プロローグ
短編寄りの中編予定
それは、まるで天災のような暴威であった。
数多の生贄の魂を啜り肥大化した邪竜が暴れまわり、その余波で木々がなぎ倒される。
「くそ、ただの薙ぎ払いが、まるで竜巻みたいだ…!」
邪竜の一撃を躱しつつ、心の中で悪態をつく。
長きにわたり生贄を要求する悪竜がいると聞いて義憤に駆られて討伐に臨んだが、討伐の対象は予想を大きく上回る力を持っていた。自分の知る「竜」の力をはるかに上回る暴威。
――竜は生贄を喰らうことで力が増すと聞いたことはあるが……これ程までか?!
過去に竜と戦った経験は何度かあった。だが、この邪竜はそのどれより力強い。過去の経験から討伐可能であると踏んで戦いに来たわけだが、ここにきてその見通しの甘さを実感させられた。
『ゴルォオオオオオオアアアアアアアアアアア…!!!』
ビリビリと空気を震わす邪竜の咆哮。
猛り狂う邪竜が、追撃を加えんと突進する。これもかろうじて躱すが、突進の余波で周囲の木々や岩石がことごとく吹き飛ばされていく。
「人里から離れてるとはいえ、地形が変わるほど暴れるんじゃないよ……”火炎弾”!!」
突進の隙を突いて放った火球の魔法が過たず邪竜の頭部に直撃する。完璧なタイミングで邪竜の隙を突いた一撃は、しかし邪竜になんの痛痒も与えることができなかった。
突き付けられる、圧倒的なまでの生物としての力の差。
ゆらりと頭をあげた邪竜が、ゆっくりと振り向きながら語りかける。
『愚かなり、矮小なる地虫よ。その程度の力では我の体を傷つけるなど叶わぬ』
「――ぬかせ、クソトカゲ。そのでかい面を吹き飛ばしてやる!」
その力の差に恐れを成す自分の心に叱咤を入れるように、竜の言葉に対して悪態を返す。
ほとんど負け惜しみのようなことまではあったが、邪竜は苛立たし気にこちらを睨みつけた。
『……羽虫風情が』
「墜ちろトカゲ!”火炎連弾”!!」
再度火球を放つ。今度は、さらなる魔力を籠めた五連の炎弾。
並の魔獣であれば跡形もなく吹き飛ぶであろうその攻撃。しかし邪竜はつまらなそうに鼻を鳴らすと、その口から大火炎のブレスを吐き出してその炎弾を消し飛ばす。
『ゴアァァァアアアアアアア!!』
「――くそ、マジかよ!!」
炎弾を消し飛ばした余波そのままにこちらまで焼き尽くさんとする邪竜のブレスを、ギリギリのところで躱す。あまりの熱量に全身が焼け付いたような錯覚を覚えるが、その熱気を務めて無視して、木の陰に隠れる。邪竜からすれば小手調べ程度であろう反撃で焼き殺されそうになった事実に冷や汗が止まらない。
一拍おいて、状況を確認する。
周囲は邪竜の突進とブレスで、半ば更地のような状態になっている。燃え上がる炎を背景に立つ邪竜の姿は、まさしくおとぎ話に登場する邪悪な竜そのまま。
人々を恐怖の底に陥れ、生贄をむさぼる邪悪な竜。
数多の戦いを経て護るための十分な力を得たと思っていたが、この邪竜の前ではまるで羽虫のごとし。
――だが、それでもこいつを野放しにするわけにはいかない…!
