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人格者とかいう幻想

立派な人とはそもそも何ぞや



君には意外かもしれないが、スポーツに優れていることと、その人間の人格が優れているかどうかに関連はない。

勿論、スポーツにも人格にも優れた人間はいるだろうが、それと同じように、スポーツに優れたクズもいるだろう。何故なら運動能力に優れていることと、人格的に優れていることは直接的には関係しないからである。

もっとも、このような話をするのであれば、まずは人格的に優れているとはどういうことなのかを定義しなければならないのだが、残念ながら俺は人格的に優れた人間というのを見たことがないし、よくわからないのでその基準を示すことはできない。だが、人格的に優れていない人間ならば判るので、そちらに寄せて話していこう。

全ての優れた才能と、その人間が人格的に優れているかどうかは関係性を持たない。どんなに優れた能力を持とうが持つまいが、クズはクズだし、聖人は聖人だし、君子は君子だ。ただまあ、協調性を求められることをしているのであれば、そしてそれで成功を収めているのであれば、クズはクズでも表を取り繕えるクズであろう。クズの方向性にもよるかもしれないが、ただのクズであれば優れた人の輪には留まれない。だから取り繕えるクズの方が性質が悪いかもしれない。

あえて言っておこう。俺は差別主義者である。真性のクズを見下しているし、そもそも人間というものが嫌いである。人格的に優れた人間などというものが存在するか疑わしいものだと思っている。人間は己の利のために動くものである。その利というものが他者に理解されるかはともかく。とはいえ、利己的だから悪いというつもりはない。内心がどうあれ、実際にどう行動するのかが肝要である。偽善などというものは存在しない。心からの善でなくとも善は善だ。

善人だと思われたいこと、己の自己満足で動くことが悪いことだとは言わない。後者はきちんと周囲を見よと苦言を呈すべき時もあるが、自己満足とは何よりの報酬である。そもそも全知全能ではない人間にできる善行など、すべて自己満足であろう。何が善く働くかなど、わからないのだから。

それはそれとして、ではクズとはどういうものかの基準を明示しない理由も話しておこう。俺は差別主義者でありクズを見下してお呪い申し上げるが、クズがクズであることを理由に差別され虐げられることは間違っていると思うからである。どんな理由があれ。善行が善行であるのと同じく、どんな理由があれ、悪行は悪行である。相手が犯罪者であっても、相手に危害を加えたり所有物を奪ったりしてもいい理由にはならない。それはただの私刑である。勧善懲悪?公的に任じられた者に任せておけ。

クズがクズであるという以上のことを論おうとすれば、はては個人攻撃になるであろう。だから私はクズはクズであると言うにとどめるのだ。言わなくとも良心あるものなら察するだろうという不遜であるとしてもいい。

人格者というものを語るとき、その者への無礼への寛容さで語るものはただのクズである。相手がどのような人格をしていようと、否、どんな相手に対してであれ、無礼を働くことは恥ずべきことである。己は優れた人格を持ち合わせていないと自ら喧伝するようなものである。礼儀というのは、作法は相手に合わせて変えるべきかもしれないが、相手によって出したり引っ込めたりするものではないのである。人として、礼儀を欠いて良い相手などない。勿論、クズであろうと人格者であろうとそれ以外であろうと、礼を尽くすべきである。

人を人格者たらしめる、或いはクズたらしめる一番の要因が何かというのは難しい問題である。個人的には生まれついての性格が一番、ついで幼少期からの周囲の環境や教育から学んだものであろうと考えている。全ての人間は同じ状況に置かれても同じ行動をとるとは限らない。それが多様性というものであり、教育と人間の限界である。人に好かれる人間が嫌いという人間もいる。困っている者を見て助けようという人間がいれば、更に陥れようという人間もいる。不快な人間がいればそっと離れる人間も攻撃する人間もいる。多様性である。多様性は悪ではない。ただその自己中心的な行動が周囲の人間の害になるだけである。もっと直接的に、感情的に言うのなら、俺はクズのクズな行動が不快だということである。

俺は己を立派な人間だとは思っていない。差別主義者である以上、立派ではないし、聖人などではありえない。ただ、己を立派な人間であるように装うことは、そうしようという決意さえあれば可能であろうと思っている。決意とポーズだけであればクズである。故に俺は立派ではないがクズでもない人間に踏みとどまっている。世の一般の人間はもっと、己や周囲の人間が人格者でないことを認めるべきだと俺は思う。

己が人格者だと思っている人間ほど醜悪なものはない。善人は己が善人であるとは殊更には考えない。人格者とはそういう類のものである。自認するものではなく、周囲の推測・幻想によって語られるものだ。あるいは、そうであろうと努めるものだ。自ら名乗るものではない。





悪事は悪だからしてはいけないというわけではない

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