神頼み
男は病院のベッドに横たわっていた。
ごくありふれた働き盛りの三十代サラリーマン、だけれども毎日のストレスのせいか内臓を痛めて入院する羽目になってしまった。
ベッドが窓際なのはいいけれども、景色は向かいの病棟が見えるくらいで良くはない。それでも外を感じられるだけマシだとため息をついた。
「どうしたの? ため息なんかついちゃって」
ベッドの傍らに座る女が男に話しかけてくる。
「そりゃ、ため息くらいつきたくもなるさ。仕事に穴を開けてあの上司が何て言うか」
「仕方がないわ、病気なんだもの」
仕方がないと言いながら、女は男をなだめるように笑った。
彼女とは付き合ってもう長い、そろそろ結婚を考えているがなかなか言い出せずにいる。こんなつまらない事で心配をかけてしまい、男は申し訳なく思っていた。
「いけない、私もう行かなきゃ」
「ああ、ありがとう」
「また来るわ、早く良くなってね」
そう言って女は病室を出ていった。
彼女も時間の無い中、合間を縫って見舞いに来てくれている。彼女のためにも早く体を治さなければと男はいつも考えていた。
「やあ、いつもながらいい娘さんだね」
次に声をかけてきたのは相室になった老人だった。年のわりには若い印象を受ける人物で、男と同じく内臓の疾患で入院しているのだという。
「ありがとうございます、僕もいつも助けられてますよ」
「はは、正直だね。私も若い頃はモテたものだが、今は家族もないから羨ましいよ」
老人の言う通り、たいした期間ではないとはいえ男が入院してから一度も老人を見舞った人間を見た事が無い。
だが、そんな事を感じさせない老人の陽気な人柄に男も前向きな気分になっている。相室になった人間が当たりだと病気も早く治りそうだと、男は常々感じていた。
「早く良くなって帰りたいですよ、この病院は腕が良いと評判ですから心配はしていませんけどね」
男の入院するこの病院は、たいして大きくもないそこそこの総合病院といった様子だ。しかし街の噂では腕の良い医師が揃っていて、滅多に死人を出すことは無いのだという。
幸いにも家から近いという事もあり、少しでも早く良くなればいいと男はこの病院に来ていたのであった。
「……それなんだがなあ」
ふと、老人が少し怪訝な顔をした。
「あくまで噂だが、この病院がやたら評判がいいのは妙な事をやってるって話があるんだ」
「妙な事、ですか」
男が聞き返すと、老人は少し身を乗り出して小声で囁く。
「なんでも、この病院の地下には奇妙な社があってな……。年に一度、そこに生贄を捧げてるなんて噂なんだ」
「な……!?」
突拍子もない話だ、この現代にそんなオカルト話があるわけがない。
そう言った意味で驚いている男の表情を見ると、老人はいつもの調子でケラケラと笑い出した。
「ははは、噂だよ噂。こういう所にはそういうものが付きまとうものなのさ」
「もう、驚かせないでくださいよ」
「まあ、もし本当ならそろそろ次が必要な頃かね? たとえ私みたいな者でも少しは世の中に貢献できるってもんかねえ」
老人は冗談だと笑いながら言ったが、その目は笑っていなかった。
***
深夜、男はふと目を覚ました。
昼間に変な話を聞いたものだから嫌な夢を見てしまった。喉も渇いているしトイレにも行きたい。
男は廊下に出て薄明かりの中を歩いて行く。当然ながらあの老人の話を信じているわけではない、でも気にはなってしまっている。
そうでなくとも夜の病院というのはどこか不気味だ、手早く済ませてベッドに戻ろうと、男は少し速足になった。
トイレは済ませたがこの病院には自販機が一階にしかない、面倒くさくはあるがこのまま戻っても寝付けそうにないので、男は仕方なく一階まで降りる事にした。
「ふう……」
ペットボトルの水を一口飲んでため息をついた。ようやく落ち着いたところで部屋に戻ろうとしたその時、男は奇妙なものを見つけてしまった。
それは地下へと続く階段だった。
「あれ、こんな所に下り階段なんてあったかな?」
そこそこの大きさの病院だ、地下室くらいはあるだろう。しかしこんな場所に階段があったかはよく覚えていない。
それに病院の地下室なんて安置所とか近寄りたくない場所だと相場が決まっている、それでも男の足は自然と階段の方へと向かっていた。