再び湧き上がる恐怖を、吐息に乗せて吐き出す。ここでこの竜に屈すれば、人間ごときに反撃を受けたことに怒りを覚えた邪竜はさらに暴れまわるだろう。その怒りは、これまで以上の生贄を以てしても静まるかどうか怪しい。怒れる竜が討伐されるまでに、一体どれほどの人間が犠牲になるだろうか。
――ここで、何としても打倒する。
覚悟を決め、木の後ろから飛び出して邪竜を睨みつけたまま迎撃態勢を整える。
「……っは、ブレスだけは大したもんだな。それならトカゲらしく、自分を黒焼きにしてみたらどうだ?」
『つまらん。つまらんぞ、虫けら。その程度の力で我が前に立つか』
こちらの軽口を無視した邪竜が、吐き捨てるようにそう言う。これまでの攻防が物語る、厳然たる力の差。確かに敵は強大で、それに比べてこちらの力はあまりに矮小。
『ふん、だがそれも当然か。ここまでの力を手にした我に、もはや何物も敵うはずなし……』
「…でかい図体らしく、いやに偉そうだな、トカゲ」
だが、それでもまだ打つ手はある。だから、ここで諦めるわけにはいかない。
邪竜の言葉を否定するように、渾身の一撃を繰り出す。
「『その程度』かどうかは、これを見てから考えるんだな……”炎竜波”ァ!!」
人間と竜との種族の格差。それによる圧倒的な魔力量の差によって、邪竜に痛手を与えるのは容易ではない。
だが、この魔法は違う。
邪竜のブレスによって燃え上がる周囲の炎が巻き上がり、天から降りそそぐ流星のごとく邪竜に襲い掛かる。それまでに繰り出した火炎の魔法よりも、遥かに大きな炎の奔流。
『ぬ、貴様…!!』
邪竜がその翼に魔力を纏わせ、防御態勢を取る。
その防御の上から、炎の津波が邪竜を叩く。
『ぐ、ぐうぅぅぅぅうう…がぁあああ!!』
その破壊の奔流は桁外れの威力で邪竜を打ち据え、翼の防御があるにも関わらず無視できないダメージを与えた。
これまでに放った魔法とは一線を画す強大な力。
『貴様……その力、どこで手に入れた…?!』
「さてな。これから倒されるお前には関係ないだろ?」
――よし、いける…!!
内心の安堵を隠し、邪竜の言葉に軽口を返す。
この魔法は周囲の精霊の力を借りて放つ魔法。それゆえ周囲の状況に左右されるという欠点はあるが、種族の力の差を超えて竜にすらダメージを与えられるほどの強大な力を発揮することもある。
正直、この魔法でもダメだったら万事休すというところではあったが、通じるのであれば希望は残る。
『ふざけるな…!その力は、貴様ら地虫ごときが扱っていいものではない!!』
「…流石に気づくか。だが、お前にその言葉を言う資格があるとでも?」
『地虫が……我を見くびるか!!』
邪竜が破れた翼を広げ、悠然と立ち上がる。
山のような巨体が眼前に立ちふさがり、太陽すらその陰に隠れる。
深紅の巨体が周囲に燃え盛る燎原に彩られ、怒りに燃えるその体躯はまるで火山の如し。
『我は”火山の王”アル・ボラス!貴様のごとき地虫が評せる存在ではないわ!!』
怒りを纏った邪竜が突進する。大地がうなるように胎動し、その振動で視界が揺れる。
その巨体の全力を注いだ突撃は、先の一撃とは比べ物にならない破壊の嵐となって殺到する。
大地すらも巻き上げる一撃は、恐ろしい速さで瞬く間に眼前まで迫ってきた。
「ッ!とぉっ…!!『防護壁』!」
その突進をかろうじて躱すが、余波で巻き上げられた土石が礫となって襲い掛かる。
かろうじて張ることのできた防壁がなければ、全身を打ち据えられてやられていたかもしれない。
「無茶苦茶な…”火炎弾”!!」
邪竜に対して牽制の一撃を放つ。
”炎竜波”が有効なことは分かったが、あの魔法は発動後の隙が大きい。
先ほどのように邪竜が油断している状況でもなければ、ただ放っても到底当たらないだろう。
無論、それ以外の魔法が大した打撃を与えられないことは分かっているが、目くらまし程度にはなるだろうかと邪竜の頭部を狙う。
牽制目的の火球が邪竜に迫り――
『ぬ…!!』
邪竜はその火球を恐れるように、大きく身をよじらせて回避する。
先ほどの攻防で、この魔法が何の痛痒にもならないのは分かっている。”炎竜波”で多少のダメージを与えたからといって、この小さな火球が脅威になるほどの状態ではないはずだ。
――まさか、”炎竜波”との区別がついていない?
脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。
思えば、”炎竜波”を打ち込んだ時も直撃寸前までこの邪竜は何の反応もしなかった。その身に迫る直前まで脅威と思わなかったから、回避が間に合わずにとっさの防御を行ったのではないか。
そして、その疑念を裏付けるように。
『…ふん、小癪な。脅威と分かっていれば、むざむざと受ける我ではない』
その言葉に確信を持った。
この邪竜は、精霊の力を感じ取ることがほとんどできなくなっている。
だから、放たれた魔法が近くに迫るまで自身の脅威となるかが分からない。
――勝機だ…!
