5 決断
静寂に包まれる廊下。
そこに白神は一人で立ち尽くしていた。
今までの出来事が嘘のような静けさ。
あの真っ白な少女、ユシロはもういない。白神はそこでようやく、本当にこれで良かったのか、という後悔を感じ始めていた。
静まり返った廊下に立ち尽くしたまま、足元に視線を向ける。冷たい廊下に横たわる足軽はピクリとも動かない。ユシロに斬られたはずなのに血すら出ておらず、今すぐにでも動き出しそうだった。
それはまるで、倒れた人形のような姿。
しかし、突然に。
「っ!?」
白神の目の前で、いきなり足軽の体が崩れる。
はらはら、と。
形を失い、無数の破片となっていく足軽の体。3体全てが足先からまるで灰のように細かい破片となって崩れ、宙へと消えていく。鎧から陣笠にいたるまで、足軽を構成していたもの全てが消えていく。
白神の目の前で、ついにその体の全てを失う足軽たち。
そして、その後には何事もなかったかのように、ただ冷たい廊下だけがあった。そう、まるで今までのことが全て、幻であったかのように。
「・・・」
白神はもはや驚くことすら忘れて、ただぼんやりとその光景を見つめていた。
これまでのことが全部夢だったらいいのにと、そう本気で思う。気づけば朝で、家の布団で寝ていた、なんてことであって欲しかった。起きたら授業中で、いつまで寝てるんだよとクラスで笑い者にされても構わなかった。それだけで済むのなら、願ってもないことなのだから。
しかし。
「ーーーっ」
ズキズキ、と痛みを訴えてくる右腕。
足軽に切り裂かれた腕の痛みは、これが現実だとはっきりと告げていた。それでも白神は、これはただの夢だと自分に言い聞かせようとする。
それが現実逃避だということはわかっている。それでも全てを無かったことにして、いつもの生活に戻りたかった。こんな訳のわからないことを、現実として認めたくはなかった。
「・・・っ」
それでも白神はぎゅっ、と拳を固く握りしめる。固く固く、握りしめる。
このまま夢だと信じこんでいるのが一番幸せなことくらいはわかる。何もかもが現実ではないと信じていれば、もう恐ろしい目に遭う必要もない。ここに留まっているのが安全だと、そうユシロは言っていたのだから。どうすれば楽になれるのか、それは考えるまでもない。
けれども。
けれども、心は。
そんな現実逃避を受け入れられるほど、器用ではなかった。
「ーーーっ、もし仮に、これが夢の中だったとしても・・・あいつは、ユシロは確かにここにいたんだ。俺を助けてくれたんだ。それはだけは、事実なんだ」
心に浮かぶ言葉、それをそのまま声に出して呟く。
白神はマンガに出てくる主人公のような熱い正義感なんてものは持っていない。それでも、たとえこれが夢の中だったとしても、自分を助けてくれたユシロを放っておくことはできなかった。あんなに寂しそうで、辛そうな瞳をした少女を見捨てるような真似だけは、どうしてもできなかった。
白神は覚悟を決め、顔を上げる。
白神には何か特別な能力がある訳ではない。特殊な訓練を積んできた訳でもない。どこにでもいる、ただの一般的な学生だ。
だからこそ、白神はこのまま馬鹿みたいにユシロを追いかけるなんてことはできなかった。白神にはあの足軽と戦うだけの武器も能力もない。そんな白神がユシロと合流できたとしても、ただ足を引っ張るだけだろう。
実際、白神にできることなど無いに等しいのだから。
(俺にできること、それを考えるんだ。理屈なんてどうでもいい。在るがままを認識しろ!)
未だに起きた出来事を受け入れられず、ほとんど纏まらない思考から余分なこと全てを弾き出していく。自分にできる最善のこと、それだけに意識を集中させていく。
(冷静になれ・・・冷静になれば、答えは見つかるはずだ!)
