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4 遭遇したもの  

 



「つまり、今のままで本当にいいんだな?」


「はい。途中で変えることもできるので、このまま国文でいきたいと思います」



 そうはっきりと、本日何度目かの答えを返す白神。


 早く終わらせてくれよ、という本音が態度に出そうになるのをなんとか抑える。


 一応進路は決めてはいたので、すんなり終わるだろうなと思っていたのだが、面談はまさかと思うほど長引いていた。将来は何をしたいのか、どのような職が現実的なのか、そのためには何をすべきなのか、などの踏み込んだ質問ばかりされたのだ。


 そこまで深く考えていなかった白神がきちんと答えられるはずもなく、なんとか出した答えにさらなる質問が、といった具合に話は続いたのだ。



 それも、目の前にある恐ろしいほどの強面で。



 世の学生で、そこまで深く将来のことを考えている奴なんて滅多にいないだろ、と心の中で泣きそうになりながら思う白神。そもそも得意、不得意科目の関係から文系理系どちらにするか決めたような白神には、将来なんてまだ形も想像できないようなものなのだ。


 そして大学に行こうと思っている理由も就職に有利ということもあるが、将来は何をしたいのか、ということに対する答えを先伸ばしにしたいというのが本当の所だった。だからこそ、白神がきちんと答えられるはずがなかったのである。


 そして相手があの担任、尾鷲(おわせ)なので、もはや取り調べを受けている容疑者の気持ちをずっと疑似体験していたのだ。おそらく両親のいない白神の進路を気にかけてくれているのだろうが、さすがにこれは辛い。というか辛すぎる。


 チラリと壁にかかっている時計を見てみると、もう4時を過ぎていた。あれから二時間半以上たったのか、とげんなりする白神。



「よし、なら話はこれで終わりだ。進路や成績のことで悩みがあれば、いつでも相談に来いよ」



 いかつい顔で言う担任にありがとうございます、と礼を言ってようやく職員室を後にする。



「はぁ~」



 扉を閉めると同時に、溜め込んでいた疲れをため息として一気に吐き出す白神。体よりも精神にダメージが蓄積していた。自分のことについて深く考えることが、ここまでしんどいことだとは思わなかったのだ。



(本当に疲れた・・・教室のカギ閉まってないだろうな)



 そんなことを考えながら白神は一号棟の下足室を抜け、校舎の外へと出る。途端、涼しい風が吹き抜けてきた。それはまるで、体が少しだけ楽になるような感覚。


 ふと見上げた曇り空はまだ雨を降らせることもないまま、どんよりとした灰色を保っていた。それを見てとりあえず早く帰るか、と教室に向かい歩き出そうとする白神。すると、ちょうどそのタイミングで突然声をかけられる。



「君が白神か?」



 それは聞き覚えのない声。


 とりあえず声の方向を向いてみる。すると、そこには見知らぬ一人の女性が立っていた。若くもいい歳にも見える、どこか不思議な感じのする綺麗な女性。黒いフード付きのスウェットを着て、髪を後ろに束ねたその女性に見覚えはない。誰なんだろ? と首を傾げる白神。



 そんな白神を見て、その女性は笑みを浮かべる。



 どうやら、向こうは白神のことを知っているらしい。白神は今まで職員室の有名人になるようなことをやらかした記憶はないので、新しく白神のクラスの授業を受け持つことになった新任教師なのだろうか。笹川が大喜びしそうだな、なんてことを思いつつ、



「はい、そうですけど・・・あなたは?」



 とりあえずストレートに聞いてみる。



「ふふっ、私のことは気にしなくていいさ。この先、また会えたのならおのずと分かる。授業もあるしね」


「・・・はあ」



 なんというか、変わった人のようだ。


 授業もある、ということはやはり教師なのだろう。というより授業があるのならまた会えたらも糞もないじゃないか、と心の中でツッコむ白神。どうせ授業が始まれば、嫌でも顔を合わせることになるのだから。


 やっぱり変な人だな、なんてことを心の中で思っている白神にはお構い無しに、その女性教師は口を開く。



「まあ、それはおいておこうか。それよりも本題に入るべきだね。ときに白神、君は信念と呼べるようなものを持っているかい?」


「信念、ですか」



 またか、と心の中で思わずぼやく白神。


 先ほどまでずっと進路の話をしていたので、もうその手の話にはうんざりだった。後々のことを考えると、新しく教科担当になるであろう教師への印象を悪くするのは気が引けるが、白神としても長話をするつもりはない。うまく話を切り上げてさっさと帰ろう、そう心に決める。



