45:佐奈トロジー(4)
一段落。
西に沈み始めた太陽が秋の空を黄昏色に変えていく。自然に囲まれた校舎は夜虫の鳴き声に包まれていて、校庭で部活動に精を出すサッカー部の掛け声とボールが弾ける音がリズミカルに響いていた。
「郁次郎」
呼び掛けられて振り向いた。
三階と四階の狭間にテラスのような場所がある。素行不良の生徒が隠れて喫煙するためだけにあるような空間だ。用もなきゃ足を踏み入れるわけのない。その場所に先輩にメールで呼び出された。
「朝はすごかったですね」
夜に近づくにつれ屋外は酷く冷える。
この時間から季節は冬に変わり始めるのだ。
「すごくなんかないよ」
先輩は真っ直ぐ歩みを進ませた。
「他人を拒絶するのは簡単だもの」
「いや、それでもかっこよかったですよ。すっきりしました」
「これで誰も話しかけてこないようになればいいんだけど……」
「なにその悲しい発言」
「人付き合いはめんどくさいから」
先輩は無表情のままフェンスにうなだれた。
「ここから飛び降りたら楽に死ねるかな……」
投げ出した腕をプラプラさせ、ため息混じりに呟く。
「これくらいの高さだと痛いだけだと思いますよ」
「それはやだね」
先輩はまた一つ息をはいた。
「……この学校だけでも生徒は八百人以上いるの。数に個性が埋もれてるんだよ。集団生活に個性が奪われていくんだ」
先輩の瞳はどこか遠くの空を見つめるように儚げで、夕焼けと街頭の灯りを反射していて美しかった。
「……まさか死にたいんですか?」
「見たいアニメがあるし、来季は期待のラインナップだから、そんなもったいないことはしないけどさ」
聞いた俺がアホだった。
「それに、生きてる理由はないけど、死ぬのは怖いから」
「奇遇ですね。俺もです」
返事を受けて先輩はスカートを翻して俺の方を向いた。
「郁次郎のさ、初恋の話……」
「え?」
「二週間前くらいにさ、郁次郎の初恋の人が佐奈だったって」
言われて思い出した。トランプの罰ゲームで初恋の思い出を語らされたのだ。その時にした話にたまたま佐奈先輩がでてきたというだけのこと。
「いや、あれはあくまでも……その」
しどろもどろになる。
「佐奈はアレ、嬉しかったんだ」
「え?」
「誰かに好かれるなんてことなかったから」
「そんな……」
ん、ちょっとまてよ。
「御茶ノ水会長は先輩のこと愛してるっていってましたよ」
「アレはノーカン」
ですよねー。
「でも先輩は自分が思ってる以上に他の人から好かれてますよ」
「そんなことないよ。みんなたぶん佐奈のことはつまらない人間だって思ってる。だから他人とかかわり合いになるのを止めたんだ。みんな嫌い」
「娯楽ら部も、ですか?」
俺はこの質問をするのが怖かった。馴染むとか慣れるとかじゃなくて、そういうの意識しないで楽しんでもらえたらいいな、と思っていたのだ。
先輩は今までみたことがないくらいの朗らかな笑顔を浮かべた。薄暗くなり始めた辺りが一気に華やぐ。
「愛流は佐奈の貸したゲームを楽しそうにやってくれるし、瑠花は佐奈と趣味があうし、琴音は佐奈と一緒にはっちゃけてくれる。みんな大好き」
密かに安堵していた。
先輩を安寧とした生活から引きずり下ろしたのは、娯楽ら部、……おれだ。
「でもね」
先輩は一歩俺に近づいた。一陣の風が舞い起こる。
「……が佐奈の孤独を癒してくれたんだよ」
「え?」
風音でよく聞こえなかった。
先輩はさらに一歩近づいてくる、ゆっくりとまた一歩、二歩。
「世界から逃げて行き場の無い佐奈を許してくれたんだ」
三歩、四歩。
「砂を噛むような味気ない生活から救いだしてくれたんだ」
五歩、六歩。
「虚無的な日常に色を落としてくれたんだ」
七歩。
先輩は俺の目の前にいた。
「郁次郎が」
空にはチカチカと星が浮かんでいた。雲一つ無い。月が夜空にぽっかり穴を開けている。
「佐奈、郁次郎が好き、みたい」
そろそろとともりだした町明かりが気色を夜景に変えていく。
「あの、おれは」
覚悟はしてたし、予感もあった。だけど、戸惑いは隠せない。
手を伸ばせば届く距離。
短くなった彼女の髪が風に揺らされて俺の鼻にシャンプーの香りを届けてくれた。
諌山佐奈。年上の女性が弱々しく立っている。
「ごめん」
「え」
「ごめんね、郁次郎」
謝られた。ん?
