すき焼きとパソコンと異能バトル
「妹よ。お兄ちゃんはな、異能に目覚めたぞ」
朝日を遮るようにカーテンを閉め切った、かび臭い部屋。
兄はゲームに興じる妹に語り掛ける。
「はぁ?」
胡乱な声を返す妹は色白の肌が荒れ放題で、櫛の入らない長髪も痛みがひどい。まるで日光を嫌う吸血鬼のような姿は、中肉中背、ごく一般的で公立高校の制服を着た兄とは対照的だ。
「お前なら詳しいだろう? 異能力、ミュータント能力、超能力、そういった感じのものだ。兄ちゃんな、その異能に目覚めたんだ。自分でわかる」
「なに言ってんの」
妹は突き放すように告げた。
指がゲームの電源ボタンに伸びる。
兄は瞠目した。
「ど、どうしたんだ!? お前が、自分からゲームをやめるなんて! は……っ! まっ、まさかっ!」
「どうして、自分から言っちゃうの? 異能使い同士って分かったら……」
妹はノートパソコンを手に立ち上がり、兄を見下ろす。不健康な隈に乾いた目がわずかばかり潤った。
「もう、戦うしかないじゃない!」
ノートパソコンを振り下ろす!
兄はとっさに身をかわした。まさか! 代わりに直撃を食らったベッドが叩き割られている! 少女の細腕ではありえない腕力だ!
「ば、バカなっ! そのパソコンはお前にとって命の次に大事なゲーミングノートのはず……!」
「そう、これは私のとても大切なもの。大切で大切で大切にしすぎて、だから私は異能に目覚めた」
ベッドの木片と綿を振り払って現れるゲーミングノートは、無傷。
ノートパソコンを両手で抱え、妹はフレームを優しく撫でた。
「"なにがあってもパソコンが壊れない異能"。これは、逆手に取れば、パソコンは絶対に壊れないイージスの盾にも、最強の槌にもなるんだよ」
「お前、もう自分の異能の応用まで……」
「私だって、何もせずに五年間も引きこもってたわけじゃないんだ、お兄ちゃん」
大きく振りかぶり、妹はノートPCを薙ぐ。
ゴッ! 跳び退った兄の寸前を通過し、本棚にヒビを入れた。
「くっ! やる気なら、俺もやるしかないな」
そう言って、兄は手のひらを前に差し出す。
次の瞬間、底の平らな大きい鍋が手に乗っていた。
「どんな能力であろうとも! 使う隙を与えなければっ!」
妹は鍋の正体を確かめることなく、一気呵成に跳びかかる。兄は鍋でパソコンを受け止めた。
がぃおぅおぅおんおん……鍋が銅鑼のように響く。
「いった……」
妹が自分の腕を抱えた。硬いものを殴って腕がしびれたようだ。
兄は落ち着き払って、底がちょっとへこんだ鍋を下ろす。
「俺の能力は――"どんな状況でもすき焼きを作る異能"だ。やっぱり兄妹だけあって、異能もちょっと似てるな」
「え、どこが?」
「んっ。そっかあんまり似てないか」
速攻で前言を翻した兄は、気を取り直して鍋を改めて取り出した。底のへこんだ鍋では均一に熱が入らない。
そしてもう片手から、白くべとつくブロックが現れて鍋に放り込まれていく。
「それは……牛脂!」
「まずは下準備だ。安物で悪いな。和牛の牛脂なんかも世の中にはあるらしいが」
「く! 油分はパソコンの天敵! でも、そんなもので私のパソコンは屈しない! あと牛脂の良し悪しなんて分かんない!!」
油に一瞬ひるんだ妹だが、すぐにパソコンを掲げる。兄をカドで殴ろうというのだ。危ない!
