の管理地へと目を向ける。
あの場所にいた本来の目的は、品子を迎えにいく為だったのだ。
今から十分程前、明日人から惟之へ至急に会いたいと連絡が届いた。
合流してすぐに明日人は真っ青な顔で、品子の様子がおかしいと告げるではないか。
明日人から治療班は離れた対象者でも、何かしら異常があると感知できるのだと惟之は説明を受ける。
明日人は本部に珍しく品子が来ていたので、何となく彼女の存在を追跡していたそうだ。
しばらくして彼女から、普段にない急速な心拍数や発汗を感じたのだという。
最近はつぐみやさとみなど、品子を興奮させてしまう人物が多いのは確かだ。
だが、ここは本部。
そうそう品子が、そんな状態になることなど無い。
居るとしたら清乃位だ。
また余計な事をして大方、彼女に怒られているのだろう。
笑いながらそう話す惟之に明日人は、深刻な顔でそれを否定してきた。
明日人が品子を感知した場所は、清乃がいる三条の管理室ではないと言う。
ではどこだと尋ねれば、一条の管理地からだと言うではないか。
何か大変な事が、起こっている気がする。
だからどうか鷹の目で様子を見てくれないかと明日人に言われ、発動した先で惟之が見えたもの。
一条のある一室における、品子と里希の姿。
そこで二人が楽しそうに会話をしている様子が、惟之の視界に入ってきた。
品子は感無量といった感じで、里希と嬉しそうに話をしている。
一方の里希も普段は見せない柔らかな笑顔を湛え、品子を慈しむように見つめ話をしている。
里希に先程言われた通り、盗み聞きになるのも野暮だ。
ただの緊張というか、興奮をしているだけのようだから心配はいらない。
明日人へそう伝えた、次の瞬間。
品子の束ねていたはずの髪が、触れてもいないのに突然に広がりを見せていくではないか。
里希と品子から、同時に起こる発動の気配。
里希の発動を受けたであろう品子が、静かにソファーに座り込む。
いや、座り込まされているのだ。
気配だけを認知している、明日人が叫ぶ。
「これは弛緩性の麻痺? 惟之さん! 品子さんは、本当に大丈夫なのですか!」
その後、里希はそのまま品子の髪に触れ、口づける。
――それはそれは、愛おしそうに。
品子は自由の利かない体を、何とか動かそうと必死になってもがいている。
そんな彼女には見えていないのだ。
笑みを浮かべながらも時折、泣きそうな顔をしているこの男が。
冷たい眼差しを向けながら、気が狂わんばかりに彼女を求めている男の姿が。
これほどまでに品子を求めておきながら、なぜ里希はこんな行動をする必要があるのだ。
その疑問の答えはその後の二人の会話で、僅かながらに惟之も知ることが出来た。
この二人は十年という間、互いに違う認識を持って過ごして来たのだ。
どうやら互いが互いに、『相手から許婚の破棄をされた』と思っていると惟之は理解する。
確かに惟之は品子から、この破棄の件は以前に聞いていた。
「私、里希に振られました~」
かつて品子はそういって、笑って惟之へと伝えてきたのだ。
その時はただ「そうか」としか言わなかった。
いや、そうとしか言えなかったのだ。
当時二人は互いを想いあっていると、惟之は思っていた。
なのにどうしてこんなことになる。
そう思い惟之は一度だけ、里希に問うたことがある。
思えばその時から里希の態度が変わっていったのだと惟之は思い至る。
問いかけた惟之に対し、里希は今までに向けたことの無い感情を。
敵意を露わにしてこう言ったのだ。
「……何も知らない惟之先輩に、口出しされたくはありません」
確かにこの話は、蛯名家と人出家での話。
関係者でもない惟之が、口を挟んでいい訳がない。
そう気づき謝る自分に、里希は淡々と述べる。
「どうか。どうか、僕に二度とこの話はしないでください。……お願いします」
そう言って頭を下げる里希に、先程までの硬い態度は無くなっている。
個人の問題ではなく『家』として、何かしらあったのだろう。
当時の惟之はそう思い、二人にその話は一切しなくなった。
様々な要因が重なり、起こった結果。
互いが事実を確認することなく、すれ違いが生じ十年という年月が経ってしまった。
はたから見るとそうなのだが、どうもおかしいと惟之は考える。
これは誰かが、『故意に』そうさせたような気がしてならないのだ。
だがそうなると、新たな疑問が生じてくる。
――ならば誰が何の為に、そんなことをする必要があるというのだ。
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次話タイトルは「人手品子は助けを求める」です。