第一話 図書館にて
「――本当に、いつも図書館にいるのね、アレックス」
不意にかけられたその声によって現実に引き戻される。
図書館で声をかけられる、という珍しい状況に僕はいささか驚いていた。
僕が図書館で本に熱中することは珍しくない、と言うかいつものことであるが、そこで声をかけられることは滅多にない。この図書館は、中で本を探したり読んだりする生徒がほとんどいないからだ。というのも、今僕がいる場所、この図書館の性質に理由がある。
ここ、ダスティン魔導学院の図書館は国内でも有数の魔導書を有する大図書館として有名であるが、同時に最も奇妙な図書館としても知られている。図書館に収められる数多の魔導書の魔力によって、様々な不可思議現象が発生するからだ。
中でも一番厄介なのは書架の間の空間がゆがめられていること。隣の書架に移動しようとしただけで別の階にまで飛ばされるくらいは日常茶飯事。数メートル先に見える書架にたどり着くのに丸一日かかることもある。書架の間にただ立っているだけでも迷子になるという噂もまんざら眉唾とは言い切れない。
その他にも、読むと本の中の世界に取り込まれる魔本や見るものを惑わせる魔導書の数々など。魔導に長けてそれらの脅威を看破できる人間ならともかく、一般の生徒はまず深入りしようとはしない。ほとんどの利用者は、もっぱら司書さんに頼んで目的の本を借りるだけである。
そんなわけで、この図書館の中で司書さん以外の他人に合うことはかなり稀だ。さらに、その声の主が”彼女”であるのはとても意外だった。
「珍しいね、マーシャ。こんなところにいるなんて」
「あら、私が図書館にいたらおかしい?」
ちょっとムッとした感じでマーシャがそう言った。
まあ確かに、今のは言い方が良くなかったかもしれない。
マーシャ・ローランド。
王国南部の騎士爵ローランド家の長子である彼女は、学院でも有数の実力者。有名なのは実技の能力ではあるが、負けず嫌いな彼女は座学でも手を抜いたりはしない。優秀で勤勉な生徒だと教授たちの覚えもいい。
見かけたことがないとはいえ、図書館に訪れたこと自体は何度もあるだろう。結構な数の本も読んでいるかもしれない。だから、「図書館にいるのが珍しい」なんて不勉強みたいな言い方をされてはムッとしてしまうのもおかしくはない。ちょっと反省。
ただ、今僕が言いたかったのはそう言うことではなく…
「いやまあ、図書館にいるのが変だとは言わないけど…」
「そうでしょう?」
「……ただ、マーシャって図書館の『中』で出来ることあるの?」
「――」
ぴしりとマーシャが固まる。
そうだろうとは思っていたが、やっぱり。マーシャは図書館の不可思議現象を看破するだけの能力はないのだろう。
実技、つまり魔導の運用には長けているマーシャであるが、この図書館ではむしろ魔導の知識が物を言う。それも、学生として優秀といった程度ではなく国家魔導士として有能といって差支えないレベルのそれが。
マーシャは座学でも優秀な生徒ではある。しかし、あくまで騎士としての能力を重視する彼女は際立って深い魔導の知識があるわけではない。一応生徒の中では有数の知恵を持った魔導士ではあるのだが。
この図書館は納められた魔導書の魔力によって不可思議な現象が発生しているので、その脅威を看破するためにはそれらの魔導書に対抗するための知識が必要となる。しかしながら、大抵の魔導書は「古い」魔導士が書いたものであり、そこに書かれた魔導の知識も必然と古いものになる。そういったものの中には近代魔導の発展の中で不要と打ち棄てられた知識もかなり多いため、今の時代の魔導士として優秀であってもこの図書館では通用しない場合が多い。
僕の場合は師匠が古いタイプの魔導士であったためそういう古い魔法の方が得意なくらいだが、騎士の家系のマーシャはそうではないだろう。近代的な戦いでは、深い魔導の知識がなくても均一の戦力を揃えられるようにするため、単純な魔法を効果的に使う戦い方が主流。魔法自体が歴史の中で洗練されてきているため、魔導の深い知識がなくとも大きな効果を発揮できるのだ。マーシャも当然そう言う魔法の使い方に慣れているので、戦場では無駄になるような過去に打ち棄てられた知識までは網羅していないはず。