今の自分にできることなんて無いに等しいのだ。槍に対抗できる武器もないし、素手で槍相手に戦えるだけの能力なんてあるはずがない。つまり、白神個人で戦うことは不可能。だからこそ、自分のとるべき行動は。
「そうだ・・・こういう時は、警察に知らせるのが一番最初じゃないか」
たどり着いた答えは、常識的に考えれば誰にでも思いつけること。拳銃を持った警官ならば、あの足軽の槍にも十分以上に対処できるだろう。ただ、それすら思い出せないほどに白神は混乱していたのだ。
(これだけの事が起きてるのに、ここまで静かなのは明らかに異常だ! とにかく警察に通報して、ユシロのことを伝えないと!)
即座にポケットを探るが、携帯はない。職員室に行く前、教室に置いてきた鞄の中に入れたことを今さらながらに思い出す。
白神は舌打ちしながらも、そのまま踵を返して職員室へと向かう。
携帯は教室にあるのだが、ここからでは固定電話のある職員室のほうが近いのだ。そしてなにより、教室まで続く狭い廊下であの足軽と鉢合わせしてしまえば、どうすることもできない。それならばまだ通ることのできるルートがいくつもあり、教師がいるかもしれない職員室のほうが良いと判断したのだ。
ユシロはこの場を動くなと言っていたが、そんなことは気にしていられなかった。
外へと繋がる扉まで全力で走る。
いつ足軽と鉢合わせするかわからない廊下。しかし、怯えていては進むことなどできないのだ。危険なのは、白神だけではないのだから。
突き当たりまで一気に駆け抜けると扉を開け放ち、そのまま外へと飛び出す。
そこで、
「っ!!」
なんとか足を止める白神。
恐れていたこと、いきなり足軽と出くわしてしまったのだ。
陣笠に隠れた顔がこちらを向く。
慌てて引き返そうとするが、時はすでに遅かった。後ろから、無情にも扉の閉まる音が響く。退路を断たれ、足軽と正面から向き合う白神。
対して、足軽はゆっくりと槍を構える。背中を見せた瞬間、即座に襲われるであろうことくらいは理解できた。たとえどれだけ急いだとしても、扉を開ける前に確実に串刺しにされてしまうだろう。じりじりと後退しながら必死に頭を働かせるが、完全に追い詰められたこの状況では、できることなど全くと言っていいほどにない。
(くそっ、ここまでなのか!?)
心臓へと向けられる槍。
恐怖が、そして絶望感が沸き起こってくる。
それでも膝から力が抜けそうになるのを必死にこらえ、逃げるための方法をなんとか考えようとする白神。ここまで来て、諦めるなんてことはできなかったのだ。
しかし、そんな思いが足軽に通じる訳もなく。
容赦なく放たれる槍の一撃。
一気に迫る刃。それでも白神はなんとか避けようと、必死の抵抗を試みて、そして。
横合いから飛んできた青白く光る『何か』によって、足軽は突如として吹き飛ばされる。
「!?」
その瞬間、響いたのは重い爆発音。
それは太鼓を思いっきり叩いた時の音を増幅させたかのような、そんな凄まじい爆音だった。そして粉塵を纏い、すごい勢いで吹き抜けたのは風。思わず目を閉じ、なんとか踏み留まった白神へと、校舎の壁だった小さなコンクリート片が次々とぶつかる。
「ーーーっ!!」
爆発した、そうクラクラとする頭でなんとか理解する。よろめく体で転倒しそうになるのを必死に踏みとどまる白神。
(くそっ、一体なんなんだよ!?)
