31. 氷妖精の悪戯
「いやっほーーっ」
「お嬢様、大声で叫ばないで下さい。はしたないですよ」
別荘の一室で窓から見える辺り一面凍った湖の、雪原とはまた違った趣のある銀世界に、メアリは目を輝かせて歓声を上げる。
剣の稽古で体を動かしていたとはいえ、かなりストレスが溜まっていたのだろう。
「はしたないなんて今更よ」
「確かに……ってそうではなく! 今から少しづつでも直して下さいませ! 学院に行けば寮暮らしなのですよ、日常の中でも優雅に振る舞えるようになって下さい」
一瞬納得しかけたルナだったが、問題はそこではないことにやや遅れて気付く。
メアリはそんなルナの言葉にむくれてみせる。
「むぅ……ルナがばあやみたいなこと言ってる」
「わかりました。私が学院に通うというのは撤回致します」
「申し訳ありませんでした」
基本的にこの二人の力関係はルナの方が強いのだ。本当に主従としてそれはどうなのだろうとルナは疑問に思わないでもない。
「はいはい、お喋りはそこまでにしなさい。今からスコットが、今日行く湖での注意事項の説明をするのでよく聞いておいてね」
じゃれあう二人を微笑ましそうに見ていたアリスが、引率の先生のようにパンパンと手を打ってスコットを示す。スコットは今回の旅行に護衛としてついてきた自警団員の一人だ。
話を振られたスコットは小さく頷いて話し始めた。
メアリもたまに暴発する以外は聞きわけのいい令嬢である。大人しく座ってスコットの注意を聞く。
故郷がこの近くだというスコットの話によると、レクタン湖にはライウルフという小型の狼の魔物が生息しているらしい。
彼らは体毛が生え変わる速度が非常に早く、その時期に最も適した色になる。今の時期は白で、湖に張った氷の上にも時折出現して人間その他の獲物を狩るとのことだった。
それでは危険だと思われるかもしれないが、ライウルフの特性の一つが『2匹以上固まっている生き物は襲わない』というもので、人間もその例にもれず二人以上で行動していると絶対に襲ってこないらしい。不思議な習性もあったものだ。
「……というわけで、絶対にレクタン湖上での単独行動は控えてください。
特に奥様にお嬢様、必ず二人以上で行動し、私達護衛から一定以上はなれないようにしてください、わかりましたね」
「わかりました」
15分程でスコットの(主にメアリ達母娘に対する)注意が終わり、メアリはいそいそと立ち上がって外に出ようとするも、即座にルナに捕獲された。
「お嬢様? 先ほどのスコットの注意を忘れましたか? 興奮して先走るお嬢様を追い掛けるこちらの身にもなってくださいませ」
「むー、放しなさい」
「なりません。お嬢様の暴走を諌め、危険から守るのも私の務めですから」
不満気に頬を膨らませるメアリの命令をしれっと無視するルナに、アリスとスコットは内心で拍手を送る。
「(立派にメアリの手綱を握っているわね……。頼りになるわ)」
「(実際にルナが来てから我々護衛の仕事も楽になっております、奥様)」
「(私もジェフがいなければ死んでいたかもしれない場面は数えきれないもの、メアリがルナちゃんの存在で少しでも落ち着いてくれるなら安心ね)」
「(死んでいたかもって……一体何をしていたのですか)」
そんな会話をひそひそと小声で交わす保護者達であった。
「いったぁ……」
レクタン湖に分厚く張った氷の上で転倒し、したたかに臀部を打ちつけたメアリがうめき声を上げる。
「大丈夫ですか?」
別荘に付いてから数日後、メアリ達は凍りついたレクタン湖上で金属のブレードが付いた靴をはいて氷上を滑って遊んでいた。いわゆるスケートである。
スケートは百年ほど前に、ある『転生者』が広めたとされており、今では立派な一つのレジャーとして広まっている。一部の大貴族の中には自らの屋敷に氷魔術でスケートリンクを作らせた者もいるという。
「ええ、ありがとうルナ。というかルナはさっきから安定してるわよね、なにかコツでもあるの?」
湖畔の別荘に滞在している間、毎日のように滑っているメアリだが、一向に上達する気配はなく転び続けている。一方のルナは前世での経験もあってメアリの傍で転けることなく控えている。人間意外な弱点ってあるものだよなーとルナはしみじみと思う。
「何ごとも経験ですよ、お嬢様。続けていれば上達するものです。お嬢様のそれは……もしかして、マメができているのではありませんか?」
「あれ、バレてた?」
話していてふと感じた違和感をルナは指摘してみると、メアリはばつのわるそうに赤面して頭をかいた。ルナはいよいよもって呆れてしまう。
「痛みを我慢してまでやることでもありませんでしょうに」
「うっ……つい楽しくて」
「おつかまり下さいお嬢様、別荘に戻りますよ」
「むう……」
ルナが手を差し出し、二人で別荘へ向かった。
その途中で、メアリがその背後をみて声をあげた。
「あら? ルナ、あれはなにかしら」
「その手には乗りませんよ、諦めて帰りましょう」
素っ気無く返すルナ。メアリの信用なんてそんなものであった。メアリは心の傷を負った。まあ自業自得なのだが。
「いやそうじゃなくて! ルナ、私の手を掴んでてもいいから後ろを見て!」
ただならぬメアリの様子に加えて、ルナ自身も自分達に接近する一団の気配を察知し、ルナは慎重に振り返って眉を顰めた。
「……あれは一体?」