遥か強大な邪竜を打ち倒すための手段が、手の内に転がり込んできたのを感じた。
「だったら、もっと避けるものを用意してやるよ。”天光”!!」
放ったのは、単純な光の魔法。
それ自体は大したものではない、見習い程度の魔導士でも容易く扱うことのできる基礎的な魔法。ただ、中空にいくつかの光の球を発生させるだけの魔法だ。実体があるわけでもないし、当然当たっても何も起こらない。ただ単に複数の非自然的現象を起こすだけの、練習用の簡単な魔法。
だが、この邪竜にとってはそんなことは分からない。
『く、貴様…!!』
連続して宙に発生した光の球を警戒し、邪竜が身構える。警戒は完全に光球に向かい、こちらへ向ける意識が薄くなる。
そして、邪竜の精神が乱れたこの瞬間が、最大の好機だ。
「”火砲”!!」
『ぬぅ…!!』
火炎の砲撃が邪竜の頭部を狙う。邪竜の意識の隙を突いた一撃。
邪竜はかろうじてそれを躱すが、とっさの回避に体勢が大きく崩れる。
「連破ァ!!」
そして、その隙をさらに広げるべく、火炎の砲撃を連発する。
”火砲”は実際のところただの火炎魔法であり、先ほどの”炎竜波”のような威力はない。避けずに食らっても何の痛痒にもならないだろう。
『…く、ォああ!』
だが、「今の邪竜」にはそれを見分ける術は無いようだ。
だからこそ、本来であれば防御の必要すらないその連撃を、邪竜は必死に避けていく。
連撃の回避で邪竜がたたらを踏み、地面が大きく揺れる。
――ここだ!!
そして、その回避の隙こそが俺が求めていたもの。
「もういっちょ、”炎竜波”!!」
体勢が崩れて回避もままならない邪竜に対して、もう一度”炎竜波”の一撃を叩き込む。
再び巻き上がった火炎の奔流が、今度は防御も回避もできない邪竜を直接打ち据えた。
『グ、ギアァァァァァアアアアアアアア!!!』
邪竜の巨体が崩れ落ちる。いかな邪竜と言えど、完全な形で”炎竜波”を喰らえばただでは済まない。
地に沈む巨体。
邪竜が倒れるその衝撃で、地響きとともに大地が大きく揺れる。
「なんとか、打ち倒せたか…」
強大な邪竜をかろうじて打倒できた事実に安堵し、ゆっくりと息を吐く。
途中で勝機は見えたとはいえ、圧倒的な格上と相対して死と紙一重で戦い続けるのは酷く神経を削る。邪竜の精神の隙を突いて押し切ったものの、正攻法であれば勝てるかは怪しかった。
――いや、だがもしかしたら…
心に浮かぶ疑念を押しのけて、倒れこんだ邪竜の体に近寄る。
まともに”炎竜波”が直撃したので決着はついたと思うが、しっかりと確認するまでは確証は持てない。
木々が燃え盛り岩や土が吹き飛ばされた荒れ地を進み、邪竜のもとへ歩みを進める。
ひときわ大きな倒木を超えて、邪竜の体の前に立った、その瞬間。
突如、邪竜の魔力が大きく膨れ上がる。
『舐、めるなぁぁァァァアアアアアアア!!』
そして、突然起き上がった邪竜が、極大の火炎のブレスを放った。
眼前に広がる、絶望的なまでの炎の奔流。
「…ッ!!『防護壁』!」
かろうじて防壁の魔法が間に合うが、避けることは叶わずそのブレスの直撃を受ける。
眼前に広がる、破滅の炎。
防護壁が破られれば、一瞬とて耐えることはできない。瞬く間に骨も残さず焼き尽くされてしまうだろう。
圧倒的な火炎の嵐を受けてギシギシと軋む光の防壁に、必死で魔力を注ぎ込む。さらにその熱で体がジリジリと炙られるが、いまはそれに対処する余裕がない。
『ゴアァァァアアアアアアアアアアアアア!!!』
さらに圧を増す火炎。
今にも砕けそうな防壁に魔力を注ぎ、邪竜の渾身の一撃を防ぎ続ける。
――こんなとことで、斃れるかよ…!!
