蛯名里希も戸惑う
品子を残し、里希は部屋を出ていく。
――普段から心の動揺など、示すことの無きように。
長の息子である自分は、そうあるべき立場の存在なのだから。
特にここ一条という場所は他の所属と違い、特殊な仕事を行うことが多い。
感情の存在は、それらの障害になりうるもの。
ここで生きていくのならば、持ち合わせるべきではない。
それはきっと、己を傷つけるものとなろう。
ならば、そんなものは捨てたほうが良い。
自分は物心ついた頃から父からそのための心持ち、覚悟を持つようにと教えられ、叩きこまれてきた。
「自ら心を失くし、己を潰してでもそれを守るというのならそうすればいい。たとえ相手が、それを知らずにいてもいいという覚悟があるのならば」
品子との婚約が解消された際、里希の秘めた思いを悟ったであろう父、吉晴は、そう言って里希を強く抱きしめて来た。
「父」として、自分の為だけに向けられた言葉。
そんな言葉が投げかけられたのは、里希が十歳の時以来ではなかっただろうか。
母が亡くなってからは、一度たりとて父子としての振る舞いなど見せることのなかったこの人が。
たった一度だけ、苦しいほどに強く自分を抱きながら語ってくれた言葉。
言葉の後に吉晴は体を離すと、ゆっくりと里希の顔に手を近づけてきた。
普段なら決してありえない行動に里希が驚きを抑え、見つめるその左手には母を愛した名残の薬指の指輪。
彼の手のひらの中央にある黒子が里希の目に映る。
ためらいがちに、父はそっと頬に手を添えてきた。
優しく触れてくる、もうずっと忘れてしまっていたその手の温もり。
それは思い出してしまうと苦しくなる、かつての柔らかな日々を、里希の心に蘇らせてしまう。
どうしたらいいか分からないまま、里希は目を閉じ冷静さを取り戻そうとした。
閉じられた世界、わずかの間をおいて吉晴の苦しそうな呼吸が聞こえる。
反応するように里希が目を開くと、そこには普段通りの吉晴の姿。
まるで先程の姿は別人の誰かが、父の姿を借りて現れていたような感覚に里希はとらわれる。
吉晴は自身の手のひらをじっと見つめた後、何も言わずに里希から離れ去っていった。
あれはきっと父なりの、彼が『親』として出来る最大限の気持ちの表れだったのだろう。
たった一度だけのふれあいを、里希はそう考えていた。
「大丈夫だよ、父さん。そんなもの、とうに持ち合わせているさ。相手が知らずとも、相手にどう思われようとも。これは僕自身で決めたのだから」
立ち去る父の後ろ姿に、里希が声に出さずとも決意として誓った言葉。
自分はその思いを胸に、十年という年月を生きてきたのだ。
それなのに品子から「個人的な話をしたい」と言われ、生まれたのは動揺。
十年前のあの日、自分自身で誓った覚悟が、いとも簡単にぐらりと揺らいだのだ。
今まで品子から、里希に接触を持つことなど無かったのに。
……いや自分もだから、互いに無かったということもある。
必要ない、触れたくない。
もしそこに触れて、相手の本心が自分と望まないものだとしたら。
ここまで積み上げてきた思いと覚悟が、全て千切れ飛んでしまうことだろう。
断ることはもちろん出来た。
それなのに里希はその話を受け、品子の居る部屋へ行くために必死に仕事を片付けているのだ。
全ての予定をいつも以上に手早く済ませ、彼女を待たせている部屋へ向かおうとする。
そんなときに限って、至急にやらねばならぬ案件が入ってくるではないか。
最低限の仕事だけ済ませ、少し遅れて部屋に入った時。
自分を見た品子の口元に、こぼれた小さな笑顔を目にしたあの瞬間に。
そのたった一つの笑顔だけで、心は激しく揺さぶられてしまった。
いつもならば容易い、感情を抑制するということ。
それすら出来なくなってしまっている、実に愚かな自分。
十年前に戻ったかのようなあの瞬間に。
自分の心はどうにかなってしまうかと思ったその時に、彼女からの言葉が里希を思い止まらせる。
彼女は自分をこう呼んだのだ。
『蛯名様』と。
そうだ、もう違う。
品子が自分を、この『蛯名様』という呼び方以外で。
かつての呼び方をすることはもう無いのだ。
同じ場所で、同じ視線で見ていられた頃とは違う、もう戻れない。
静かに胸の奥が冷えていくのを。
いや、むしろ凍り付いていくのを里希は感じながら、品子に今日の用件を話すように促す。
そして彼女から語られる話を聞くにつれ、次第に湧いてくる感情を抑えることに思いを傾けていく。
品子にどういった心境の変化があったのかは、里希にはわからない。
だが今更に自分達の関係を、質したいなどと言ってくるではないか。
きれいごとでは済まされない、様々な感情が。
思いがぐちゃぐちゃに混ざり合った『モノ』が、自分の体から飛び出してきそうだ。
今更と彼女は言ったが、本当にその通りだ。
下された決断は覆らない。
起こってしまった出来事はもう、戻らないのだ。
それなのに、何を今になって彼女は言っているのだろう。
手早く話を切り上げることも出来た。
だがそれをしようとはせず、里希は戯れにかつてのように品子の名を呼んでみる。
すると彼女は、驚きと喜びをこれでもかとあふれさせる。
本当に嬉しそうに、かつてと同じように里希の名を呼ぶのだ。
とろけるような彼女の笑顔を見つめながら、束の間ではありながらも里希が得られたその時間を思い返す。
それは本当に十年もの間。
ずっと願い続けていた、彼女の手に再び触れたあの時間は。
あの時に自分の体を駆け抜けたのは間違いなく、歓びと呼べるものであったのに。
――それなのに自分は、最も彼女が傷つく行動を起こした。
「許婚は望まざるものなのに、背負わせてしまった」と品子は言った。
何をもって、そんな考えが出て来るというのだ。
この人は自分に一体、どれだけの喜びと絶望を同時に与えてくるのいうのだろう。
抑えられぬ怒りの感情のまま、品子の髪を無理矢理に解き、強制的に起こさせた発動。
彼女の姿を見たものを惹きつけ、意のままに操ることが出来る能力『妖艶』。
今回は品子が何も欲していなかったので、対象者が女であればその姿に恍惚となり、男であれば彼女を支配しようと欲する衝動に駆られてしまう恐ろしい発動能力。
だが里希の体には、全く変化が無かった。
当たり前だ。
こんなものなど無くとも、ずっと自分はただただこの人に焦がれ、求め続けてきたのだから。
だが里希はさも、その発動に操られたかのように振舞い、彼女にただひたすらに触れた。
後のことなどもうどうでもいい。
もう全てどうなったっていいんだ。
彼女を僕のものに。
誰にも触れさせない。
誰にも渡したくない。
ねぇ、どうか。
どうかお願いだから、僕だけを見て。
里希がそう願い、品子と目が合った途端に言われた言葉。
それは里希の度を失わせるのには、十分なものだった。
泣かせてしまったこと、大嫌いと言われたこと。
――何よりも十年もの間、双方が違う認識を持っていたこと。
いつもの口調ではなく、子供の様に話し泣きじゃくる品子の姿。
十年前と全く変わらない口調で、里希へと思いをぶつけてきた彼女の言葉に、里希は動揺を隠し切れない。
『それならばなぜ、私との許婚の破棄をしたんだ!』
おかしいではないか。
里希は品子の方から、破棄を申し出てきたと聞いていたというのに。
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次話タイトルは「蛯名里希は求める」です。