「そんな信念なんて大層なものは持ってないですね。今までそんなことを考えたことすらないですから」


「今まで一度も無いのか?」


「はい、無いです」



 そっけなく答える白神。


 質問されることだけに答えていれば話は早く終わる、それが白神の経験則である。こちらから話を広げたり、話題を振ったりしなければ話はすぐに行き詰まってしまう。親しい仲の相手や担任ならば話題が多いためあまり効かないが、まだお互いのことをほとんど知らない相手、それも初対面ならば質問が尽きた時点で会話は止まるのだ。



 相手に嫌な奴だと思わせず、ただ会話が苦手だと思わせる話術。そこに『今ちょっと急いでます』感を出すことができれば完璧だ。そう、初対面の相手との会話が苦手な白神だからこそ覚えられた、話を切り上げるための必殺技。


 白神もだてにコミュ障気味な人生を歩んできた訳ではないのだ。経験上、この()れない態度ならすぐに諦めてくれるだろう。


 しかし。



「それは自分が気づいていないだけじゃないか? 普段は気づいていないが、いざその時がくれば秘めた信念に従うなんて人間もーーーまあそう面倒くさそうな顔をするな、少しはタメになる話さ」



 ・・・どうやら、この女性教師には必殺技が効かないらしい。


 そういえば必殺技って必ず殺す技、って意味のはずなのに最近のゲームなんかじゃ連発しても相手死なないよな、なんてどうでもいいことをぼんやりと思う。つまり相手は不死身、もしくは死んでも立ち上がるほどの不屈の根性の持ち主なのだろう。


 ちなみに目の前の相手は、どうやら不屈のメンタルの持ち主らしい。というより一切場の空気を読まないタイプの人間なのだろう。



「・・・どういう意味ですか」



 諦めてそう尋ねる白神。


 この女性教師が相手ではどう足掻いても逃げることはできない、それを悟ったのだ。こうなれば、大人しく話を聞いて解放されるのを待つしかない。


 はあ、と心の中で大きくため息をつく白神。対して、女性教師は白神の言葉を聞いて満足そうに頷く。



「つまりだ、信念を持っていても気づかない人間も多いってことだよ。そういう種類の人間は、特別な状況におかれて初めてその信念を自覚する。そして悩むんだよ、それは正しいのか、本当に為すべきことなのか、とね」



 いまいち何を言いたいのか分からなかった。


 というよりも、この人はなぜわざわざこんなことを話しているのだろうか。正直聞かされても困る、というのが本音だった。なにか意味がある話なのだろうが、わざわざ聞きたいとは思わない。イメージとしては今日あった始業式の時の、校長の話を聞かされている時のような、そんな感じ。


 それなのになぜか、その言葉には理性に訴えかけてくるような、そんな強い力があった。聞けと、そう心の『何か』が命じているような気がするのだ。


 そんな思いを見透かすように、女性教師の瞳がこちらを見据える。それはまるでこちらの心の奥底を覗きこんでくるかのような、深みのある瞳。



「まあ、簡単に言えば、現実を理解しているからこそ迷う奴もいるってことさ。馬鹿ならば後先もリスクも考えず突っ走れるが、頭の働く人間はなまじ自分の限界も、自分の行動が引き起こすかもしれない結末も予測できるからこそ迷うんだよ」



 目の前で背中を向けている、銃を持った強盗を取り押さえるべきか否かみたいにね、と試すように言う女性教師。その説明で言いたいことはわかったような気がする。要するに、失敗した時のことを考える人間は迷うと、そう言いたいのだろう。


 だが、意味はわかっても意義が全くわからない。そんなことをわざわざ話す理由がわからないのだ。何かの謎かけか、と首をひねる白神。


 そんな白神の疑問を読み取ったかのように、女性教師は笑みを浮かべながら言う。



「ふふっ、今はわからなくても良いさ。どうせすぐにわかる。まあ、私が言いたかったことを簡単に纏めると、迷うくらいなら自分を信じろ、そんなところかな。・・・それじゃあ、また会えるかどうかはわからないが、とりあえず頑張りたまえ、少年」