何故こんなものに興味を持ってしまったのかはわからない、理由があるとすれば例の噂話が原因だろう。そのせいか、ただ地下へと続く階段のわりには妙に長く感じた。
しばらく下っていくと、階段の先に扉が一つだけあった。鍵はかかっていない、男は怖いもの見たさでついその扉を開けてしまった。
「……なんだ、これは」
男は目の前の光景に驚きの声を発した。
薄暗い中見えた光景、そこは霊安室などではなくむき出しの岩盤が見える洞窟になっており、一番奥にはぼんやりと小さな祠のようなものが見えた。
これではあの老人が言っていた噂と同じではないか、男はショックを受けながらもフラフラと祠へ向かって歩いて行く。
「おや、あんた誰だね」
その時、突然何者かに声をかけられた。
「うわっ!」
こんな場所に誰かいると思っていなかった男は驚きのあまり尻餅をついてしまった。
何てこった、こんな所で誰かに見つかるなんて、きっとただでは済まないに違いない。男は恐怖した。
「あんた大丈夫かね? ケガしてなきゃいいんだけども」
しかし、男の怖がりようとは裏腹に、話しかけてきた人物は穏やかな様子だった。
「ここの患者さんかね? 私は病院の職員で、この御社を管理しとるカミシロっちゅうもんだよ」
「あ、ああ、そうなんですか……驚いて失礼しました」
男はゆっくりと立ち上がり、ばつが悪そうに愛想笑いをした。
カミシロと名乗る初老の男性はいかにも事務員といった格好をしており、そこには怪しさの欠片も見られなかった。
「それにしても、こんな所に社があるなんて……」
「驚いたかね? まあ他じゃ見られないかもねえ。これはこの病院の守り神様みたいなものでね、もう何十年もここを助けてくださってる」
誰が何を信仰しようと勝手だがここは病院だ、そんな風に言われるとかなり不安になってくる。
「いや、しかし病院が神頼みというのは……」
「いやいや、もちろん全部が全部頼り切りなわけではないよ。腕の良い先生方はちゃんといるからね、それでも届かないようなところを助けていただくのさ」
入院している身としてはすべて医学で賄ってほしいものだと男は思った。そんな男の考えを見透かしたかのようにカミシロが笑う。
「信じるかどうかは自由ですけど、ご利益は確かなものですよ。うちの病院じゃあ年に一人しか死人を出していないのがその証拠です」
「……ずいぶんと数字が具体的なんですね」
ふと、男の足に何かが当たった。薄暗さに目が慣れてきたのもありよく見てみると、それは大きな岩でできた土台のようなものだった。
ちょうど人ひとりが横になれるくらいの大きさがある。そして、その岩の中央付近からどす黒い染みが模様のように広がっていた。
「……ひっ!」
何か異様なものを感じて男は息をのんだ。
「数字が具体的なのはそういう約束になっていますからね。年に一人心臓を捧げる、まあ人身御供というやつですか」
相変わらずカミシロは笑顔だが、まるで底なし沼のようなその目に恐怖を感じた男は思わず走り出す。一刻も早くここから出なければという気持ちが大きくなっていった。
「それにしても普通はここには来られないんですけどねえ、もしかしてあなたが気に入られたのですかねえ」
カミシロの言葉を背中で聞きながら男は走った。
どこをどう移動したのか無我夢中でわからなかったが、いつの間にか男は自分のベッドに戻っていた。
男はそのまま意識を失うように眠りにつき、再び目を覚ます頃にはすでに朝になっていた。
(昨夜のはいったい……? とにかくこの病院にはいられない!)
男は意を決し病院から抜け出そうとする。しかしその度に看護師や医者に見つかって病室に戻されたり、時には体調が悪化しへたり込んでしまうなどといった事があり、一歩も病院から出られないという事態に陥っていた。
(まずいぞ……このままでは……)
男の中で不安と恐怖が募っていく。それにつれて疑心暗鬼にも陥り、出入り口でお見舞いに来た彼女とばったり出くわした時など、思わず「お前もあいつらの仲間なのか」と口走ってしまいそうになるほどであった。
(このままでは……このままでは……)
夜の闇の中、まるで子供のように頭から布団をかぶり震える男。
そんな時、ふと隣の老人の咳払いが聞こえてきた。その瞬間、男の脳裏にある考えが浮かぶ。
(そうだ……、先に誰かがなってくれれば……!)
