あだな
「シヤ、愛する品子さんが帰って来たよ!」
「シヤちゃん、ただいまっ! 遅くなっちゃったかな?」
「シヤ、今日も邪魔するがいいか?」
三人三様とはよく言ったものだ。
それぞれに返事をしながら、シヤは思う。
今日の午前中、慣れていたはずの一人で過ごすこと。
その時間に、思っていた以上にシヤは戸惑っていた。
いつも通りに学校の課題を済ませ、いつも通りに家事を行い、いつも通りに……。
かつては当たり前だった、しんとした家で。
シヤは、今までに感じたことの無い思いを抱いていた。
ヒイラギがいないということもあるのは、もちろん理解している。
でも今日は。
いつも自分の隣に来ては、とりとめのない話をしてくる人がいない。
パタパタとスリッパの音を立てながら、おやつを一緒に食べたいと言いに来る人がいなかった。
たった一日だけ、無かった出来事。
ただ、それだけのことなのに。
どうしてだか今日は、ふとした瞬間に、心の隅で小さく寂しい気持ちが生まれてきてしまうのだ。
自分の変化を、シヤはどう捉えたらいいのか分からない。
「シヤちゃん、えっとね。今日の帰りに、美味しそうなパンを売っているところがあったの。今度、一緒に行きたいなぁ」
それなのに、この不思議な感覚を作った当の本人は、相も変わらず呑気に話しかけてくる。
さらにまたシヤに、その感覚を増やそうとしてくるのだ。
このむずむずするような。
これ以上は、知ってしまってはいけないと思ってしまう感覚。
これを認めるべきか、突き放すべきかとシヤは迷う。
「シヤ、聞いてよ! 今日ね、冬野君に惟之があだ名をつけたんだよ」
「いや、品子。……それ、本人の前で言うのか?」
「え、私にあだ名が出来たんですか? しかも靭さんが考えてくれたのですか! 凄く嬉しい。これって、好感度アップイベントってやつですよね?」
つぐみの言葉に、惟之が動揺しながら頭をかいている。
「いや、これはまずい展開ってやつだろう。品子、その話は無かったことに」
「いいじゃないですか! 聞かせてください。私のあだ名!」
「そ、それは……」
珍しい惟之の態度に、シヤは彼も自分に通ずるものを感じているのではと思う。
そんな皆の態度をにやにやと見ていた品子が、シヤに抱き着いてきた。
「わかった! じゃあシヤだけに教えちゃう! あのね……」
品子は、シヤの耳元でそっと囁く。
「『有能なポンコツ』だってさ」
……なんという。
なんという的を射たあだ名なのだろう。
つぐみには申し訳ないが、これはなかなかに相応しいかもしれない。
そして、惟之が本人に言えないのもわかってしまう。
「シ、シヤちゃんだけずるい。シヤちゃん! 私にも教えて!」
……言えない、絶対に。
話を変えるべきと判断をしたシヤは口を開く。
「……言わない代わりに、パン屋には一緒に行きます」
「うわー、嬉しいけど! それもちょっと切ないの~!」
シヤの胸の奥でむずむずが、少しあたたかいものに変わっていく。
だが、今はここで留まっていようとシヤは思う。
わいわいと騒いでいる三人を見つめ、彼女は感じるのだ。
答えを出すのは、もう少し後でもいいだろうと。
◇◇◇◇◇
「ところで先生、明日なのですが。午前中に私、用事が出来てしまったのです」
いつも以上に、気弱に話を始めたつぐみにシヤは顔を向ける。
「お、そうなの? いいよ、明後日から一緒にまた行こうか?」
「はい。すみませんが、よろしくお願いします」
「え、どこ行くの? デート?」
「え? ち、ち、ちがいます。そ、そのようなものでは。……ないですよ」
ひらがなだ。
つぐみはまるで、言葉を覚えたての子供のような話し方をしている。
怪しい、あからさまに怪しい。
シヤは自分以上に、そう思っているであろう大人二人を見やる。
つぐみの動きに、品子の目がどす黒く光る。
惟之がサングラスを、やたらとくいくいと上げ下げしているのも、いつもならありえない動きだ。
「そうなんだね。何時頃にどこへ行くんだい? ……良かったら、送っていくよ」
「大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。先生達は、資料室に気にせずに向かってください」
にこにこと、嬉しそうにつぐみは答えている。
「では私は夕飯を作り始めますね。ご飯の準備が出来たら声をかけます。皆さんゆっくりしていてくださーい!」
エプロンを身につけると、つぐみは軽やかに台所へと向かっていった。
それを見届ける途中で、シヤは凄い力で奥の和室に引きずり込まれていく。
この引っ張る手は、品子だろう。
そう思ってうんざりした顔で眺めた先にいたのは。
「……え? なぜ惟之さんも和室に?」
彼女の問いに答えることなく、品子は障子を閉めるとびしりとシヤへ指を突きつける。
「シヤ、これはきっと一大事だよ。明日、彼女に何かがある」
「いや。だから一大事も何も、つぐみさんは用事があって出掛けるのでしょう?」
「そうだけど! そうなんだけど! あれって相手が、男の子なんじゃないの?」
「だが! 調査書には特定の異性と仲がいいという報告はなかったぞ!」
いつになく惟之の声が鋭い。
「あの? 惟之さん、どうしたんですか?」
「いやぁぁ。お母さんは許しませんよ!」
品子が頭をかきむしりながら叫んでいる。
いつも以上に、品子がおかしくなっている。
いや、品子だけでなく惟之もだ。
「「というわけでだ、シヤ」」
戸惑うシヤの両肩に、二人の手が置かれる。
「「君に依頼をする。シヤ」」
二人そろって、口元は笑顔だ。
だがやはり、二人そろって目はちっとも笑っていない。
「……なんでしょうね。本当に嫌な予感しかしませんけど」
シヤはそう言うと、力なくため息をついた。
お読みいただきありがとうございます。
次話タイトルは「パンケーキをご一緒に」
ご一緒するのは一体誰なのか?