身をかわした兄はクソ狭い部屋の中を器用に跳び、放られた密林通商の空箱を踏みつぶして着地した。
じゃああああっ! ジューシーかつボリューミーな牛肉の香りが倍増していた。油の弾ける音の鮮やかさだけで、良質な肉だと理解できる。それほどの肉だ。ただちょっと薄い。
「な……かわしながら具材を加えたというの? いや、そもそも"既に鍋が熱せられていた"!?」
「俺のすき焼きに無駄はない。すぐに完成するぞ。ちなみにこの肉は自腹だ。お前相手にしか、お兄ちゃん、こんないい肉は使わないからな」
兄は妹を見据える。
「すき焼きが完成したとき、この戦いは終わる」
「こんの、バカにしてぇぇぇ!」
激高し殴りかかる。
カランッ! 軽やかな音を立ててノートパソコンは受け流された。打撃を受けたスチールの机が「ひ」の字に曲がる。
妹は兄が右手に握るものを、自身の打撃を打ち払ったものを見つめる。
「菜箸? 肉を入れるモーションで、私の打撃を払ったというの?」
「お前のおかげで気づいたんだ」
涼しい顔で肉を入れ終えた菜箸から如雨露に持ち替えた兄は割り下を鍋に注ぐ。
鉄板に弾けながら立ち上る醤油ベースの香ばしさとともに、言った。
「"どんな状況でもすき焼きを作る異能"……これは、逆手に取れば、すき焼きを作ろうとする動きはいかなる障害に対しても頑強になるんじゃないか? とね」
妹は顎を引いて唇をかむ。
「お兄ちゃんを甘く見てた……伊達に私の引きこもりに付き合ってたわけじゃないってことね」
「そういうことさ」
ふ、と妹は笑った。表情が長い前髪に隠れる。
「お兄ちゃん。ダメなんだよ、そういうことしちゃ。そういうところがダメなんだ」
「ダメって、あのな、お兄ちゃんそうストレートに言われると傷ついちゃうタイプなんだぞ」
「この、分からず屋ぁ!」
妹は髪を振り払い、パソコンを構えて跳びかかっていく。
「させん!」
「くっさ! あ、これ長ネギ!?」
妹の眼前に長ネギを突き出して牽制した兄は、そのまま具材として鍋に投入した。
「あああああっ! やだやだやめてよ! 私ネギ嫌い!」
「好き嫌い言うんじゃない。長ネギは熱すると甘くまろやかになるばかりか、柔らかな風味ですき焼きの味わいを幅広いものに変えてくれるんだ」
言いながら、次に豆腐、次に白菜、次に白滝……次々と具材を追加する。
鍋はくつくつと煮え、あっという間に具に熱が通っていく。完成に近づいていく。
「鍋さえひっくり返せばこの勝負、ひっくり返せる! そのネギも!」
「食べ物を台無しにされてたまるかぁ!」
身をのけぞらせ、パソコンの殴打をかわす兄。しかし妹も追いすがり、熾烈な攻撃を繰り返す。
その鋭さ、手数の多さは、これまでの比ではない。
異能に想いの力が……ネギ嫌いの力が加わっているというのか?
「そこだッ!」
「ぐぅ!」
ついにパソコンが兄の左腕を捉える。
兄は片膝をつきつつ、咄嗟に鍋を右手で持ち替えた。辛うじて落とさなかった……だが、右腕がふさがってしまった。具材を投入する右手が!
「く……左手がしびれて動かせない!」
「ふふ。年貢の納め時……いいえ、鍋の捨て時だね。お兄ちゃん」
ぱたし、ぱたし、と妹はパソコンのカドを手のひらに当てながらにじり寄る。このまま兄の頭をカドで殴って決着となってしまうのか? 妹は高くパソコンを振りかぶった!
「すき焼きを三角コーナーに捨ててくるまで寝てて! お兄ちゃん!」
万事休す!
そのとき、兄の口がかすかに動いた。
「『【歌ってみた】帰ったら玄関で猫耳妹が死んでいる計画のうた【オリジナル】』」
「ッ!?!?!?!??!!?」
びくりッ! と妹は動きを止める。
兄は立ち上がりながら、言葉を続ける。
「『ハロウィン猫耳妹の描いてみた』『猫耳妹が躍ってみた』『猫耳妹のおしゃべりFPSゲーム生放送』」
「な、なななな」
後じさりする妹。その足取りはふらついている。
転ばないのが不思議なくらいの腰砕けで、兄を見上げた。
「なんでっ! お兄ちゃんがそれを知ってるの!? 確かに削除したはずなのにっ! そんな、そんな再生数6とか18とかの動画や生放送なんて! ログだって全部! 徹底的にッ! アカウントごと消したのにッ!」
「……隠してきた真実を今、明かしてやろう」
兄は妹を奈落に落とす言葉を告げる。
「再生数の一つは、お兄ちゃんだ」
「ぐはあッ!?」
ボディブローを食らったように、妹は体を折った。
「フォロー登録していた三人のうち、一人はお兄ちゃんだ」
「ぼごあっはァ!?」
アッパーカットを食らったように妹は体を弾ませた。