もはや、なぜ爆発が起きたのか、そんなことは全くわからなかった。原因も理屈も何一つとしてわからない。それでも舞い上がる粉塵の中、ここは危険だと判断し、とにかく走りだそうとしてーーー
目の前にいきなり降っ立った人影によって、白神の足は強制的に止められる。
「!」
それはこの学校の制服を着た、一人の少女。その長い黒髪を着地の際になびかせ、鋭い視線をこちらに向けてくる少女の手には、独特な黒さを纏った一振りの刀があった。
硬直したまま、思わずその少女を見つめる白神。
その整った顔立ちに見覚えはない。それでも学年ごとに分けられた上履きの色から、その少女が今年入学した一年生だということが分かる。まだ正式な授業も始まっていないので、新入生というのが正しいのだろうか。
刀といい身のこなしといい、ただの一年生ではないのは確かだった。現れたタイミング、それを考えるのならば、この少女はあの爆発と関係しているのかもしれないのだ。
刀を手にした、見知らぬ少女。
それでも、白神は恐怖を感じなかった。同じ高校の制服を着た生徒に出会えた、それだけで白神は安心感のようなものを感じていたのだ。安堵した、というのが一番正しいだろう。
この学校の中で自分だけが巻き込まれているわけではない、そう知ることができたのだから。
そしてなにより、刀を手にしているということは、もしかするとユシロの仲間かもしれないのだ。一気に膨らんでいく期待。
「あのーーー」
話しかけようとする白神に対し、制服姿の少女は鋭い視線でこちらを見つめ。
手にした刀を、白神へと突きつけた。
「ーーー!?」
「あなたの所属と名前、ここにいる目的を話して。もし喋らないというのならーーー斬り捨てるわ」
冷たい声。
それはユシロの感情を含ませない声とは真逆の、殺意を隠そうともしない声。あまりに突然のことに答えられずにいる白神の首筋へと、そのまま刀が押し当てられる。その冷たく硬い感触に背筋が凍りつく。
それが冗談でないことは、嫌でも理解できた。
「俺は白神・・・この学校の、生徒だ」
詰まりそうになりながらも、なんとかそう答える白神。
強張る体。
相手があの足軽とは違い生身の人間だと、それも自分と同じ学校の生徒だと理解できるからこそ、言いようのない恐怖が全身を支配していく。
対して、制服姿の少女は無言のまま動かない。続けろと、その視線は命じていた。
「所属なんて、それくらいしかない。そして目的は、助けを呼ぶことだ・・・まだ校舎に女の子が残ってる、だからーーー」
「その女の子とやらの特徴を話して」
突然に言葉を遮られる。こちらを見据える瞳は異様なまでに冷たく、鋭い。今までよりも明らかに剣呑さを増したその雰囲気に戸惑いながらも、白神はとにかく答える。
「ーーー白い髪の、2本の刀を持った女の子だ」
その言葉に、考え込むような仕草をする少女。
そして小さくため息をつくと、こちらに突きつけていた刀を下ろす。それだけで極度の緊張から解放され、思わず座り込みそうになる白神。そんな白神を見据えたまま、少女はため息をつく。
「・・・わかったわ。本当に何も知らないようだから、今回は見逃してあげる。早くここから去りなさい。死霊兵ならほとんど消滅させてあるし、今ならまだ間に合うから」
そう言って、興味を失ったかのように少女は白神から視線を外す。
その高圧的で、そして全てを知っているような態度に少し苛立ちを覚えるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていくのだ。
「だから、まだ女の子が中にいるんだよ、お前も手伝ってくれ! 早くしないと手遅れになるかもしれないんだ!」
「それはできない相談ね」
白神の言葉に、制服姿の少女はそっけなく返事を返す。それは、あまりにもはっきりとした拒絶。白神は思わず声を荒げる。
「なんでだよ!? ユシロはお前の知り合いじゃなのか!?」
「・・・知り合い、ね。確かに守り手のことはよく知っているわ。だってーーー」
そこで一度言葉を区切り、視線を校舎の奥へと向ける少女。つられるように白神もそちらへと視線を向ける。
