2 新しいクラスにて
「はぁ、なんだかなぁ」
机に伏せたまま、白神は一人呟いた。
季節は4月、あくびを噛み殺すだけの始業式がようやく終わり、晴れて高校3年生となった白神は決まったばかりの新教室に戻ってきたのだ。
壁に掛かった時計や棚の位置などが前の教室とは少しだけ違う、新しい教室のどこか馴染めない風景。本来なら心機一転、この新しいクラスで高校生活最後の一年を始めるーーーはずだったのだ。
白神は伏せていた顔を少しだけ上げ、目だけで辺りを見回す。
そんな白神の考えをぶち壊すかのように、クラスには全くといっていいほど緊張感がなかった。数人で雑談しているグループもあればマンガを読んでいる奴もいるし、なかには参考書を開いている猛者までいる。
それは学年が変わる前とほとんど変わらない、良く言えば居心地の良い、悪く言えば少しだらけたような雰囲気。
そう、今年の新高校三年生にはクラス替えがなかったのだ。それはそれで良いとは思うのだが、周りは見知った顔ばかりで三年になったという実感が全くなかった。なんというか、二年の時とほとんど変わらないのだ。参考書を開いている奴も暇潰しに見ている、といった雰囲気であり、受験が迫っている、みたいな殺伐とした空気は一切なかった。
そろそろ真面目に勉強しないとヤバいかな、少し憂鬱な気分になっていた白神からすると、拍子抜けしてしまったというのが本音だったのだ。
ほんと、3年になった気がしねーな、と心の中で呟きながら、もう一度ため息をつく白神。
すると、
「こっちのほうが全然いいって、このクラスは爆弾みたいな奴もいないし、誰に対しても気を使わないで済むし」
誰に言った訳でもなかった先ほどの呟きが聞こえたのか、白神の1つ前の席に座っている長髪男、笹川が言う。その言葉を聞き、お前も色んな意味で結構な爆弾だよ、という本音を飲み込んで顔を上げる白神。
このロン毛、笹川とは一年の時からずっと同じクラスだったりする。そして、学期初めに名簿順で座った時にだいたい前の席にいて、クラス単位で移動するような時にもだいたい前にいるのでずっとつるんでいるのだ。そんなに友達が多いわけではない白神にとって、クラスで一番話す相手でもある。
とは言っても、
「そしてなにより、うちのクラスが一番女子のレベル高い! こんな環境でまた学習できるなんて最高じゃないかっ!!」
「お前、二年の時もそう言ってて、結局は期末で5欠してただろ」
いきなり無駄にテンションが高くなる笹川に対し、白神は冷静にツッコミを入れる。こんな感じでほとんどボケと変わらない発言を連発する笹川にツッコミを入れる、というのが日々の会話の流れになっていた。
ちなみに5欠とは5科目欠点、つまり補習や再テストを受けないと留年させられるかもしれない欠点の科目が5つあるということだったりする。ここも一応は進学校に分類されているので、その辺りは結構厳しいのだ。
コイツ、よく三年になれたよな、と白神は本気で思っていたりする。
そんな白神の冷めた視線を受けながらも、なに言ってるんだ、という顔をする笹川。
「勉強よりも大切なものがこの世界にはあるんだよ! そう、人生で三年間しか経験できない高校生活という名の青春、これを楽しまないなんて馬鹿みたいだろ!」
「・・・留年しろ、そして四年目を満喫してこい」
地味に腹の立つ表情で語る笹川に、白神はボソッとそう言い放つ。
青春なんてものに興味はないのだ。平均寿命が伸び続けている今、そんなものは人生の前半におけるまさに一瞬でしかない。そんなものに憧れて長い人生棒に振るくらいなら、大人しくちゃんと勉強しとけよ、と本気で思う。・・・それがモテない男の僻みだとわかっているからこそ悲しくなるのだが。
セルフサービスで自らの心に傷を負った白神は、また一人ため息をつきながら机に顔を伏せる。
そんな虚しいことを考えても意味はないのだ。そんな無駄なことをするくらいならば、始業式で使い果たしたやる気と体力を少しでも回復させておくべきだろう。
はあ、とため息をつく白神。
なぜ全国の校長どもは毎年、新学期の始まりたる始業式で長話をする、なんていうこちらのやる気を削ぎ落とすような暴挙にでるのか、これは全国の学生が感じる素直な疑問だろう。
あれを真面目に聞いているのは学生はおろか教師でさえもごく少数だろうし、内容を記憶に残している人間など皆無なのだ。そんな自己満足に付き合わされるこちらの気持ちも考えてくれよ、と真剣に思うのだが、理解してもらえる日は永遠に来ないのだろう。
もう寝よう、とゆっくり目を閉じる。
春休みに堕落した生活を送っていたため、非常に眠たいのだ。特に朝の6時まで長引いたラスボスとの死闘、正確に言うならば残っていた春休みの宿題への最後の足掻きが眠気に拍車をかけていた。
「おいおい、お前は非リア充生活から抜け出したいと思わないのか? イチャつく奴らを見てなんとも思わないのか?」
なにやら熱く語ってくる笹川。