 そう言うとその女性教師はこちらに手をひらひらと振りながら、背を向けて歩き去っていく。あまりにも突然すぎて、しばらく固まってしまう白神。



「いや、それってどういうーーー」



 慌てて引き止めようとするが、その女性教師は手を振るだけで、そのまま歩いていってしまう。そして、その姿は校舎の中へと消えていった。


 呆然とする白神。


 話の途中で突然に置き去りにされたような気分。というより、現実として置き去りにされていた。白神は思わずため息をつく。



「はぁ・・・何だったんだろ」



 とりあえず変な人だということは分かった。何を言いたかったのかは結局よく分からなかったのだが。


 とりあえず、立ち尽くしていても仕方がないので歩き出す。形はどうあれ、立ち話からは開放されたのだ。これ以上、学校に留まる理由もない。雲行きも怪しい今は、早く家に帰るという選択肢しかないだろう。


 カバンを教室に置いたままなので、さっさと2号棟へと向かう。



(あれ、おかしいな。誰もいない?)



 雨避けの屋根の下、校舎と校舎を繋ぐ通路を歩く白神が感じたのは、そんな微かな違和感だった。


 今の時間帯なら部活をしている生徒がまだ何人も残っているはずなのに、その姿が見えない。それどころか、いつもなら必ず聞こえてくるはずの野球部など運動部の掛け声すら全く無いのだ。


 ちなみにこの学校の部活はガチ勢が多いので、雷でも鳴らない限りは雨の中でも普通に練習していたりする。そのため、この静けさは普段からすると明らかに異状だった。時期も時期なので全部の部活が休み、なんてことはありえないはずなのだが、辺りは恐ろしいほど静まり返っている。


 まるで学校中から生徒が消えたかのような、そんな静寂。



(うーん、今日って何かあったっけ? 入試前は全員強制下校だけど、この時期のはずがないし・・・練習試合でも重なったのか?)



 不審に思いながらも進んでいく白神。

 そして2号棟へと続く角を曲がったその時、白神は『それ』を見つける。



「?」



 通路の真ん中、今いる場所と2号棟の扉とのちょうど中間辺りの場所に、何かが立っている。なんだ? と目を凝らしてみると、それは独特なシルエットの人影だった。やっぱり誰もいないはずがないよな、と少し安心する白神。


 しかし、その格好は明らかにおかしかった。こちらに背を向けて立っているその人影は、映画などに出てくる戦国時代の足軽のような格好をしているのだ。その格好は、特に歴史に詳しいわけでもない白神にでもわかるほどに凝っている。手には長い槍を持ち、黒い防具を身につけ、頭には目を引く大きな陣笠を(かぶ)っているのだ。



 無言でじっと佇むその姿は、まるで博物館の展示品か何かのようだった。



 そんな足軽姿の人影を見ながら、演劇部なんてあったのか、と白神は純粋に驚いていた。文化祭までまだ半年近くもある今、こんな金のかかってそうな仮装をするのは演劇部くらいしか思いつかなかったのである。接点がないため文化系の部活のことはよく知らないのだが、おそらく時代劇か何かをやるのだろう。


 気合い入ってるな、と白神は素直に感心しながらも、その姿を少し不気味に感じていた。



 物音一つたてず、ピクリとも動かない足軽姿の人影。陣笠の後部には白い垂れ布がついているため、その頭部は全く見えない。一切物音もたてずに立っているその姿は暗さも相まって、とても気味が悪いのだ。


 変な奴かもしれないからあまり近づきたくないな、なんて思いながらもそろそろと進む白神。ここを通らなければ、教室に戻るためには大きく遠回りをしなければならなくなる。それは疲れている白神にとって、非常に面倒くさかったのだ。



 極力気にしていない風を装いながら近づいていく白神。それにしてもよくできてるな、と思う。すぐ傍まで近づいてみても、色といい光沢といい、本物のようにしか見えないのだ。この完成度は発泡スチロールや安物の板などでは実現不可能だろう。いったい、どんな素材で作られているのだろうか。


 そんなことを考えながら、その足軽姿の人影の隣を通り過ぎようとした、ちょうどその瞬間。


 ガチャ、と。


 金属同士がぶつかるような重い音をたてながら、突然にその足軽がこちらへと振り向く。



「っ!」



 思わず息を飲む白神。そして反射的に体がのけぞる。


 その足軽姿の人影はゆっくりとこちらに顔を向ける。深く被った陣笠のために、その顔はほとんど見えない。だが、唯一見える首もとは血の気の感じられない、土気色としか言えないような色をしていた。