「ーーー『アレ』は私達にとっての、『標的』だから」
その瞬間。
ドンッ! と。いきなり校舎の一角から、先程の爆発が霞んで見えるほどに大きな爆発が起きる。
舞い上がる粉塵。ここまで響いてくるのは、ガラガラと砕けたコンクリートが崩れ落ちていく音。そして、それを掻き消すかのようにさらなる爆発音が連続する。
それは、間違いなくユシロが向かった方向だった。あまりの出来事に、思わず言葉を失ってしまう白神。
「始まったようね。今度こそ逃がさないわ。確実に消滅させてみせる」
それを見つめながら、当然のように制服姿の少女は言う。
『消滅』。その言葉から思い浮かんだのは、細かい破片になって消えていく足軽の姿。それが意味することを悟り、白神は目を見開く。つまり、目の前の少女はユシロを殺すと、そう当然のように言い放ったのだ。
「なんで、だよ、なんでそんなことするんだよ! おかしいだろ、こんなの・・・お前はあの子を殺すことに何も感じないのか!?」
足軽から助けてくれたユシロ。
出会ってから少しの時間しかたっていないが、それでもわかる。たとえ表情には表れなくても、ユシロにはやさしさが、他人を想う心があることを。そうでなければ、わざわざ白神を助けるはずがないのだから。
だからこそ、ユシロが命を狙われるようなことをするとは思えなかった。だが、少女は白神の問いかけに対して表情ひとつ変えず、
「あの守り手の持つ力は危険。だから、悪用されるわけにはいかないの。守り手が協力を拒む以上、放置するわけにはいかないわ。だからこそ弱っている今、消滅させてしまうべきなの。それに、そもそも『アレ』はーーー人間じゃないわ」
そう冷たく言い放つと、少女は跳ぶ。
まるで白神など相手にする必要はないと、実力の差を見せつけようとするかのように跳び上がる。一足で校舎と校舎をつなぐ雨避けの上に着地する少女。それは、どう考えても常人では有り得ない跳躍。
そして、こちらを冷たい瞳で見下ろしながら、少女は口を開く。
「早く帰りなさい。今、この場所は、あなたのような人がいても良いような所じゃないから」
そう言い放つと少女は背を向け、恐ろしいほどの速度で雨避けの上を跳び去っていく。何も言い返せないままに、すぐにその姿を見失ってしまう白神。
制服姿の少女が、ユシロがいるであろう方角に向かったことはわかる。あの爆発を引き起こしたであろう仲間と共に、ユシロを殺すために。
そこで唐突に膝から力が抜け、白神は座り込んでしまう。
能力の差を思い知らされた。見ている世界、それが明らかに違った。もはや、警察なんてレベルの話ではなかった。警察を呼んだところで、あれだけの爆発を起こせる人間たちが相手なら返り討ちにされてしまうだろう。
どうすることもできないという事実、それを嫌というほどに見せつけられたのだ。
「なんだよ、それ」
ぽつり、と呟く。
白神には今起きていることが何一つわからない。白神なんて、いきなり足軽に襲われて訳もわからぬままに逃げ回っていただけの部外者にすぎないのだ。ユシロの言うことも、先ほどの制服姿の少女の言うことも、ほとんど理解できなかった。たとえもう一度聞いたとしても、全てを理解するなんて到底不可能だろう。
それでも、納得はできなかった。できるはずがなかった。
まだ爆発音は続いている。
ユシロとあの制服姿の少女が言った、『人間じゃない』という言葉。それがどういう意味なのか、何を表しているのかはわからない。何かの比喩なのか、それとも本当に言葉通りの意味なのか、それを知る術は白神にはないのだ。
それでも。
その言葉が、たとえどんな意味だったとしても。
それが、ユシロを殺しても良い理由になるはずがない。
「なんなんだよ・・・くそっ!」
固く握ったこぶしを床に叩きつける。
このままで良いはずがない。危険だから、そんな訳のわからない理由でユシロが命を狙われているなんて、許せるはずがなかった。
爆発音は少しずつ遠くなりはじめている。それはまだ戦闘が終わっていないことを、ユシロが生きているということを示していた。