聞く気のない白神は顔を伏せたまま、全身を使って寝かせろアピールをしてみる。だが、それでも笹川の熱いトークは止まらない。それどころかさらにヒートアップしていく。
「なんかあるだろ、心の底から求めるものが! 彼女欲しいとか妹欲しいとか担任になった新任女教師とロマンチックな関係になりたいとか!」
笹川の魂の叫びが聞こえたのか周囲のクラスメイトがちらり、とこちらを見て、またか、というような顔をする。そう、クラスに一人はいる変態として、笹川のキャラは揺るぎないものとなっているのだ。
眠るのは諦め、伏せていた顔を上げる白神。
その笹川とよくつるんでいる白神も、当然のごとくその変態仲間だと思われていたりする。訂正するのは無理だろうな、と諦めに近いものを抱きながら、それでもこれ以上は変態だと思われないためにもツッコミを入れる。
「ない。というか後ろ2つはアウトだろ、主に社会的に。だいたい、クラス替えがないならどうせ担任もーーー」
変わらないだろ、と言おうとしたちょうどそのタイミングで廊下を歩く足音が響いてくる。
期待に満ちた瞳で教室の扉を凝視する笹川。周囲のクラスメイトたちの期待も高まっていくのがわかる。やはり、一年間付き合うことになる担任が誰になるのか、それは皆が気になることなのだ。足音が近づいてくるにつれてクラス中の期待が高まっていって、そして。
ガラガラ、と開く扉。
そして間を置かず入ってきたのは、美しい女教師ーーーなんてことはなく、いかついボディービルダーのような大男だった。その瞬間、絶望に似た空気とため息がクラスを覆う。
「ほら、そんな辛気くさい顔をするな。またお前らの担任をすることになった尾鷲だ。今年もよろしく頼む」
のっしのっしと教卓まで歩き、その体格のためかやけに小さく見える教員手帳をパラパラと捲る尾鷲。どうやら、白神の予想は的中だったようだ。
前で笹川が力なく項垂れる。まさか本気で期待していた、なんてことはないだろうが、その気持ちは分からないこともない。
(とにかく恐いんだよな、見た目が)
黒くつやのある髪を刈り上げ、日焼けしたその巨大な肉体をスーツで包み、細く鋭い目つきで辺りを睥睨するかのごときその姿は、どこをどう見ても教師には見えない。これでサングラスでもかければ完全にその道の人だろう。
生徒と話していただけで職務質問された、三者面談で生徒と保護者をまとめて泣かせた、怒って教卓を拳一つで叩き割った、などの本当かすらわからないような噂の数々が流れるほどに恐ろしく見えるこの教師、尾鷲は二年の時も担任だったのだ。
とは言っても、一年間担任として付き合っていればそこまで危ない人ではないことも分かっていた。ちょっとくらいの事では怒らないし、話もわかる普通に良い人なのだ。
だが、なんせあの顔である。
面談などで呼び出され、一対一で向かい合ったら本当に恐い。低い声と鋭い目つきに何を言われても謝ってしまいそうになる。小学生レベルなら冗談抜きに泣いてしまいそうなほどに威圧感があるのだ。慣れてきたとは言え、未だに面談はクラスにおける最大の恐怖イベントだったりする。
尾鷲を本気で怒らせたらどうなるのか。それはこのクラスの禁忌にして、最大の謎。まさにパンドラの箱なのだ。
そんなことを他人事のように考えながら、一年間の予定をざっくりと説明していく尾鷲をぼー、と見つめる。特に問題を起こしたこともないし、起こす予定もない白神にとっては、担任が誰であるかなんて結構どうでも良かったりするのだ。
それよりも今はとにかく眠い。気を抜けば机に突っ伏してしまいそうなほどに眠気は強くなっていた。
目蓋が重い。
うつら、うつらとしながらも、なんとか意識を繋ぎ止める。このまま眠ってしまっては、新学期早々いきなり立たされかねない。居眠りくらいのことで尾鷲が本気で怒ることはないだろうが、それでもリスクとしては避けたかった。
しかしそんな思いとは裏腹に、眠気はさらに増していく。
尾鷲の言葉が遠く聞こえてくる。その低くて重みのある声が、まるで眠りに誘う音楽か何かのように鼓膜へと響いているのだ。
そして、ゆっくりと閉じてくる目蓋との戦いは次第に劣勢になっていく。もう尾鷲の言葉は頭に入ってこなかった。それでも白神はなんとか意識だけは保とうとする。
続く眠気との瀬戸際の攻防。
しかし意識は徐々に薄れていき、ついには心地よく響くその声に誘われるままーーー
「おい、白神。早く行かないと置いてかれるぞ」
聞こえてきた笹川のささやくような声に、はっと目が覚める。慌てて周りを見回すと隣の席、正確には白神の横一列が全て空席になっていた。なにっ!? と心の中で叫びながら、白神は慌てて立ち上がる。
「そこは白神か? 寝ぼけてないでお前も教科書を取りに行ってこい、早くしないと一番重いのを持たされるぞ」
尾鷲の言葉で、白神はすぐに状況を悟る。おそらく白神を含めた最後尾の列が、新しく使うクラス全員分の教科書を取りに行かされることになったのだろう。
(くそっ、出遅れた!!)
寝ぼけ眼をこすりながらも、白神はとにかく急いで廊下へと飛び出した。