そして、永遠にも似た数秒の後。
ついに邪竜のブレスが途切れて、破滅の炎が消え去る。
「…っはぁ!!はぁ、はぁ……」
炎が消え去るのと同時に防護壁が砕け散る。
息を吸うことすらできないほどの全力の防御で、かろうじて大火炎を凌ぎ切った実感。
だが、まだ安堵の息をつくには早い。
邪竜が、鎌首をもたげるようにゆらりと立ち上がり、こちらを睥睨する。
『く……貴様が、虫けらごときが、この”火山の王”アル・ボラスの一撃を凌ぐか…!!』
忌々し気に語りかける邪竜。
その口調は、しかしどこか余裕を欠いたように聞こえる。
眼前には、数多の傷を負ったとて未だ健在の邪竜。
対して、こちらはかろうじてブレスを凌いだものの疲労困憊。
もはや大勢は決したと思われたが、追い詰められているようなのはむしろ――
「…死を装っての不意打ちとは。それほどまでに俺の魔法を恐れたか?」
『ッ、ふざけるな、虫けら!紛い物の竜の力ごときで、我が恐れなど…!!』
竜の力。
それは、先に邪竜を打ち据えた”炎竜波”のこと。
周囲の精霊の力を借りて強大な現象を発生させるあの魔法は、元々は竜族に伝わる技術を模倣したものだ。
大自然の賢者とも謳われる竜族は、その強大な種としての力に加えて、自然と英知を貴ぶ誇り高さを持ち合わせる。精霊と交信してその力を借りる技術は、そんな竜族が長い時間をかけて自然との対話を繰り返すことで生み出した英知の一つだ。
その技術は、そもそもが強大な力を持つ竜族にとっては単なる自然との対話技術の延長でしかなかったが、竜族に比べてはるかに死からの弱い人間にとっては福音だった。
周囲の環境に左右されるとはいえ、状況次第では竜族の強大な魔力を使った魔法に匹敵する現象を引き起こす技術。それを、長い時間をかけて人間でも使えるように再構成したのが、先の”炎竜波”をはじめとする特殊魔法であった。
とはいえ、やはり竜族の英知を人間が十全に扱えるわけもなく。
「…確かに、あの魔法は竜族のそれに比べたら”紛い物”だろうさ」
脳裏に浮かぶのは、この技術を教えてくれた竜族の賢者が、「手本を見せてやろう」と言って様々な現象を発現させたときの記憶。
大嵐で木々を揺さぶり、大河の流れを変え、山火事を一瞬で鎮める。
あの奇跡としか形容できない竜族の大秘術を前にすれば、単なる火炎の奔流を生み出す魔法など、児戯としか言えない。それでも――
「それでも、お前を倒すには十分だ」
目の前の邪竜に届く牙があるのであれば、児戯であっても構わない。
それに…
「あんた、力だけは大したもんだが、知恵も技術もてんでなっちゃいない。生贄を貪るうちに、竜族としての誇りまで忘れたか?」
この邪竜は強大だが、ただそれだけだ。
その力を受け止めるなり、避けるなりすることができれば、簡単に対処できる程度の存在でしかない。
思い起こせば、先ほどまでの戦いでも、邪竜の攻撃は力押し一辺倒。何の工夫もない。
そもそも、竜族はその力をみだりに振るうことを良しとはしない。大自然の賢者の名は、単なる英知だけにより得られたものではないのだ。
”炎竜波”とその他の魔法の区別がつかない点も考え合わせると、この邪竜が竜族としての能力をほとんど失っていることは明白。
――竜族の賢者たちは生贄を蛇蝎のごとく嫌っていたが、「こういう理由」もあったのかもな。
生贄の命を啜るだけで力が増大する日々が、この邪竜の魂を腐らせていったのか。
かつては賢者として称えられたであろうこの竜も、今ではただの理性無き獣。
力で遥か及ばずとも、ただの獣に敗ける道理などない。
「だから、お前なんぞ恐るるに足りないよ。”クソトカゲ”」
戦いの始めに抱いていた恐怖など、今はもう一片も感じなかった。
『ふ、ふざけるなァ!いと高き火山の覇者であるこの我が、地虫ごときに劣るはずがない!!』
「いや、お前はここで終わりだ。次の一撃で、お前を打ち倒す」
『く、あ、黙れ!我は敗れぬ!!死ぬのは貴様だ!!』
「死なないさ。誇りを失った邪竜に、くれてやる魂など一片もない」
激高する邪竜。
その魔力が大きく膨れ上がり、今までにない一撃を繰り出してくる予兆を感じさせるが、もはや恐怖はない。
二度のブレスで燃え盛る燎原は、この邪竜を打ち滅ぼすのに十分な炎の精霊を生み出している。
燃え上がる周囲から炎の精霊を呼び出し、”炎竜波”の魔法を組み上げる。それは、先ほどまでよりもさらに強大な力の奔流となって、周囲に渦巻いていく。
まるで大気が軋むように感じるほどの、二つの魔力の奔流。
『我の眼前から、消え去れ…!ゴアァァァアアアアアアアアアアアアア!!!』
「終わりだ!”炎竜波”ァ!!」
放たれた二つの火炎がぶつかり合い、その衝撃が空気を叩く。
互いの意地を籠めた渾身の一撃が、強大な破壊の嵐となって猛り狂う。
まるで火山が噴火したような火炎の嵐。
だが、二つの力の拮抗は一瞬で、瞬く間に力の天秤が傾いていく。
そして、最後に立っていたのは――