6.怨嗟
「人質が解放された……? いや、これは――」
――僕は違和感に気付く。
このタイミングで、あちらが動くのは不自然だった。
何故なら圧倒的に有利な状況を、あえて変動させる必要性がないからだ。父さんとレイアースは瞬時に反応し、その人たちの安全を確保するために行動する。
しかしこちらは、いったん立ち止まり考えた。
そして、至った結論は……。
「……どう考えても、誘われてるな」
そうだ。これは、明らかに何者かを誘き出そうという罠だった。
あえて隙を作ることで、このテロの首謀者は誰かを混沌の中に引きこもうとしている。そして僕の中では、もうそれが誰なのか答えが出ていた。
「赤き賢者レッド、ご指名か」
一部、感覚によるものもある。
強く感じるのだ。あの黒き者が僕を誘う、その手招きを……。
「良いだろう。そちらがその気なら、乗ってやる」
だが、行くしかないだろう。
その理由は決まっていた。僕は理想の賢者への道を曲げられない。
だから、相手の術中に嵌ろうとも行かなければならなかった。これは決して、そうすることを強いられているわけではない。僕が選んだ道だった。
「やっぱり、いないな……」
そして最後に、出てきた人々を確認する。
泣き崩れる者や、怒鳴り散らす者。そこには様々な人の顔があったが、だけども僕の探している人物の顔はやはり存在しなかった。
僕は足音を消してその場を後にしながら、その人の名を口にする。
「ユリウス、無事でいてくれよ」――と。
でも、分かっていた。
その願いは、実現がかなり難しいものであることを……。
◆◇◆
女子生徒の表情は恐怖に歪んでいた。
それもそのはずだ。拘束され、首元に刃物を突き付けられ、平静でいられる者の方が少ないだろう。年端もいかない少女であるのなら、なおさらだった。
ユリウスは変わらぬ劣勢に、身を固くする。下手に動けばその女子生徒だけではない、自らも陰に控える反教団員によって蜂の巣だ。
「そんなに、私が憎いのか――黒き始祖」
そのために、彼が取った選択は時間稼ぎだった。
相手の正体に心当たりはあったものの、ユリウスはあえてそれを伏せる。その名を口にしてしまえば、きっと何もかもが終わってしまう。そう思ったから。
そんな彼の心の内を読んだように、黒き始祖は愉快そうにこう言った。
「ククク――その問いは私に向けているのか? それとももう一人、友だと思っていた男に向けて言っているのか? どちらにせよ、それは愚問だな」
「くっ……!」
返ってきた無慈悲とも思える言葉に、ユリウスは歯を食いしばった。
分かっている。もう、道は別たれている。そのはずなのに、まだ一縷の望みにかけようと思ってしまう。そんな自分が、甘い自分が彼は嫌になった。
願うなら、まだやり直せる道が残されているのではないか、と。
そう考えてしまう自分が……。
「いいだろう、せっかくだ。昔話をしようか……ユリウス」
「な、に……?」
そう思っていると、不意に黒き始祖はそう口にした。
「なにを考えている……?」
「気紛れだ。もう一人の特別ゲストがやってくるまで、時間がある」
「もう一人、特別ゲスト……だと? なにを言っているんだ。プレ――」
ユリウスは無意識にその名を出そうとして、止まる。
黒き男はその様子をまた、おかしそうに見守りながら嗤った。そして相手に口を挟む暇を与えずに、このように語り始める。
「あるところに、神童と謳われた少年がいた」――と。
それは、誰のことだったのだろう。
おそらくこの場でそれを知っていたのは、二人だけだった。
「その少年は、おおよその大人が出来ないであろうことを容易くこなしていた。それ故に自身もまた、己が神に選ばれた天才なのだと信じて疑わなかった。それこそ、かの大賢者ヴィクトルに並び立つと、信じて疑うことがなかった」
「……………………」
口調は次第に淡々としたものに変わっていく。
「だが、それは間違いだった。いいや、間違いにさせられたのだ。自らよりも優れた者の到来によって、その尊厳は著しく傷つけられた。そう、貴様――ユリウスの存在によってな」
そして、ついに感情は失われた。
だがそれでも、黒き始祖の言葉は止まらない。
「お前に分かるか? ユリウス。今まで自分を認めていた者が一人、また一人と、傍から離れていく苦しみが。今までの言葉がすべて間違いだった、と。そう、真綿で首を締め上げられるかのように突き付けられてくる現実の、その恐怖に怯える日々の苦しみを……!」
熱はない。
その言葉には、冷たさだけがあった。
しかしユリウスにとってそれは、何物よりも熱をもったもの。
「やがて、少年は気が付いた。いったい何が間違いだったのか、その正体にな。それはな、自らを取り巻くすべての環境だった。すなわち――」
そうして、それはついに爆発した。
「貴様という存在がなければ、私は優秀でいられたのだ! ユリウス、私はお前という存在によって殺された被害者なのだよ! 恵まれた、苦労を知らぬお前の存在によってな!!」
黒き始祖は刃物を握る手に力を込める。
少女の首に、その鋭利な切っ先が食い込む。
「ひっ……!」
声すら上げられない。
彼女は涙目になりながら、ユリウスを見た。
「やめろ! これ以上、その子に手を出すのなら――」
「ク、クク……ククククククク、クハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
「なっ……!?」
それに思わず彼が声を上げると、黒き男は身体をのけ反らせるほどの大笑いをしてみせた。建物の中に響き渡るそれに、ユリウスは目を見開く。
やがてその声が収まると、今度は冷淡なものが耳に届いた。
「さぁ――どうやら、特別ゲストが到着したようだ」
「なん、だと……?」
ユリウスは彼の言葉に、ハッとする。
そして、指し示されたところに現われた人影を見た。そこにいたのは――。
「赤きローブ、小柄な身体……まさか!」
答えはすぐに出た。
だが、それを口にするより先に黒き始祖がこう言った。
「ようこそ、赤き賢者レッド。いいや――」
低く、地を這うような声色で。
「リード・シルフド」――と。
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