その8
そのときだった。
“ギーッ”
という獣の咆哮が、頭上で響いた。
とっさに伏せたエリオの頭上を、掠めるようにして何かが飛び去っていった。
「カラス?」
黒い鳥の影は、一度、木立の葉叢の向こうへ消えていったかと思うと、再び、背後から羽音激しく飛び掛ってきた。
「クッ!」
身をかわしざま、右手のナイフを振り上げると、たしかにその黒鳥に刃先が切り込んだ手ごたえがあった。
“ギーッ、ギーッ”
正体不明の黒鳥が、再び頭上でけたたましく鳴いて飛び去った。
どうやら、たいしてダメージを与えられなかったようだ。
エリオは、身を低く伏せながら頭上を注視した。
しかし、頭上の襲撃者は、実はただの哨兵でしかなかった。
次の瞬間、警戒するエリオの耳に入ってきたのは、押し殺すような唸り声を低く響かせて近づいてくる、重々しい足音だった。
森はその本当の姿を表そうとしている。
「誰だ!」
黄褐色の毛を一面に逆立てながら、ゆっくりと目の前に姿をあらわしたのは、前肢が地面についたままでも、大の大人を頭からひと呑みできそうなほどの大きさをした
──強いて言えば、狼だった。
不気味に光る紅玉のような目の下に、人の腕ほどの牙が大きく裂けた口から突き出ている。
研ぎ澄まされた鎌かと見まがうような鉤爪を生やした前肢は、それ一本だけでひとの胴ほど太さだ。
エリオの手にあるナイフごときでは、とうてい敵う相手ではない。
が、逃げようにもその異形のケモノの前で足はすくんでしまって動けない。
ここでこいつに食われるのか、と思ったとき、
“ピシッ”
と、生木が裂けるような鋭い音がしたと思うと、目の前のケモノがその音に怯えたように、あとずさった。
「乱暴なマネしないで」
どこからかやって来たその声の主が、ケモノの前に立ちはだかった。
それは、見たところエリオと大して年端の変わらないような少女だった。