二人の視線の先には、なにやらうごめいている巨大な氷の塊があった。
よく見るとそれらは等身大の豹に狼、鹿や兎などの動物や、針葉樹から蔦のからまった広葉樹のような植物までを模した見事な氷の像で、動く度にそれらから剥離した氷の結晶がきらきらと舞い、清らかで美しい情景を創り出している。
ただ、何故か氷像の群れは植物も含め凍った湖の上を爆走しており、幻想的な雰囲気をぶち壊しにしていた。
「氷魔術……?」
あまりにも訳のわからない現象を前に呆然としていた二人だったが、メアリよりも大規模な魔術という不思議現象を見慣れているルナが先に再起動を果たす。
「え、えっと、魔術ってあんなに大きなものを動かせるものなの……?」
「さあ……」
遅れてメアリが復活するも、目の前で起こっている確かな現実に思考を巡らせるルナにその問いに答える余裕はない。
暫く考え、ルナはこの現象は何かしらの魔術によるものだと結論付けた。ただし、これだけの数をそれぞれ細かく制御する技術はどう考えても現代のそれではない。
しばらくすると湖の中心部で氷像群ははたと止まったかと思うと、それらの足元に生じたヒビがぴきぱきと嫌な音をたてながら広がり、氷像群は轟音を立てて湖に張った氷を破砕しながら湖の中に沈みはじめた。
「お嬢様! ここから逃げますよ!」
ヒビが大きくなり、断裂が二人の方に向かってくるのを素早く察したルナがメアリの腕を掴んで急きたてる。
メアリが慌てて、ルナに引かれてその場を離れた。
途中二人が滑る直ぐ後ろまでヒビが迫ったが、なんとか逃れることができた。
「あ、危なかった……」
「今のは何だったんでしょうか」
無事に安全地帯へと避難したものの、頭上にクエスチョンマークが乱舞する二人だったが、今考えてもどうしようもないとメアリが言ったため、異常事態に気付いて駆けよってきたアランに連れられて別荘まで帰った。
「そんなことがあったのね。うらやまし……じゃなくて不思議だわ、十年前はそんな噂は全く聞かなかったのに」
メアリがアリスならば何か知っているかもしれないと今日おきたことを報告すると、アリスはそう悔しさを滲ませて言った。アリスの傍にいたスコットも何も知らないようだ。
アリスはスケート初日にはしゃぎすぎて体調を崩し、今日は別荘で休み中であった。「もう年ね」とからから笑う母にメアリは苦笑を隠せない。
アリスの言葉に、メアリとルナはアリスが言うならそうなのだろうとさらに首を捻る。
アリスが知っていれば一日中湖で張り込みするくらいならばしそうである。そんなアリスが知らないのならば、10年前には無かったものなのだろう。或いはジェフィードが妻の暴走を止めるために隠していたのかもしれない。
そのまま何も進展のないまま終わるかに思えたが、新たな情報がその日の夕食で地元住民に話を聞いてきた自警団のメンバー達からの報告としてスコット経由でもたらされた。
「あの氷像群ですが、地元の人間は『氷精霊の悪戯』と呼んでいて、見ると幸運が訪れる、とされているそうです。
ただ不可解なのは、どうやら『氷精霊の悪戯』が初めて確認されたのは2.3年前なのだそうですが、いつの間にか『氷精霊の悪戯』の呼称が定着していて、あたかも遥か昔からそこにあったかのように語られていたことでしょうか。いくら調べてもこの湖に精霊関連の話などは残っておらず、何故氷精霊などと呼ばれるようになったかも不明です」
「あら、見た人には幸運が訪れるですって、良かったわねメアリ」
「奥様、問題はそこではありません」
「そう言えばお嬢様、逃げる時には全くこけずに滑っていらっしゃいましたよね、早速御利益があったようで」
「ルナも悪乗りするんじゃない」
アリスとメアリに紅茶をいれていたルナもアリスに乗っかるので、突っ込み役のスコットは大変である。スコットの注意にアリスは肩を竦めて小さく笑い、むすっとしたメアリも真面目な顔に戻る。
「やはり気になるのは氷精霊云々の呼称と『あたかも昔からあるように語られている』というところでしょうか、お母様」
「そうね、名前なんてそこらの詩人が勝手に付けただけなのかもしれないけれど、何者かがここの伝承を作ろうとしているのかも……?」
この世界に魔力はあるが妖精の存在は確認されていない。メアリとアリスは好奇心を隠しきれていない様子で話を続ける。
二人とも気分は完全に推理を進める探偵のそれだろう。やっぱり親子なんだなーと無言で主達の会話を見守っていた従者二人の心の呟きが一致した。
「しかし、どうしてそんな面倒臭いことをするのでしょうか。村興しというわけでもないでしょうに」
魔術というものをよく知らないメアリは氷の芸術を何者かの魔術の結果だと単純に思っているようだった。見る人が見ればあまりの規模と精密性に眩暈すら起こしかねない代物であったのだが。事実、規格外には慣れているほうだと自覚しているルナも暫く思考停止していた。
しかし、無知ということは先入観がないということでもある。普通の魔術師ならばありえないと一笑に伏したであろう魔術という可能性を真剣に検討できたのは紛れもなくメアリのお手柄だった。
「まあ、ここで考えても答えは出ませんし、おいおい考えていけばいいのではないのでしょうか。そのうちわかるでしょう」
堂々巡りになりそうな雰囲気を察したスコットの諌めに、母娘二人は渋々ながら頷いた。