50. 予兆
誘拐騒ぎからしばらく経った頃、ルナ達は事件の前とほとんど何事もない日常を過ごしていた。
かわったことと言えば、メアリが冒険者になったことぐらいだ。それも登録だけのことなので、実質なにも変わってはいない。
「さてルナ、今日はこの屋敷にはほとんど誰もいないわよね」
「そうですね」
「お父様は仕事をなさっているし、お母様はお父様のお手伝いに行ってるわ」
「……そうですね」
メアリの言葉にルナは同意する。ルナも少なからずお世話になっているメアリの母アリスは、自警団の人員不足をおぎなうべく、夫であるジェフィードの補佐として率先して働いている。
「だから、娘のわたしはお母様の陣中見舞い?に行きたいと思うの」
「理屈はまあ理解できるのですが……どうして陣中見舞いが疑問形なのですか? そしてなぜお嬢様は明らかに平民の服装をなさっているのです?」
簡素なワンピースを着て堂々と胸をはるメアリに、ルナはいつものように冷静に指摘した。
メアリは口調もいつの間にか平民ver.に変えている。そんなメアリに変わらず侍女モードで接することで、メアリを手伝う気はないと暗に伝える。
「うっ……だから、お母様の陣中見舞いにいくのよ」
「そんな格好でアリス様のところまで行けば、怒られるのは目に見えているでしょうに……」
「大丈夫、お母様なら許してくれるわ。……それにねルナ、貴族にはやらねばならないときがあるの」
「お屋敷からの脱走はしてはいけないことに入ると思いますが。そのセリフを言ってみたかっただけでしょう」
ふっ、と愁いをおびた顔をするメアリに、相変わらず容赦のない突っ込みをいれるルナ。
二人は今日も平常運転である。
そんなとき、とつぜんやや荒いノックの音がした。
「お嬢様! アルト様が、あと半刻ほどで屋敷にいらっしゃるとのことです!」
返事を待つのもそこそこに慌てた様子で部屋に入ってきたのは、スーリヤ家の屋敷で使用人を束ねる老齢の女性、ヘレナだった。
総白髪に皺の刻まれた頬、そしてピンとのびた背筋の、奇麗に歳を重ねたという表現がしっくりくる彼女は、スーリヤ家に仕えて40年という大ベテランである。
ヘレナは部屋の中で硬直しているワンピース姿のメアリと、脇にひかえているルナを見て眉をつりあげた。
「お嬢様、また抜け出そうとしていましたね!?」
「ば、ばあや。これは少し髪のお手入れをルナにしてもらっていただけで……」
「泥を混ぜたオイルなんてあるわけがありません。それにその服装はなんですか!」
流石は年の功というべきか、ヘレナは一目で変装用としてメアリが髪をくすませるためにつけているオイルの成分を見抜いた。
行儀作法や身嗜みの教師でもあるばあやの指摘に、メアリはうっと言葉に詰まる。
「今はそんな場合ではないので何も言いません。……ああ、後でお説教はしますからね」
ヘレナの言葉に目を輝かせたメアリは、直後のセリフにがっくりとうなだれる。 そして続く「ああ、ルナさんもですよ」という言葉に、ルナはそっと目をそらした。いくらルナといえど、年の功を積んだ年長者のお説教には堪えるものがあるのだ。
とにかく、とヘレナは脱線しかけた話を戻す。
「今はアルト様の対応が最優先です。今は時間が足りません。ルナさん、お嬢様を湯に連れていきなさい。ドレスは私が準備しておきます」
「わかりました」
「えっ、ルナ、少し待ってもらえな」
「諦めてください。婦長の言う通り時間がありません」
いくらなんでも、メアリをくすんでかさかさの髪でアルトの前に出すわけにはいかない。
ヘレナは部屋にいるであろうメアリにすぐに化粧をさせるつもりだったため、本当に時間が足りないのだ。
この場で最も経験豊富なヘレナが、ルナにてきぱきと指示を出す。
彼女はルナの事情も忠誠心もすべて知った上で、ルナがメアリに仕えることを認めている人間の一人だ。
だからこそヘレナの指示も、ルナの能力をもってしても限界ぎりぎりのものばかりだ。
「……本当に、あのお転婆は奥様譲りなのですね。ルナさんのこれからの苦労が目に浮かぶようです」
ルナがもがくメアリを浴場へと連れ去っていく。
メアリの部屋に一人になったヘレナは、泥入りのオイルの瓶を見てくすりと笑うと、クローゼットを開けてメアリに着せるドレスの候補を選びはじめた。
*
1時間後、メアリの部屋にはぴかぴかに磨きあげられた髪と、それと反比例するように元気を失ってぐったりするドレスを纏ったのメアリがいた。
「2人とも、容赦がなさすぎるわ……」
「お嬢様が脱走なぞをくわだてるからです。自業自得ですよ」
「なんとか間に合いましたね……」
一時間足らずでお風呂や着替え、化粧までを完璧にやらされたメアリはもちろん、それを手伝ったルナも、侍女モードのルナにしては珍しく疲れを見せていた。体力的な疲れはともかく精神的な疲れで心なしか動きがにぶい。
対して、この一時間のあいだずっと動きつつ場を仕切っていたヘレナは、顔色ひとつ変わっていない。
ルナの能力を侍女としての方向に最大限に生かし、たったの二人でメアリの身支度を限られた時間のなか終わらせたのは『侍女のプロ』としてのヘレナの腕のなせる業だった。
見習わなければ、とルナはそんな大先輩の姿を見て思うのであった。
こちらは心身ともにぐったりしているメアリが一息ついたところで、ルナの耳に屋敷の前に馬車が着いた音が聞こえる。
「そろそろアルト様が到着なさったころでしょう。お嬢様、対応へ行きますよ。ルナさんは部屋に入らないのよね?」
「……はい。私がアルト様に顔を覚えられるわけにはいきませんので」
「わかりました。ではルナさんは今からお茶の準備を。アルト様へは私がお出しします」
ルナが二人に馬車の到着を告げる前にヘレナが動いた。そのことに感心しつつ、メアリを見送ったルナは言われた通り、出すお茶をいれる準備をはじめた。