冬野つぐみは集中する
品子は、目の前におけるつぐみの行動を、ただ見つめることしかできない。
それだけ、彼女の集中力は凄かった。
資料を読みつつ、凄い勢いでルーズリーフに文字と図をつぐみは書き込んでいく。
文字だけでなく、図として覚えこむ。
その方が、頭にイメージとして入りやすいというのだ。
この状況での、いつものお約束。
そう、彼女の腹が全く鳴らないのだ。
どれほどの思いをもって、彼女は取り組んでいるというのだろう。
一通り書き終えると、誰もいないフロアがあるかとつぐみは品子へと尋ねてくる。
「四階は誰もいないし、三階は私達だけだよ」
ぎっちりと書き込まれたルーズリーフを強く握りしめ、つぐみは大きくうなずく。
そうして、品子をぐっと見つめた後にたった一言。
「ちょっと、散歩に行ってきます!」
そう叫び、廊下へと飛び出していった。
ときおり廊下から、ぶつぶつと何やら呟く声が聞こえる。
扉のすりガラス越しに歩いている彼女がうつるのは、ちょっとしたホラー映画のようだ。
「なぁ、惟之。あれが散歩というのなら世の散歩は今後、何と呼べばいいのだろうな」
品子の問いに答えることなく、惟之は好奇心に負け、こっそり扉を開け覗きこんでいる。
だがやがて扉を閉めると、無言で品子の元へと戻ってきた。
そのまま席に座ると、机に突っ伏しながらぼそりと呟く。
「……なぁ、品子。俺の知らない冬野君が、廊下にいるんだ」
「良かったな。彼女の、新しい一面を知れたじゃないか」
「違うんだ。そうじゃないんだよ。……縄がないのに縄跳びみたいに、ジャンプしてるんだ」
「そうか良かったな。やはり彼女の新しい一面を、知れてるじゃないか」
惟之は、がばりと顔を上げ、かすれ声で続ける。
「その後に、廊下にある休憩室のローテーブルを使って。……多分、懸垂しようとしてたようなんだが」
「ローテーブルで懸垂? どうやって?」
「テーブルの下に頭を入れてから、テーブルのヘリを掴んでだな……」
「あぁ成程ね。面白い発想するねぇ、彼女は」
「それで失敗して、力尽きてそのまま頭を思いっきり打ってた」
「……そうか、いつも通りの彼女じゃないか。お前が冬野君を大好きなのはわかったよ。だから、とっとと仕事してくれ」
品子の発言の終了と同時に、扉の開く音が響いた。
後頭部をさすりながら、涙目のつぐみが部屋へと戻ってくるのを品子は出迎える。
「先生。一冊目の内容把握はできたと思います。もうお昼過ぎです。私、お弁当でも買ってきましょうか?」
「あぁ、お昼ご飯なら出雲君が手配してくれるみたい。いくつかメニュー貰ってるから、この中から選んでって」
出雲から渡されていたデリバリーメニューを、品子はつぐみへと見せる。
「わ、こんなにあるんですね。凄い! これは悩みますね! 先生と靭さんはもう決め……」
部屋に響く低い音。
お約束の彼女の腹が、今になって鳴りだしたのだ。
「「あ」」
品子と惟之の声が重なる。
その反応にいつも以上に顔を赤くして、もじもじする彼女の頭を品子はゆっくりと撫でた。
空いた手で、最も値段の高い店のメニュー掴み、品子はつぐみへと差し出していく。
「とても頑張ったみたいだから。惟之がこの店のご飯、奢ってくれるって」
「そんな! それはさすがにいけません!」
慌てた様子のつぐみに、惟之が穏やかな笑みを向けていく。
「いや、折角だからいいよ。ただし、ちょっとした試験をしてみようか。先程の君が見た資料から、俺が問題を出す。正解が出来た分に応じて俺が支払う。不正解の分が品子の払い。これでいこうじゃないか」
「面白そうじゃん! 冬野君。わざと間違えたりしたら、私にも惟之にも失礼だってわかるよね?」
「……はい、もちろん。ですが自分が頼んだ分はきちんと支払いたいです。それでしたら答えさせてください」
「相変わらず優しい子だね。じゃあ惟之、問題を出してみてよ」
「よし、じゃあ確認テストだ」
◇◇◇◇◇
「見事だよ冬野君、俺は君に一体どれだけ驚かされるのだろうな。あの短時間で、よくぞここまで」
惟之は、持っていた資料を閉じつぐみを見つめる。
結果は全問正解。
惟之の頭の中で、彼女の縄跳びもどきや懸垂もどきがくるくると回りだす。
この記憶力。
こんな才能をくすぶらせておくのは、かなりの損失ではないか。
「なぁ品子。彼女を二条の……」
「却下」
「だろうなぁ。しかし惜しい」
だが、当の本人はと言えば。
「先生、大変です。このお肉、噛んでないのに溶けましたー! 脂身の所が私の口で勝手にー!」
最近は、オンとオフの激しい人間と接する機会が増えている。
そう感じずにはいられない。
目を閉じれば、明日人のふにゃりとした笑顔が、惟之の頭の中に浮かんでくる。
「冬野君。そんな君に、私の弁当のこれを食べさせてあげるよ。はい、あーん」
「いけません、先生! これ鰻じゃないですか! こんな贅沢したら私、もう……」
「ふふふ、いいんだよ。もう戻れなくていいじゃないか。大丈夫、さぁ口を開けてごらん」
ぱくり、と音でもしそうな食べ方で、つぐみは品子から鰻を食べさせてもらっている。
さらには、ぱあぁという効果音でも聞こえそうな驚きと感動の表情が、つぐみの顔に生まれていく。
「……お、おいひい。私、生きててよかったです」
「そうだろう! いいんだ。全て惟之の奢りだ」
「それはいけません。私は自分の分は払う約束ですから!」
「いや、いいよ。今日は俺から君へのバイト代と思ってくれ」
「そうそう、これからしっかり働いてもらうからね」
「ありがとうございます。私、頑張ります!」
つぐみは困り顔ながらも嬉しそうに、惟之へと言葉を掛けてくる。
「あの、靭さん。今日の夜ご飯を私、いつも以上に頑張って作ります! だから、……一緒に皆で食べませんか?」
断られるだろうか。
そんな不安から、少しうるんだ瞳で見上げてくるつぐみを惟之は見つめ返す。
「……まぁ、なんだ。そんな顔で言われたら断れないな」
返事を聞いたつぐみの顔に、笑顔の花が咲いていく。
最初から断るつもりも無かったが、晴れやかな彼女の表情に、同じように喜びが生まれていくことに惟之は戸惑う。
「……まぁ、いいか」
こういう時間も、こういう気持ちになるのも。
――悪くはない。
そう思える自分が、確かに感じられるのだから。
自然と上がっていく頬を親指でそっと撫で、つぐみに笑顔を向けるのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次話タイトルは「あだな」
誰のなのか、どんなあだななのか想像しながら読んでくれたら嬉しいですね。