 ぞくり、と背筋にはしる悪寒(おかん)



 医学などよく知らない白神にでもわかる。あれは、明らかに生きている人間の肌ではない。



 本能が危険だと警鐘を鳴らす。



 あれはただの人間ではないと、何故かそう理解できてしまった。



「・・・」



 無言のまま足軽がこちらに槍を向ける。

 鈍く輝く穂先。今の白神の目には、それがどう見ても本物の槍にしか見えない。



 思わず後ずさる。



 そんなことはありえない、そう頭で考えてみても、本能があれは本物だと訴えていた。


 荒くなる呼吸。震えそうになる膝。ドクドクと心臓が音をたて、向けられた槍の輝きが背筋を凍えさせる。とにかく今の状況はヤバい、そう判断した白神はとっさに会話を試みる。



「お、おい! ちょっとまーーー」



 最後まで言い切る前に、槍の穂先がきらめいた。



「ーーーっ!?」



 直感的に半歩下がり、体を横にそらす白神。

 その瞬間、槍が(かす)めた右腕が制服の上から切り裂かれる。



(っ!!)



 じわり、と腕に広がる生温かさ。

 溢れた血液が流れていく嫌な感触が伝わってくる。



 それが示すのは、槍が紛れもなく本物であるという事実。



 その槍でもって、目の前の足軽がこちらの命を奪うために刺突を放ったのだとかろうじて理解する。背筋が凍りつくような感覚。致命傷を狙って放たれた一撃をかわせたのは、もはや奇跡でしかないのだ。


 さらに槍を振りかざす足軽。



「くそっ!」



 白神は力の抜けそうになる足をなんとか動かし、必死になって走る。立ち止まれば殺される、それは今の白神へと突きつけられた、冷たい現実だった。


 だが。



「っ!?」



 極度の恐怖と緊張のために足がもつれ、そのまま前のめりに倒れかける白神。


 その瞬間、ビュン! と頭のすぐ上を槍が通過していく。


 背筋が凍りつくような感覚。それは、死がすぐそこまで迫っているという事実を嫌というほどはっきりと理解させる。



(死んで、たまるかっ!)



 コンクリートの地面に手をつき、倒れかけた体勢をなんとか立て直した白神は、2号棟の扉を目指して全力で走る。扉までの距離は10メートルほどのはずなのに、その時間は異様なまでに長く感じる。まるで水の中を走っているかのような、そんな感覚。


 それでもなんとか扉までたどり着いた白神は焦りながらもドアノブを掴み、扉を開くと中へと飛び込む。一瞬のはずなのに、まるで永遠であるかのように長く感じる時間。すぐ近くまで迫ってきている足軽の姿を視界から遮ろうと、白神は中に入るや否や全力で扉を引く。


 バァン! と大きな音をたてて閉まる鉄の扉。



「っ」



 薄暗い2号棟の校舎の中、震えそうになる手で必死に内側についているはずのカギを探る。普段から見慣れているはずの扉が、まるで違うものにでもなったかのようにカギのつまみは見つからない。焦りながら、それでも必死になって探す白神。


 そしてようやくカギのつまみが手に触れた瞬間、白神は焦りながらもそれを思いっきりひねる。ガチャッ、と静かな廊下に響くのはカギのかかる重い音。その音を聞いた瞬間、白神は安堵のあまりその場に座り込む。



「はあ、はあ、はあーーーっ!?」



 そして、すぐにガタガタガタッ! と扉を力任せに開こうとする音が響き渡る。一気に広がる扉の隙間。それを見た白神は本能的に扉から離れるようにして後ずさる。


 逃げなければ、そう思うのに、足はまるで自分のものではなくなってしまったかのように動かせなかった。力の抜けた足では立つどころか動くことさえままならない。手だけを使って、それでも必死に距離を取ろうとする白神。



 それがいつまで続いただろうか。



 突如としてその音は止み、廊下は不気味なまでの静寂に包まれる。



(・・・諦めた、のか?)