考えてみれば、そもそもこんな恐ろしい思いをしているのは老人の噂話が原因だ。それに老人はもしそんな事が本当にあるのならば自分がなりたいと言っていた気がする。男は一つの結論に至った。
(そうだ、この老人もそれを望んでいる……)
こうして男は同室の老人を殺害することに決めた。
そうなると次に問題になるのはその方法である。たとえここで助かっても、社会的に死んでしまっては意味がない。
当然ながら男には人を殺した経験など無いし、その手の小説やドラマをあまり見るほうではなかった。もっとも、見ていたところで役には立たないだろうが。
(ならやっぱり事故にみせかけて……)
男は病院内をウロウロと歩き回っている。もちろん、殺害方法を思案するために。
ああでもないこうでもないと様々な場所や道具を見て回ったが、結局シンプルに階段から突き落とすことにした。
確実性もなくリスクが大きい方法であったが、男にはもう考えている余裕はなかった。
(早くしないと、こうしている間にもこっちが……)
方法は決まった、後は人気のない間にここにおびき出して決行するのみ。男は逸る気持ちを抑えながら病室へと戻っていく。奇妙な高揚感すら感じた。
病室の前まで辿り着くと、何やら騒がしい事に気が付いた。
慌ただしく動いている看護師に話を聞いてみると、同室の老人の容体が急に悪化したらしい。緊急手術のために大急ぎで運び出されているところであった。
それからしばらくして、同室の老人が死んだという知らせが入ってきた。
隣人が消え、がらんと広くなった病室で、男は自分の口を押えている。
(よし! よおしっ!)
そうしていなければ思わず叫んでしまいそうだった。
生贄は捧げられた、これで自分はもう大丈夫だ。男は重しが取れて解放されたような気分になっていた。
その日の夜、男は再び病室を抜け出して廊下を歩いていた。
全てが終わった事を確認するため、あの社に向かっていたのだ。あの時は恐怖で逃げ帰ったが今はもう恐れるものなどない、カミシロという男にも一言言ってやろうと思っていた。
「……あれ?」
だが、男はあの社に辿り着けなかった。
それどころか向かう道すら見つからない。あの日利用した自販機はある、でもそのすぐ近くにあった下り階段が影も形も無くなっていた。
「そ、そんな馬鹿な!」
何度確かめても階段は無い、よく似た違う場所かもしれないと探し回るがそれでも見つからない。
たまりかねた男はナースステーションに立ち寄り、地下やカミシロの事を聞いた。
「カミシロさん? そんな名前の従業員はおりませんけど。そもそもうちに地下はありませんよ」
看護師の答えに男は殴りつけられたような衝撃を受けた。
では自分が見たのは何だったのか、噂を気にするあまり妄想を見たのか、それとも単に夢だったのか。
その瞬間、男は急に我に返った。
くだらない噂話で妄想に振り回され、あやうく身勝手な理由で人を殺すところだった。平時ではありえない自分の行動にパニックに陥った。
「……うっ!」
男は膝から崩れ落ちた。呼吸が荒い、内臓が痛む、うまく言葉が出ない。
病気の症状が悪化したのか、男はうずくまって身動きが取れなくなった。
男が意識を取り戻した時、そこは手術室だった。
倒れたのが病院内の事だったのですぐさま処置が行われ手術となったのだろう。
麻酔が効いているらしく、ぼんやりと意識はあるが体は動かない。
「――予想外――たね」
声が聞こえた、担当の医師が何かを話しているようだ。
「本人も乗り気だったのに――心臓が悪――使えないなんて」
「おかげで――今年は二人になって――」
「こればかりは神頼み――なに、手術の失敗なんて――」
断片的に会話の内容が聞こえてくる、しかし、麻酔が効いているせいもあり頭がぼんやりとしてうまく理解できない。
そのうち、近付いて来た医師の顔が視界に入った。キャップとマスクの隙間から見えたその目が底なし沼のようにどす黒く見えた。
何が現実で何が幻なのか、もう指一本動かせなくなっている男に確かめる術は無い。
そのうちに男の意識は白い闇の中へと消えていった。