だが。
白神は座り込んだまま、固く唇を噛みしめる。
「・・・俺に、何ができるっていうんだよ」
自分の無力さ、それは自分自身が一番良くわかっている。
白神ではあの少女を止めることはおろか、追いつくことさえも難しいだろう。そもそも、足軽に出くわしただけでゲームセットなのだ。ユシロの元へとたどり着くだけでも困難だろう。
そして、もし仮にユシロを見つけられたとして何ができるのか。白神がユシロを庇ったところで、容赦なく斬り殺されてしまうのは目に見えている。そもそも白神では、起こっているであろう戦闘に割り込むことすら不可能なのだ。説得に耳を傾けてもらうなんていうのは夢のまた夢だろう。
自分にできることなんて無い、それはすでに出ている変えようのない結論。わかっているのだ、今から行ったところでユシロを助けられる可能性がゼロに等しいことくらいは。そして、失敗した場合に自分がどうなるのかも。
(そうだよ、ユシロは俺なんかよりもずっと強いんだ。きっと一人でも逃げられるに違いない。弱い俺が行っても、足を引っ張るだけなんだ)
立ち上がりながら、自分にそう言い聞かせる。
取るべき行動、それは考えるまでもない。そんな僅かな可能性に自分の命を賭けるなんて馬鹿でしかないのだ。リスクを考えるのならば、迷う必要なんてどこにもなかった。
それでも。
「っ」
脳裏によみがえるのは、別れた時に見たユシロの表情。
無表情のままに伏せた顔。
そして寂しげに揺れる、幼い瞳。
ユシロは言っていた。
これはいつものことだと。
命を狙われることには慣れていると。
自分は化け物と変わらないと、そう達観したように言ったその心の内は、どんなものだったのか。
ぎりぎりと。
固く拳を握りしめる。
ここで逃げるということがユシロを見捨てることだとわかるからこそ、白神はどうしても動くことができなかった。見捨てるということが、あの制服姿の少女の言葉を認めているのと同じだとわかるからこそ、どうしても耐えられなかった。
唇を噛みしめたまま、思わず俯いてしまう白神。あまりにも不甲斐ない自分にどうしようもなく腹が立って、悔し紛れに拳を地面に叩きつけようとしてーーーそこでふと、あの時の女性教師の言葉が脳裏に甦る。
『まあ、簡単に言えば、現実を理解しているからこそ迷う奴もいるってことさ』
思わず白神は顔を上げる。何を言いたいのかよくわからなかった、あの時に聞かされた言葉。それが、今の白神のことを指しているとするならば。
白神は、あの時に聞いた言葉を必死に思い返す。
告げられた言葉の纏められた要点、それは。
『私が言いたかったことを簡単に纏めると、迷うくらいなら自分を信じろ、そんなところかな』
それは理屈も何もあったものではない、大雑把でありきたりな言葉。普段の自分ならば面倒くさがって聞き流していたであろう、どうでも良いはずの戯れ言。
それでも。
その言葉はすとん、と白神の胸に落ちる。
「・・・ははっ。俺って、馬鹿なんだな」
笑みを浮かべながら、そう自嘲するように呟く。
そう、自分が本当に正しいと思う答えはすでに出ていた。そんなことは考えるまでもなかったのだ。ただ、言い訳になるようなことばかりを考え、物事の本質から目を背けていた。
自分はどうしたいのか、という最も単純なことから。
目を背けていた理由。それはただ、実行に移すだけの勇気が足りなかっただけで。ただ、自分が傷つかないように言い訳を考えていただけで。突き詰めれば、答えなんて1つしかないのだから。
背中を押してくれるものがあれば、もう迷わなかった。
顔を上げ、弾かれたように走り出す。校舎の奥、ずっと爆発音が響いてきている方向へと。
躊躇うことは、もうなかった。
角を曲がり、一気に駆け抜けていく。
もしかすると、もう間に合わないのかもしれない。たとえ間に合ったとしても、先ほどの制服姿の少女、そしてこの爆発を引き起こしているであろうその仲間を止めることなんて不可能に近いということくらいはわかっている。
(それでも、それでも今動かないと絶対に間に合わない!)