 座り込んだまま、白神は静かになった扉を凝視する。


 しばらくしても、扉の向こうからは何の物音もしない。まるで、先ほどまでの出来事全てが嘘だったかのように、扉の向こうからは物音一つ聞こえないのだ。



 不気味さを感じながらも、白神は大きく息を吐き出す。



 一時的なものかもしれないが、命の危機から逃れることができたという事実は大きい。2号棟にはまだいくつかの扉があるが、全てここからは離れた位置にある。あの足軽が追ってこようとしても、大きく迂回して違う扉から入るしかないのだ。



 ひとまずは胸を撫で下ろす白神。



 とりあえずは床に手をつき、体を支えながらゆっくりと足に力を入れる。まだ膝が少し震えていたが、それでもなんとか動けそうだった。



 ゆっくりと腰を浮かせる。



 逃げるにしても助けを呼ぶにしても、このまま座り込んでいてはどうすることもできないのだ。状況は全くわからないが、この場に留まっていても事態が好転するなんてことはありえないだろう。もしあの足軽が別の扉から回り込んでくれば、それこそ一巻の終わりなのだ。


 今はとにかく動こう、そう思った白神が立ち上がろうとした、まさにその時。



 ガスッ、と。



 響いたのは、鈍い物音。それが意味することを理解して、白神は思わず目を見開く。そう、すぐ目の前。先ほど閉めたばかりの鋼鉄の扉から突き出てきたのは。



「っ、うぁ・・・」



 喉から漏れたのは小さな呻き。

 腰を浮かしたまま、白神はその場で硬直してしまう。


 目の前に突きつけられているのは鋭い刃。それは見間違えようのない、あの足軽が手にしていた槍の穂先。少し動いただけで突き刺さりそうなほど近くにあるその刃は、白神の背筋を凍えさせる。



 治まりかけていた恐怖が一気に膨れ上がっていく。



 ありえるはずがなかった。校舎の扉は防犯上、分厚い鉄でできている。槍なんてものでは到底貫けるはずがないのだ。そもそも、そんなに簡単に貫けるのなら、歴史上に鎧なんてものが存在しているはずがない。



「ーーーっ」



 すぐ目の前で、鉄が擦れる嫌な音を響かせながら引き抜かれていく槍の穂先。その嫌な音は、白神を無理矢理に現実へと引き戻す。



「ーーーく、くそっ!!」



 ただその場から逃れるためだけに扉に背を向け、とにかく走り出す白神。



 纏まらない思考。



 それでも、このまま座り込んでいれば串刺しにされる、それだけははっきりと理解できた。



(なんだよ・・・一体なんなんだよっ!! なんで誰もいないんだよっ!!)



 溢れ出すのは、現状に対する答えの出るはずのない問いかけ。助けを求めようにも廊下は静まり返っていて、物音一つ聞こえてこない。もはや今の白神には、目の前で起きている出来事を理解しようとすることさえ不可能だった。



 膝が震え、ふらつきそうになりながらも、とにかくがむしゃらに走る。



 恐怖を少しでも振り払おうと、少しでも意識の中から今までの出来事を追い出そうと全力で走る。動くもののない、音さえしない死んだような世界の中を、ただひたすらに駆け抜けていく。


 目指す先は教室。極限まで追い詰められた今の白神には、そこしか思い浮かぶ場所はなかったのだ。階段を数段飛ばしで駆け上がっていく。二階まで一気に駆け上がり、そのまま三階へと向かおうとして。



 『それ』を、見つけてしまう。




「ーーーっ、ぁあ」



 そこにあったのは人影。

 三階へと続く階段の踊り場。そこに一人(たたず)むその人影は、長い槍のようなものを持っていて。



 その顔を隠すように、大きな陣笠を被っていた。



 そして、ゆっくりとこちらに向き直る足軽。足軽の手に握られた槍、その穂先は鈍く輝く。



(・・・どう、して)



 こちらに槍を向けようとしているその姿は、間違いなく先ほどの足軽と同じだった。防具、槍、陣笠にいたるまで同じ、まさに寸分違わぬ姿。



 思わず後ずさる白神。



 だが、事態はそれだけでは済まなかった。現実は白神に、さらなる悪夢を見せつける。



 ガチャ、ガチャと。



 横合いから響いてくるのは、金属同士がぶつかるような重い物音。その音が示すことを頭では理解しながらも、恐怖に突き動かされるまま白神はゆっくりとそちらに視線を向ける。


