序章 前夜の争い
静寂に沈む、夜の街。
明るく輝く月の下、異常なまでに静まり返った家々の屋根を、一人の少女が駆け抜けていく。
一般的な二階建ての家でも地上からの高さが5メートル程はあるため、落ちれば骨折してもおかしくないはずなのだが、少女に躊躇いは一切ない。当然のように何メートルもある道路を飛び越え、次から次へと屋根を跳び移っていく。
その手に握られているのは刀。黒を基調とした、見るものを引き込みそうなほどに美しい刀は月明かりに鈍く輝く。
「ーーー」
そんな刀には似つかわしくない、どこかの高校のものであろう真新しい制服をその身に纏っている少女は、真剣な表情のままに屋根の上を駆け抜けていく。そう、少女が追っているのは『標的』。少女にとっては確実に仕留めなければならない『標的』が、すぐ目の前にいるのだ。
はやる気持ちを抑え、距離を詰めるべく追跡を続ける少女。
そして、この街の中でも有数の大通りである国道の近くにまで来た時、視線の先にいる『標的』ーーー純白の髪に真っ白な服装をした、まだ幼い姿の少女ーーーが突然に進路を変える。
「っ、逃がさ、ない!」
少女はそう言うや否や、屋根を蹴って跳ぶ。それは、常人ではあり得ないほどの跳躍。速く、そして的確に少女は『標的』との間を詰める。
制服がはためき、その漆黒の髪が夜風になびく。
狙いは上空からの強襲。少女は落下する勢いそのままに、刀を『標的』へと叩きつけた。それは威力、速度共に申し分のない一撃。
(仕留めた!)
狙いを違えることなく『標的』の首筋へと迫る刀にそんな確信を抱く少女。
だが。
『標的』たる真っ白な少女がくるり、とこちらを向いたかと思うと、金属がぶつかり合うような音が響く。
「っ!?」
思わず目を見開く少女。
首筋からの袈裟懸けを狙った一撃が『標的』の手にしている二振りの刀の内の1つに逸らされ、威力を殺しきれずに屋根を抉ったのだ。自分の斬撃が最小限の動作で受け流されたことを理解して、少女は驚愕する。
それはまるで、こちらの狙いを初めから見切っていたのではないかと疑いたくなるほどに鮮やかな動き。それによって生み出されるのは、もう片方の刀でそのまま反撃に移ることのできる、『標的』にとっては明らかに優位な体勢。
対して一撃を放ち、大きな隙をみせている少女は劣勢に立たされたと即座に判断し、焦りながらも防御の体勢をとる。
しかし、
「ーーー」
『標的』はこちらに構うことなく背を向け、そのまま逃走に移る。まるで戦うこと自体を避けているかのように自身の優位を捨て、逃げに徹しているのだ。
防御の意表を突かれた形になった少女は、また距離を離されてしまう。それはまるで戦うに値しないと言外に告げられているかのようで、少女を激昂させた。
「ーーーっ、ふざけないでっ!」
叫ぶと同時に、少女の周囲に光る球体がいくつも浮かぶ。それは、少女が保有する中でも特に高い威力を持った攻撃。
「ちょっ、そんなん撃ったらーーー」
状況を見てとったのか、後ろから追いついてきた仲間が慌てたように制止するが、時はすでに遅く。
少女の周囲にある全ての球体は、一際明るく輝くと同時にその形を光線へと変え、一斉に放たれる。そのまま『標的』めがけて一直線に突き進む、何十発もの光線。
そして、着弾した光線は次々と大爆発を引き起こす。
連続する爆発によって、辺りの家々がまとめて吹き飛ばされてゆく。まるで爆撃でも受けたかのように崩れ、瓦礫となっていく建物。舞い上がる粉塵が辺りを覆っていく。広範囲をまとめて破壊し尽くした爆発は、その光線の威力を何よりも物語っていた。
しかし。
「ーーーっ」
その光景を見て、少女は固く刀を握りしめる。
「あーあ、やらかしてくれたな。これやったらもう追跡できんやろ」
隣に着地した仲間、茶髪の若い男が辺りを見回して呆れたように言う。
そう、少女にも見えていた。先ほどの光線、その全てが避けられ、『標的』を捉えることなく炸裂していたことを。そして、舞い上がる粉塵に紛れて『標的』が姿を眩ませたことも。
少女は唇を噛みしめる。
先ほどの攻撃は完全に少女の判断ミスだった。手柄を焦り、仲間の言葉に耳を傾けようとしなかった。冷静さを失い、確実性の低い遠距離攻撃を後先考えず放ってしまった。それにより、追い詰めていたはずの『標的』に逃げ道を与えてしまったのだ。
その結果が、今の状況なのだから。
そしてなにより、ここで『標的』を逃がしてしまったことによって、後々の戦局に多大な影響を及ぼす可能性さえあるのだ。少女自身だけでなく、同じ組織に属する人間全員を危険に晒してしまう可能性が。
ぎゅっ、と刀を固く握りしめたまま、少女は『標的』を探し出すために屋根から跳ぶ。
発見できる可能性が絶望的なまでに低いことは分かっていた。いくら粉塵に包まれている範囲が広くないとは言え、一度姿を隠すことができればそのまま振り切れるだけの能力を『標的』は有している。だからこそ今まで仕留め切れず、逃げられ続けているのだ。
しかし、だからと言ってこのまま諦めるなんてことはできなかった。今の状況は、間違いなく自分が造り出してしまったのだから。失点を少しでも取り返すため、僅かな可能性にすがってでも捜すしかないのだ。
唇を噛みしめたまま、瓦礫が散乱するアスファルトの上へと着地する少女。しかし、鋭く睨んだ先、消えつつある粉塵の中からは動くものなどまるで存在していないかのごとく、気配すら感じ取ることはできなかった。
「ーーー『白の守り手』」
少女は夜空を見上げ、絞り出すようにそう呟く。
輝く月の下、その憎しみの込められた呟きは夜風によって流され、そして夜の闇へと消えていった。