「最初に『うぽつ』コメントを入れたのも……お兄ちゃんだ」
「がばばばばばばあっっはあわあああああああああ!!」
電撃を食らったかのように、妹はエビゾリになって痙攣した。
妹はヒザから崩れ落ちる。すき焼き鍋を持つ兄は、妹に言葉を贈る――トドメの言葉を。
「"絶対に壊れないパソコン"は、そういうデータも"絶対に壊れない"。断言できるぞ。ゴミ箱フォルダを空にした今も、動画ファイルを復元できる」
「やめてええええええええ!!」
妹はパソコンを放り投げた。床に落ちた衝撃で画面が開くが、壊れる気配はまったくない。
パソコンを失い、身軽になった妹は立ち上がる。異能のない幽霊のような白い手足は引きこもりのそれだ。
「許さない……絶対に許さないよお兄ちゃん! よくも、よくもぬか喜びさせてくれたなぁああああ――ッ!」
怒り狂った今の妹に、肉体的ハンディキャップなど考慮にない。遮二無二、後先考えない突撃で、兄に向かう。
その全身を使った体当たりを――
兄は受け止めた。
容易いことだった。たとえ兄に異能がなくても、苦労はなかっただろう。
「軽すぎるぞ、お前。ちゃんと食べろよ」
優しく頭を撫でる。痛んだ髪を整えるように。
「うるさい……」
ただ抱き着いただけのような形になった妹は、ばつが悪そうに兄に顔をうずめている。耳まで赤い。
しびれの取れてきた腕を動かし、仕上げの薬味とだし汁を追加した兄は満足げにうなずく。
「さあ、すき焼きの完成だ。――食事にしよう」
食卓と箸と取り皿、それに煮出した麦茶とコップまでひと揃えに虚空から出現させた。生卵はない。妹が苦手だからだ。
「俺にとってすき焼きの完成は、食卓について家族で食べる、までがワンセットだ。食べなきゃいつまでも俺の異能の影響下だぞ」
「それなんかやだ……たべる……」
妹はよろよろと食卓に着いた。
兄は対面に回り込み、胡坐をかいて座る。もそもそと食べ始めた妹に、慌てて言う。
「こら、いただきますしてからだ!」
「いただきますぅ」
「はい召し上がれ。俺もいただきますだ」
朝食には重たいが、妹は文句も言わずにもそもそ食べている。
「うっわ、この肉本当においしい。ムカつく」
「せっかく自腹で買ったのに! お兄ちゃんそう直接言われると傷ついちゃうタイプだからやめてな?」
「これ……」
妹の箸が止まった。
すき焼きの具材にウィンナーが入っている。
「好きだろ、お前。あんまり見ない気がするけど、美味いよな」
「うるさい、お節介」
妹はウィンナーをもぐもぐやりながらパソコンを手繰り寄せる。
デスクトップ画面の隅に表示される時計は、午前六時五〇分。不規則すぎる生活でたまに訪れる、早朝の活動時間だ。
「今から支度すれば、学校に間に合う。だからお兄ちゃんは今朝、私の部屋に来たんでしょう? 異能バトルで有耶無耶になったけど……本当なら学校の話をして、でも私が行きたいと言わなければ、そのまま黙って行くつもりだった。違う?」
兄は気まずそうに顔を背ける。
「……行こうと誘って、行くお前じゃないだろう」
「そんなこと、分からないよ。行け、なんて無理に言わないじゃない。絶対に言わない。だから……」
体を震わせて、うつむく妹から光るものが落ちた。服が小さな丸に濡れる。
「だから、私、どんどんダメになっちゃうんだ……! みんなが優しくするから! お兄ちゃんが甘やかすから! だからっ」
叫ぶトーンを急激に沈めて、箸を持ったままの手で顔を覆う。
「私がこんなんだから、ダメダメなんだ……」
「お前はダメじゃないさ」
なんでもないことのように、兄は白菜を口に放る。
「異能って、思いの力に左右されるだろ。なら、あんなにエネルギッシュに動けたお前は、本当はすごく気持ちの強い子だってことだ。それに」
腫れぼったい妹の目に、兄は笑う。
「三回アップされて消されたけど、あの歌、俺けっこう好きだぞ」
「おご――――ッ!」
妹は死んだ。魂とか心とか、精神的なやつが。
「ところで、お兄ちゃんの異能はなんで"すき焼き"なの?」
「なんでって、なあ」
制服姿の妹に頬が緩みっぱなしの兄は、浮かれた調子で答える。
「俺にとって、すき焼きって"家族でつつくごちそう"ってイメージだからかな。美味いもん食ったら、元気出るだろ?」
「朝から重たかったけどね……長ネギがまだ粘ついてる感じして気持ち悪い」
「ちゃんと歯ぁ磨いたよな?」
「磨いたよ……」
兄弟は仲睦まじく学校に向かう。二人のほかに人はいない。
朝から鍋物を食べた二人は、完ッ全に大遅刻していた。
2016年11月 初稿