 そして。

 白神から見て左手、二階の廊下から歩いてきたのは。






 全く同じ姿の、もう一体の足軽だった。







「う、うわぁぁぁぁぁ!!」



 気がつくと白神は叫んでいた。


 もう無理だった。

 もう限界だった。



 理屈なんて、考えられるはずがなかった。



 先ほど上ってきたばかりの階段を無我夢中で駆け下りる。どこに向かっているのかなんて、今の白神にはわからなかった。少しでも遠くへ、あの足軽たちから少しでも離れるためにただ足を動かす。



 暗い階段に響く、白神の足音。



 そして、すぐ後ろからは金属同士がぶつかるような音が、鎧の鳴る音が響いてくる。ガチャガチャと、その不気味な物音は足軽たちが追ってきているということをはっきりと示していた。


 足がもつれ、転げそうになりながらも必死に階段を駆け下りる。そして全速力で廊下に飛び出たところで、白神は硬い『何か』と正面から激突した。



「っぐ!?」



 まるで太い丸太に全力で体当たりでもしたかのような、そんな強い衝撃。その衝撃に耐えられず、そのまま白神は尻餅をつく。



 くらくらとする頭。



 自分がぶつかったものは何なのか、それを考えるだけの余裕すら今の白神にはなかった。それでも、とにかく逃げるために立ち上がろうとして。



「ーーーっ」



 目が、合う。


 こちらを見下ろしていたのは、一体の足軽。


 白神がぶつかったその足軽も、今まで見てきた足軽たちと全く同じ格好だった。黒い防具を身につけ、長い槍を手にし、大きな陣笠を被っている。


 しかし、今回は見えるものが違った。尻餅をついた白神は、その足軽を見上げるような体勢になっている。その陣笠の下は全て、白神の目に映っていたのだ。



 全身を恐怖が走り抜けていく。



 見えているのは、水気の全く感じられない土気色の肌。干からびたような唇。乾燥して縮んでしまった鼻。だが、そんなものはまだ許容できた。



「ーーーあぁ、あ・・・」



 白神は足軽の顔面、本来ならば眼球があるべきはずの場所を呆然と見つめたまま、呻く。



 そこにあったのは、2つの空洞。



 まるで地の底を覗いたかのように暗く、深い穴。ぽっかりと空いた黒い眼窩(がんか)は、足軽が生きた人間ではないということを知らしめていて。



 なにより、白神の心を折るには充分すぎた。



 力なく座り込む白神。



(・・・殺されるのか)



 足軽が振りかざす槍をぼんやりと眺める。


 あの刃が刺さるのか、と他人事のように理解する白神。諦めだけが思考を支配していく。もはや、絶望のあまり笑みさえ溢れそうだった。


 こちらに向けられているのは、鈍く輝く穂先。しかし、今の白神にはまるで安物の映画のワンシーンでも見ているかのように、現実感が全くなかった。



 避けられないことは明白。



 白神はもう、全てを受け入れていた。否、正確に言うのならば受け入れることしかできなかったのだ。たとえ足掻いたところで、今となってはどうすることもできないのだから。


 スローモーションのように見える足軽の動作。そして容赦なく白神の胸を狙い、振り下ろされる槍。




 ああ、痛いのかな、と。




 最後に思い浮かんだのは、そんな益体のないことだけだった。



 そして、白く染まる視界。

 そして、響くのは鈍い音。



 だが。



 足軽の振り下ろした槍は、白神を貫いてなどいなかった。



 白神は思わず目を見開く。


 ガチャン! と。冷たい廊下に鎧の音が響く。まるで糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる、鎧を身につけた足軽の体。その手を離れた槍が、音をたてて廊下を滑っていく。白神の目の前で、首筋を切断された足軽が倒れたのだ。


 呆然と見上げる白神の前を舞うのは白い人影。


 視界を遮るようにはためく白い衣服。眼前を流れるようになびいてゆくのは白い髪。





 純白の少女が、そこにいた。





 とん、と。


 横たわる足軽の隣に着地する少女。白く輝く一振りづつの刀を左右の手に持ち、自らの倒した足軽を無言のままに見下ろすその姿はあまりにも綺麗で。目を疑いそうなほどに、浮世離れしていた。