そう思っていたのだが…
「――別に、何もできないってことは……」
「…へえ?」
反論するマーシャ。
確かにマーシャの知識がどれほどの物かというのは想像の範囲でしか分からないので、彼女が実際に図書館の不思議現象にどれくらい対処できるのかは知らない。ローランド家としては詳しくなくても、個人の趣味で古い魔法を学んでいる可能性はある。若干目が泳いでいる気がしないでもないが、まあできるというならできるのだろう。多分。
そう思って目で促すと、一瞬ちょっと怯んだ風のマーシャはグッと気合を入れて、ちょうど近くを横切った空飛ぶ魔導書に手を伸ばし――
「ていっ…!」
「……」
スカッと。
彼女の手は宙を泳ぎ、ひらりと身を躱した魔導書は書架の奥へと消えていった。
そして訪れる気まずい沈黙。
「…今の魔導書は妖精の生態について書かれてるみたいだから、妖精を捕まえるための知識がないと捕まらない本だね」
「……」
沈黙に耐えかねて説明をすると、マーシャは耳までカァッと赤くなり、俯いてしまった。
別に追い打ちをかけたつもりはなかったのだが。
そのまましばらくマーシャの様子を眺めていると、徐に机の向かいに座り込んだマーシャは、そのまま机に突っ伏してしまった。
「~~~…!!」
そして何やらうなり声をあげる。
――恥ずかしがるなら最初からやらなければいいのに。
ため息を一つ。
とはいえ、これはいつものパターン。
マーシャはかなりの意地っ張りなので、こうやって出来ないことを出来ると言って手を出しては、完膚なきまでに失敗して羞恥に悶えるのはまあまあ良くあること。基本的に優秀なくせに、変なところで意地を張ってはこうやって失敗するのだ。別にこの図書館で本を捕まえられなくても気にする必要はないだろうに…
「まあほら、学院中でもあの本を捕まえられるのって多分十人もいないし…」
そう言ってなだめながら、目の前に突っ伏した彼女の頭を優しく撫でる。無駄に失敗してぐずる彼女を慰めるのももう慣れたものだ。
フワフワの金髪をそっと梳いていく。仮にも騎士爵の長子、軍人の卵とは思えないほど、彼女の髪は柔らかで綺麗だ。子供のようにぐずるマーシャの可愛さもあって、正直なところ、彼女を慰めるこの時間は結構好きだったりする。マーシャには悪いけど。
「……」
僕の言葉に対するマーシャの反応はなし。まあこれも予想通り。
これまでの経験からして、マーシャがこの状態から立ち直るのにかかる時間は十分から二十分くらい。今回は大した失敗ではないので、もうちょっと早いかもしれない。
そのまま、マーシャの頭を撫で続ける。
機嫌が治るまでの間は暇なので、もう片方の手で読んでいた本を広げる。それを察したらしいマーシャが不満そうにうなり声をあげるが、これくらいは許してほしい。自業自得の失敗に、まともに付き合う義理もないのだし。
窓から差し込む光が、ポカポカと周囲を温める。
穏やかな午後の時間が、ゆっくりと過ぎていった。
***
「ところで、用事は何だったの?」
あれから十分ちょっと。
すっかり立ち直ったマーシャは、今は僕が捕まえた『小鬼の伝承』を読んでいる。小鬼たちの間で言い伝えられている話をまとめたものだ。人間の言葉で書かれているとはいえ小鬼の文化について理解していなければ完全に読みこなすことはできないはずだが……まあ、読み始めてから鼻歌交じりに機嫌がいいので、何かしら楽しんではいるらしい。
さておき。
図書館に来てもマーシャにはできることが無いわけで、最初に僕を探していた風だったことから考えても、何か用事があってここに来たのだと思う。
先ほどの流れですっかりうやむやになってしまったが、ひと段落したところで当初の用事が気になってきたのだ。
「…?」
しかしこの反応である。
僕の問いかけで『小鬼の伝承』から視線を離したマーシャであるが、その顔には疑問符が浮かび、どうにも僕の言葉の意味を理解しているようには見えない。疑問符を浮かべたいのはこっちなんだが。
「いや、ここに来た時、多分僕を探してたでしょ?何の用だったのかなって…」
「……あ!」
そして、ようやく当初の用事を思い出したらしいマーシャ。
ただ、思い出した、というよりは「やっちゃった」といった風の反応に若干の不安がよぎる。