とにかく走る白神。
今、争いを止めさせる方法を考えている時間はないのだ。もし思いついたところで、間に合わなければ意味がないのだから。
近づくにつれて次第に大きく聞こえてくる爆発音。そして足下から感じるのは微かな震動。崩れる瓦礫の地響きを感じられるほどの距離にまで、もう近づいてきているのだ。
見上げた校舎は、まるで虫に食われたかのように至る所が崩れていて、まるで廃墟のような姿になっていた。
(この先にあるのは食堂・・・一体なにが起きてーーーっ!?)
そこで白神は気づく。
校舎の屋上、その端に一人の人間が立っている。
それは、黒色の大きなコートを着こんだ人間。姿からして男だろう、がっしりとした体格の人影だった。薄暗いためによく見えないが、なにか大きく細長いものを食堂の方向に向けている。
何をしようとしているのかはわからない。しかし、その人影が持っている細長いものを中心として、黄色く光る電気のようなものが渦巻きだすのが見えた瞬間、とてつもなく嫌な予感がはしる。
あれは、本当にヤバい。
本能がそう告げる。あの人影に近づくのは危険だと、そう本能が全力で訴えてくる。何が起きているのかはわからないが、莫大な『何か』が集まっているのがここからでもわかる。
(くそっ、それでも止まれるかっ!!)
すくみそうになる足を必死に動かして、白神はただひたすらに走る。直感からして、あの男が狙っているのはユシロとしか考えられなかったのだ。とにかく走り続ける白神。
そして。
その時は、訪れる。
パリパリ、と。
限界まで溜め込まれた電気のようなものは槍のような形状に集束すると、まさに雷のごとく地上へと放たれた。
「ーーーっ!?」
瞬間、音が消える。
恐ろしいほどに揺れる地面と吹き抜ける爆風。
巨大なコンクリート片が顔のすぐ隣を飛び去っていく。地面ごと揺らすかのような衝撃に耐えられず、ごろごろと転がる白神。すぐ傍には次々とコンクリートの塊が落下してくる。
それでも頭を抱え、遠のきそうになる意識を必死に保つ白神。もはや、何がどうなったのかすらわからない。それでも、それは信じられないほどの衝撃だった。ただ、雨のように降り注ぐコンクリートの破片に耐え続ける白神。
そして、数十秒の時が流れて。
辺りは、ようやく静かになる。
くらくらする頭を押さえながら、それでも白神は顔を上げる。すると目に飛び込んできたのは、もはや今までの風景を忘れてしまいそうなほどまでに現実離れした光景だった。
見慣れた校舎は半分ほど消し飛び、粉塵が霧のように視界を遮っている。すぐ傍には、人の頭ほどの大きさの瓦礫がいくつも転がっていた。それを見た白神は、今まで来たこともない場所に突然放り込まれたかのような錯覚に囚われそうになる。
「っ」
口の中は、埃と血が混じったような味だけがしていた。それでも白神はなんとか立ち上がり、粉塵の舞う中をよろよろ進む。座り込んでいるわけにはいかなかった。白神には、諦める訳にはいかない理由があるのだから。
耳鳴りがひどい。爆発で平衡感覚を失っているのか、少しよろめきながらも足を動かし続ける。この先にいるはずの白い少女、その姿だけを求めて。
「・・・ユシロ」
遠くから地響きのような音が響いてくる。爆発に巻き込まれた校舎の一部が、次々と崩壊しているのだ。
白神は大きな瓦礫を避けながら進んでいく。頭は、全くといって良いほど働かなかった。ただひたすらに足を動かす白神。中に埋め込まれている巨大な針金が剥き出しになった、巨大なコンクリートの塊がその行く手を遮る。それを乗り越え、ただ進み続ける白神。