 静まり返る廊下。



 呆気にとられたまま、その少女を見つめる白神。目の前に立つ、この白くて幼い少女が足軽を倒した、なんていう信じられない事実を受け入れられずにいたのだ。



「ーーーっ」



 初めて出会った時のように、流れていく無言の時間。それでも硬直していた白神が無理やりに状況を飲み込み、とにかく言葉を絞り出そうとした、まさにその時。


 ガチャガチャ! と。


 白神を追ってきた2体の足軽が、一気に階段から下りてくる。



「!?」



 恐怖のあまり体を強張らせる白神。


 だが。


 槍を構え、ガチャガチャと鎧を鳴らしながら現れた足軽たちは、純白の少女を見つけるや否や白神を完全に無視して少女へと襲いかかる。白神を見つけた時とは明らかに違う、本気としか思えないほどの反応。



「・・・」



 対する少女は無言のまま、廊下を蹴って一気に跳ぶ。対になった二振りの刀を構え、一直線に進む少女。その先にいるのは槍を構えた足軽。純白の少女は躊躇うことなく足軽たちへと突っ込んだのだ。


 当然、足軽は少女を串刺しにせんと槍の刺突を繰り出す。その小柄な体を正確に狙って放たれる、おそろしいほど高速の一撃。



 白神は思わず息を飲む。



 しかし、それは槍が少女を刺し貫いたからではない。少女が手にした刀で槍を弾き、返す刀で足軽を斬り倒したという事実を目の当たりにしたからこそ驚愕したのだ。



 崩れ落ちる足軽。



 だが、少女を狙う足軽は一体ではない。倒れた仲間には目もくれず、もう一体の足軽は着地したばかりの少女へと手にした槍を振り下ろす。その身をしならせながら、恐ろしいほどの速度で叩きつけられる槍。


 しかし。



 それも、純白の少女の前では何の意味もなさない。



 まるで全てを予測していたかのように、迫り来る槍を左の手にある刀を使って最小限の動きで逸らし、間を詰める少女。そして、躊躇うことなく右手にあるもう一振りの刀で足軽の首筋を切断する。



 力なく崩れ落ちる、最後の足軽。



 対して少女は息を乱すどころか、その表情を変えることすらなかった。目にしたのはあまりにも圧倒的な実力の差。勝者たるその真っ白な少女は、二振りの刀を手にしたまま白神の目の前に立っている。


 まるで幻想の世界から抜け出てきたかのように綺麗で、それでいてまだ幼さを残した少女の姿。その身に纏う雰囲気はまるで抜き身の刃であるかのように鋭く、そして冷たい。



 それは、あまりにも近寄りがたい雰囲気。



 それでも、このまま呆然と少女を見ているわけにはいかなかった。今の白神は、いつ殺されてもおかしくない状況に置かれているのだから。乾ききった(くちびる)を動かし、白神はなんとか言葉を紡ぐ。



「ーーーっ、お前はユシロ、だったよな」



 それに反応してこちらに視線を向ける、真っ白な少女。そして白神の顔を見て僅かに思い出すような素振(そぶ)りを見せた後、こくり、と小さく頷く。


 白神は少し躊躇った後、



「・・・お前は、何者なんだ」



 抱えた疑問、それをそのまま少女へとぶつける。


 あの明らかに生きた人間ではない足軽、それをさも当然のように倒す実力。もはや戦い慣れしているとしか思えないほどに機敏な動き。二本の刀を手にした少女の姿を見て、白神は恐怖に近いものさえ感じていた。


 結果として少女に命を救われたのは事実だ。だが、もしこのまま少女が襲いかかってきたのなら、白神は()(すべ)もなく殺されてしまうだろう。つまり、少女の行動次第で白神の運命が決まってしまうのだ。



 その言葉に、白い少女はこちらへと向き直る。



 こちらを真正面から見据える瞳。それは心の奥底にある恐怖心を見透かしてくるようで、白神は思わず目を逸らしそうになってしまう。



 無言のまま、こちらを見つめてくる少女。



 沈黙の中、白神は逸らしてしまいそうになる視線をなんとか合わせ続ける。もしここで目を逸らしてしまえば、二度と答えを聞くことができなくなるような、そんな予感がしたのだ。


