願いの形
僕は夜中、一人でトイレに行けない。
あれは蝉時雨降りしきる夏の日のことだった。
霞ちゃんは元気な子で悪戯が大好きな子だ。
だから、その日も霞ちゃんは「やってはいけない」といわれていた遊びをやりたがる。
神社の鳥居の上に石を投げる遊びである。
手を引かれつつ、僕は木漏れ日の中鳥居の前までやってきていた。
周りには蝉の音、音、音。
見れば、石作りの鳥居の上には大小さまざまな石が乗っているようである。
霞ちゃんに限らず、悪戯好きのものは多く居たようだ。
何でもその神社は神宮皇后の御霊を御祀りした神社ということで、たいそうな謂れのある神社らしい。
最も、僕には関係のないことだけれども。
霞ちゃんは僕の止める声も聞かず、石を後ろ向きに投げる。
鳥居を背にし、後ろ向きに投げ上げるのだ。
何でも、上手く石が鳥居に乗れば願い事が一つ叶うらしい。
「何を願うの?」との僕の問いは黙殺された。
話しては願いの効力が薄れるとか何とか。
お互いに半袖一枚、そして半ズボン。
僕は仕方なく、そして霞ちゃんは一生懸命に鳥居に向かって石を投げた。
「ねぇ霞ちゃん、もう止めようよ。お母さんたちに見つかったら叱られるよ」
僕は泣きそうな思いで霞ちゃんに言葉を向ける。
その霞ちゃんの表情は真剣だ。
必死な顔して今も石を投げ続けている。
「ねぇ霞ちゃん……」
「うるさいわね!」
「ご、ごめんなさい!」
思わず謝ってしまった。
と、そんな時だ。僕の頭の上にそれが降って来たのは。
そして僕の頭に鋭い痛みを与えてくれたそれは地面に落ち、金属質な音を立てる。
変わりに、霞ちゃんが投げた石が落ちる音がしない。
「やったわ! 石が乗ったの!!」
「痛いよ霞ちゃん。何か降って来た」
「石?」
「違うみたい」
「何かしら」
と、霞ちゃん。
僕は拾う。
錆付いた一枚の硬貨を。
菊の紋章の付いている、見たこともないお金。たぶん、昔のお金だ。
くすんだ黄金色の硬貨。
見たこともない小さな硬貨。
僕は急に怖くなる。
「か、霞ちゃん、どうしよう! これ、昔のお金だよ!!」
「ふーん」
「ふーん、じゃないよ! 怖いってば!!」
「怖がり。弱虫。ビビリ」
「そんな事言われても……ねぇ、どうしよう、どうしよう!!」
「賽銭箱にでも入れてお願いすれば良いじゃない。どうか祟りに遭いませんように! って」
「祟り!?」
どうしよう。どうしよう。
僕は気味の悪い古びた硬貨を捨てる事も手放す事もできず、ただただ震える。
「だから賽銭箱に入れてきなさいって」
「つ、付いてきてくれるよね霞ちゃん!?」
「嫌よ。一人で行って来て」
「え!? 僕一人!?」
「あったり前じゃない!」
理不尽だ。
元はといえば霞ちゃんが鳥居の上から落とした硬貨だというのに。
霞ちゃんは笑みを零している。僕を叱る事より、鳥居の上に石が乗った事がよほど嬉しいのだろうか。
どんな願い事をしたのだろう。どんな願掛けなのだろう。
そして、この硬貨もどんな願いをこめて鳥居の上に投げられたものだったのだろう。
怖い。
怖い。
怖い!
僕はニヤニヤ笑いを絶やさない霞ちゃんに見送られつつ、本殿へ向かう。
そこに賽銭箱があるのだ。
蝉の声が鎮守の森に染み渡る。
白い影を見た気がした。
黒い影が横切った気がした。
気のせいだ。きっと気のせいだ。
僕は賽銭箱に恐る恐る硬貨をそろりと入れる。
そう。
あくまでも優しく。丁寧に。
おっかなびっくりそろりそろり。
僕は目を瞑って必死に祈る。
「どうか怖い事がおきませんように!!」と。
「ねぇ、終わった?」
突然かけられた背後からの声に僕は跳び上がる。
霞ちゃんだ。
霞ちゃん。霞ちゃんは僕の肩に手を乗せている。
「お、終わったよ。賽銭箱の中に入れた」
「そう」
気のせいじゃない。
白い影が拝殿の脇に見える。
黒い影が何度も横切っている。
何だよ、何だ、何なんだ!
見れば霞ちゃんも手を合わせてなにやら祈っている。
「何をお願いしたの?」
「秘密」
「ねぇ、早く帰ろうよ、怖いよ」
「もう! 本当にビビリ! 意気地なし! ……でも、それも今日までかな?」
「え?」
霞ちゃんが花のように微笑んだ。
拝殿の白い影が消えていた。
辺りを蠢いていた黒い影の姿もない。
どういうことだろう。
「やーい、ビビリ」
「ち、違うもん!」
僕は必死に言い返す。
不思議といつもの胸の支えが無い。
「本当に怖がりなんだから!」
「だからそんなのじゃないってば!」
「ふーん。夜中に一人でトイレに行けるんだ?」
「そ、それは……」
行けない。
だって僕の家のトイレは古くて暗くて怖いんだ。
「あはは! でも、それも今日までだから!」
「どうして?」
「秘密!」
「えー!? 霞ちゃんがケチだよぅ」
「情けない声を出さないの!」
「ねぇねぇ、何をお願いしたの?」
「ひ・み・つ!」
「教えてよ」
「そんなに知りたいんなら、今晩一人でトイレに行ってみなさいよ!」
「えー!? 怖いよ!?」
「あはは! 本当だったんだ、その話!」
そしてその夜。
僕は尿意に目が覚めた。
我慢しようと……ダメだだめ、とても我慢できない。
おしっこ!
霞ちゃんの言葉が蘇る。
ちょっとだけ悔しかった。
だから今夜は一人でトイレに行ってみる。
うん。
勇気を出して一人でトイレに行ってみよう。