なして?
「全部、嘘だから……」
「え? は?」
「いまはやりの、ば、罰ゲームで、こ、告白ってやつだから……うっ、うそぴょーん」
「……」
だとしたら男女の壁なく容赦なしに殴りかかるところだが、俺の右拳が振りかざされることはない。
先輩が、泣いていたからだ。
「だから、忘れて」
泣き笑い。
落ちる滴に急かされるように慌てて言葉を紡いだ。
「わ、忘れられるわけないです!」
「忘れてよ。恥をさらして生きるより忘れられる方がいい」
「恥なんかじゃないです! 俺は先輩からそう言われてすごく嬉しいですし、それに……」
それに、……なんだろう。
俺はいまなんて言おうとしたんだろう。思い出せない。数秒前のことなのに。
「それに、それになんで俺がなにか言う前に勝手に話を進めるんですか!?」
「だって、わかるから」
「え……」
「表情を、……みればわかるよ」
先輩はそのまま崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「佐奈ばかじゃないもん……人間観察が趣味だから」
先輩は膝を抱えて、小さくうずくまった。
不毛の趣味と突っ込む気も起きなかった。
「慰みも要らないし、哀れみも要らない、暫くしたら行くから……先に部室いってて」
上擦った先輩の声は、それでもしっかりとしたものだった。
そのまま先輩の頭頂部を見ていても仕方なく、手持ちぶさたの俺はすることもないので部室にいくことにした。照明を落ちているので、暗い廊下を微量の恐怖心と戦いながら歩く。
賑やかな声が漏れる部室のドアを開けた。光が両目をいぬく。
「ひもじい、ひもじいよぉ!」
「もっと、もっとよ! 飢えなきゃ勝てない! 気高く飢えなければ!」
「う、おおおお!」
谷崎と愛流が叫びながらピョンピョンと跳び跳ねていた。
「……」
なにこのカオスな光景。
そんな二人の真ん中で瑠花が、「もっと高く! 高く! 空高くスカイハイ!!」とわけのわかんないことを叫んでいた。ついにとっち狂ったか。
あぁ、予感はあった。前兆現象も。
小さな歪みがやがて致命的な欠陥に繋がるように、三人の女の子たちは集団妄想と狂乱に取り込まれて知ったのだ。
今年の夏は暑かったからなぁ。
「あ、郁次郎、遅かったですね」
拳を高く掲げていた瑠花が入り口で呆然とする俺に気づいて声をかけてくれた。
「先輩とぶらぶらしててさ。それでお前らなにしてんの?」
「今度の体育祭の練習ですよ。女子はパン食い競争なんです」
「……なるほどね」
それを聞いてようやくこの混沌とした光景に合点がいった。
あの口をぽかんと開けているのは、間抜け面を披露してるわけじゃなくて、紐でぶら下げられたパンをとる訓練をしていたのか。
「お前らものすごいバカ面してるぞ」
せせら笑いを浮かべながら、定位置となっている椅子に腰かける。
男子からのせめてもの忠告だ。
「うるさいなぁー」
谷崎が眉ねを寄せて唇を尖らせた。
「本番でバカ面するよりましじゃないの」
「お、言われてみりゃその通りだな。納得納得。それにしても運動嫌いのお前が体育祭でやる気出すなんて珍しいじゃんか」
「だって今度の羽路高校体育祭はなんと50周年なんだよ。50周年なんて50回に1回しかこないんだから、この流れに乗るしかないじゃない」
いやまてどれほど年月が経とうが50周年はその一回キリだからな。
「まあ頑張れよ」
「なにその他人事ー、男子は100メートル走じゃないの。一位とれるの?」
「ぬかりねぇ。授業の時はわざとタラタラ走ったからな。体育祭では遅い方のグループになってるから、本番本気だして走れば一位は余裕だぜ」
「ひ、卑怯!?」
「狡猾といってくれ」
椅子の位置を微調整し、足が伸ばす。
そうか、体育祭までもう一週間もないのか。
すごくどうでもいいけどー!