そして突然に開ける視界。そこにあったはずのアスファルトが消し飛び、大きく地面が抉れてクレーターのようになっていたのだ。うっすらと漂う粉塵の向こうで、見慣れた食堂が半壊しているのがわかる。
それは理不尽なまでの、破壊だった。
「・・・ユシロ」
呟きながら、ただ抉れた地面を進む。こんな破壊の中では、あの白い少女がどうなったのかさえ知ることはできないのかもしれない。それでも、捜さずにはいられなかったのだ。
全て吹き飛ばされたのか、コンクリートの破片すらない地面。パリパリと、辺りの地面には電気のようなものが所々に光っている。まるで蠢くミミズのようにのたうつその光は、粉塵の中でも不気味な美しさを放っていた。
そして抉れた地面の真ん中、爆心地近くまで進んだ先で、
「っ!! ユシロっ!!」
そこに、白い少女は横たわっていた。
真っ白な服は粉塵で汚れていて、まるで少女自身が帯電しているかのように、電気のようなものがその体の上で蠢いている。白神の言葉に反応することはなく、その体は全く動かない。
慌ててその小さな体を抱き起こす。
確かな温もりを感じる体。聞こえてくるのは小さく苦しげな呼吸音。少女はまだ、生きているのだ。
思わず白神は唇を噛みしめる。
華奢な、本当に小さな体。こんな体でどれほど酷い目に合ったのか、それを思うと心が締め付けられそうだった。
それでも、今はそんな感傷に浸っている場合ではないのだ。白神はとにかくユシロを抱え上げる。ぐったりとした体。外傷のようなものは見当たらないが、その体からは完全に力が抜けている。その瞳は閉じられていて、苦しげな表情をしていた。
その姿を見た白神が感じたのは、激しい後悔。あの時に引き止めてさえいれば、そんな後悔だけが思考を埋め尽くしていく。もし引き止められてさえいれば、ユシロはこんな目に遭わず済んだのではないか。そんな思いが次から次へと溢れてくる。
それでも、ユシロを抱えたまま立ち上がる白神。
どれだけ後悔しても、状況は変わらないのだ。とにかく今はユシロの手当てを最優先するべきだろう。首を振って、無理やりに思考を切り替える白神。そして走り出そうとしたところで、ようやく周囲の異変に気づく。
すぐ近くから、鉄と鉄がぶつかり合うような音が響いてきていた。そして、さらに響いてくるのは人の声。まだ耳鳴りが治まらないためしっかりとは聞き取れないが、どうやら複数の人間が戦っているらしい。
「そうだ、早く逃げないと、またーーー」
辺りにはまだ粉塵が漂っているため状況はわからないが、ユシロを殺そうとしている奴らが近くにいるのは間違いないのだ。少なくともあの制服姿の少女と、先ほどのコートの男は確実にいる。
ユシロを抱き抱え、必死に逃げ場を探す。
立ち向かおうなんて考えるほど、白神は現実知らずではない。話せばわかり合えるなんて夢物語を信じるほどの愚か者でもない。逃げる、それ以外の選択肢はあり得ないのだ。
だが、すぐそこにあったはずの食堂は半分ほどが綺麗に消し飛んでいて、身を隠すところなんてほとんどなかった。さらに、もと来た方向に戻ろうにも、そちらからも人の動く気配がする。
もし見つかればどうなるのか、それは想像したくなかった。
(考えろ、この場で取るべき行動を! 隠れられる場所を見つけないと殺られるんだ!)
必死に辺りを見回す白神。そして、その視線はある場所を捉える。
一か八かになるが、そこしか思い浮かぶ場所はなかった。ユシロを抱えたまま、急いで移動する白神。
迷っている時間は、ないのだから。