 そして、数秒の後。



「私はーーー」



 そう呟くように言いながら、ふっと目を伏せる少女。そして、その小さな唇がゆっくりと言葉を(つむ)ぐ。



「私は、守り手。争いを呼び込む、ただそれだけの存在」



 それは呟きに近い言葉。その表情からは、少女の心を読み取ることはできなかった。


 しかし、それでも。


 その言葉には、どこか諦めにも似たようなものが(にじ)んでいた。



 思わず言葉を失ってしまう白神。



 『守り手』、その言葉の意味はわからない。だが、少女の言い方。それはまるで、自分は必要ないと、存在しないほうが良いとでもいうかのようだった。


 そして再度流れるのは沈黙の時間。少女は何も言えずにいる白神から視線を外し、そして背を向ける。



「・・・死霊兵は、人で言う五感を使ってしか物事を認識できない。そして、この付近を持ち場としていた死霊兵はもう存在しない。命が惜しいのなら、この場に留まっているべき」



 それだけ言い残し、少女はゆっくりと歩き始める。両の手に刀を握ったまま、どれだけの足軽が潜んでいるかもわからない廊下の奥へと。



「ま、待てよっ」



 とっさに白神は少女を引き止める。



「・・・?」



 その言葉を聞き、律儀に立ち止まる少女。

 その瞳に見つめられ、白神はつまりそうになりながらも言葉を紡ぐ。



「ーーーっ、お前は、どこに行くつもりなんだ? あんな化け物が何体もいるのに、一人で動いたりしたら危ないだろ」



 そう、いくら目の前の少女が強く、武器を持っているからといって、危険なことには間違いないのだ。


 白神は未だに状況が理解できていない。それでも、先ほどの会話で少女には敵意がないことくらいは理解できた。つまりこの少女、ユシロは白神をわざわざ助けてくれたのだ。だからこそ、まだ小さな少女がそんな危険なことをしようとしているのをただ黙って見送る、なんてことはできなかったのだ。


 その言葉を聞き、少しだけ目を丸くするユシロ。無表情の少女が見せた、驚きを示すであろう表情の変化。


 そして数秒の後に。少女は、ゆっくりと口を開く。



「私は、大丈夫。いつも一人だから。だから、気にする必要はない。それにーーー」



 白い少女はそこで一度、言葉を区切り。

 少しだけ視線を逸らして。



「ーーー私も、あなたの言う化け物と変わらないから」



 そうはっきりと、当然のように言った。

 その顔は無表情のままで、変わることはない。



 しかし、その瞳は。

 世界を映す、2つの綺麗な鏡は。



 言いようのない悲しさを、隠しきれないほどの寂しさを湛えながら、確かに揺れていた。



 思わず息を飲む白神。



 まるで感情を失ってしまったかのように無表情を貫いている少女の心を窺い知ることはできない。何を考え、何を思っているのか、それを知る(すべ)はないのだ。


 それでも、その呟くような言葉から感じたものは。それでも、その揺れる瞳の中に見えたものは。



 まるで全てを諦めたかのような、どうしようもないほどの絶望だった。



「ーーーっ」



 白神は、何も言えなかった。


 白神はユシロという少女のことを、全くと言っていいほど知らない。あんな化け物みたいな足軽を、慣れたことだと言わんばかりに倒してしまうような少女のことなんて、想像することすら不可能だったのだ。


 だからこそ、軽々しく言葉なんてかけられなかった。中途半端な同情は相手を傷つけるだけだとわかっているのだ。それは、ただの自己満足にすぎないのだから。


 ただ、その時に見た少女の姿は。



 どうしようもなく孤独で、儚げで。

 どうしようもないほどに、辛そうだった。



 ユシロは何も言えないままに立ち尽くす白神を見て無表情のままに背を向け、暗い廊下の奥へと歩きだす。突き当たりが見えないほどに暗い廊下はまるで、永遠の闇へと続くトンネルのようだった。それはまるでユシロを呑み込もうと待ち構えているようで、白神の心をどうしようもなくざわつかせる。



 白神は、思わず少女へと手を伸ばす。



 今ならまだ間に合う。あの白い少女を引き止めることができる。


 しかし。



「っ」



 その手は、途中で止まってしまう。



 ここで引き止めることが、本当に正しいのか。もし引き止められたとしても、今の自分に何ができるのか。そんな溢れ出した躊躇いが、引き止める機会を永遠に失わせてしまう。


 そして、暗い廊下の奥へと姿を消すユシロ。



 白神が伸ばした手は、中途半端な位置で止まったままで。






 最後まで、少女に届くことはなかった。






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