「そういえば……。体育祭で女子は創作ダンスを踊るらしいな。おまえらはなに踊んの?」
「それを聞くか……」
「セクハラです」
「最低」
世間話のはずが女子三人からさげずみの視線を送られた。
「え、なにその反応」
「変なコスプレをしてアイドルグループのダンスを可愛らしく踊るんだ」
「え、いいじゃん、それ」
適当な反応をしたら、火に油を注いでしまったらしい。
「なにがいいんだい!? 恥さらしじゃないか。たぶん当日僕は風邪を引くぞ!」
「ずるいですよ、愛流! 死ねばもろともです! みんなで頑張りましょうよ!」
「私はたぶん当日親戚に不幸が起こるっぽい……」
「琴音まで!」
一年女子のダンスは合同らしいので、目の前にいる三人は同じダンスを可愛らしく踊らなければならないらしい。
愛流は酷く不機嫌そうに続けた。
「最悪だよ。僕は本気で学校やめることを考えたぞ」
「ダンスくらいいいじゃん。頑張れよ」
「チャラチャラした女子のリーダーとバカな教師達が独断専行で勝手に決めたんだ。ほんとふざけんなって感じだよ。あー、ソーラン節踊りたかったー」
「はは、女子は大変だなぁ、そんなコミュニティあって」
その点男子って楽だよな。最期までアホばっかりだもん。
「二年生はチア合戦って噂を聞きましたけど」
「チアって……佐奈ちゃん大丈夫なのかな……」
先輩はそういう派手なのの苦手そうだもんな。
「そういえば佐奈ちゃん遅いですね」
瑠花が呟くと同時だった。
バタン、と扉が開けられる音が響いた。
全員の視線が入り口に集まる。
「やってやる」
「先輩!?」
廊下の暗闇をバックに佐奈先輩が扉にかっこよくもたれ掛かって立っていた。
威風堂々と手を組み力強い眼差しで一同を見渡す。
「佐奈は休まないよ。体育祭」
「え?」
「精一杯踊ってやる」
まじで?
「チアですか?」
「クイーンになってやる」
とてつもない決意に溢れた発言だったが、単純にこれ以上休めないだけだった。休めばもう一年、二年生だもんな。
俺と先輩が普通に会話しているのをぽかんと見ている三人に気がついた。
「おまえら、どうした?」
「ど、どーしたじゃないよ!」
愛流が言葉をつまらせながら、続けた。
「ショートかっこいい!」
「え?」
「女の子は黒髪ロングが一番だと思ってたけど、先輩みてたらショートもありだなって思ったよ!」
そうか、こいつら先輩が髪切ったこと知らなかったんだな。
目を丸くしていた三人だったが先輩が照れ笑いを浮かべて後頭部を掻く頃にはいつもの調子に戻っていた。
「佐奈ちゃん新しい髪型似合ってるね」
「ありがとう、琴音!」
先輩は世界を明るくするような笑顔を浮かべて、いつもの光景に溶け込むのだった。
なんだかんだで、この生産性のない集まりが好きになってきている。先輩も同じ気持ちだろうか。だったらいいな、と静かに思った。