「…その、今日の朝にポーラが『図書館に挑戦しようと思うんですけど』って相談に来て」
「またか。頑張るねえ、あの子…」
件の彼女、ポーラ・ザヴィアーは商家の娘で、実力は平凡ながらも熱心な後輩だ。マーシャのことを『お姉さま』といって慕っていて、良くその後ろをついて回っているイメージがある。
実技でも座学でもごく平凡ではあるが、常に新しいことを学ぼうと頑張っている熱心な子なので、いずれ大成するのではないかと踏んでいる。一方で、実力不足でも果敢に挑戦していってしまうので、ちょっと危なっかしいところもあって放っておけないタイプだ。
実際、図書館の不思議現象にいたく感銘を受けたらしく結構な頻度で書架の探検に挑戦しているわけだが、特段深い知識を持っているわけでもない彼女が魔導書の引き起こす現象を看破できるはずもなく。まあ、それでもなかなか頑張って勉強してはいるみたいだが、今だ大した成果は上がっていないようだ。先日も、古い魔法薬の作り方を調べようと奥の方に潜っていった際に、魔導書から呼び出されたアルラウネの幻影に捕まって半泣きになっていたところを見つけている。
「それで、いつものように迷子になったってこと?」
「…多分。もう半日くらい経ったけど帰ってこないし」
「そりゃ大変。っていうか、忘れてやるなよ」
「いやその、さっきのあれで、つい……」
マーシャの自爆に巻き込まれてついつい忘れ去られる後輩。不憫すぎる。マーシャはそろそろ無駄な意地を張らずに自重することを覚えるべき。
「んで、探しに行けって?」
「…えっと、うん。お願いしたくて」
「別に構わないけど。でもそれなら、僕じゃなくて司書さんに頼んだ方がいいんじゃない?」
ポーラを探しに行くこと自体は構わない。僕にとっても彼女は熱心で可愛い後輩だから助けになってあげたいし、僕なら書架に入っても余程のことがなければ迷子になったりしないし魔導書に捕まったりもしない。
ただ、そうは言っても図書館の探索については僕は本職ではない。基本的には司書さんに頼んだ方が確実だし早い。というか、司書さんは定期的に図書館内を巡回しているので、そもそも放っておいてもそのうち救出される。自分の探索のついでに見つけたならともかく、わざわざ僕が出しゃばるようなことではない。
「いや、その、司書さんに任せるのが一番なのは分かってるんだけど…」
「うん。ならいいんじゃない?」
「えっと、相談されたとき、つい『迷子になったら私に任せなさい!』って言っちゃって……」
「……」
マーシャの自爆芸再び。
どうしてこの子は優秀なままではいられないのだろうか。というか、ポーラならマーシャが図書館の不思議現象に太刀打ちできないことくらい知ってそうだけど。
そんな僕の内心は知ってか知らずか、冷や汗をかいたマーシャは要求を一つ。
「…だからその、ポーラのとこまで私を連れて行ってくれたりしないかなって、ね?」
そう言って、小首をかしげてにっこり。あざとい。
しかしながら、そんな風に可愛く言ったところで、毎度マーシャの自爆に付き合うつもりはない。たまには自分の意地っ張りの始末を自分でつけるべきなのだ。
「お断りします」
「ごめんなさいちょっと待って私が悪かったわポーラに恰好悪いところ見せたくないのお願いしますぅ~~……」
途端に涙目で捲し立てるマーシャ。全くこの子は…
あまり甘やかすのも良くないとは思ったのだが、涙目で縋り付いてくる彼女を放っておくのも忍びない。
仕方なく、縋り付く彼女の頭を撫でつつ、返答をする。
「…分かった。でも、次は協力しないよ?」
「ありがとうございますぅ~~~…!」
ため息を一つ。
結局、いつものパターンだ。いけないとは思いつつも、懇願する彼女を粗略に扱えない。
――”これ”がなければ、素直に尊敬できるんだけどねえ…
色々惜しいと思う。ただ、こういう隙がなければ劣等感で友人として付き合うこともできなかったかもしれないし、嘆いても仕方ないのかもしれない。
結局はifの話でしかないわけだし。
そんなわけで、とりあえずはとっとと迷子のポーラちゃんを探しに行ってやろうと、縋り付くマーシャを上手いこと引きはがしつつ、僕は書架の方へと歩を進めていった。