37:甘夏をかいだ卒業式
センチメンタルな気分になることがたまにあります。
九月に入っても日差しが和らぐことはなく、セミの声が封鎖された窓の向こうで響いていた。
天気予報ではもうすぐ日本列島に台風が直撃するらしい。きっとこの大嵐で夏はひっそりと死んでしまうだろう。
「ろくな思い出のない佐奈の人生のなかで一つだけ輝かしい思い出があった」
窓の向こうの抜けるような青空を見ながら、先輩がボソリと呟いた。
「ふーん、どんなですか」
「中学の卒業式」
それは愉快だ。
「あー、たしかに卒業式は泣けますねぇ」
部室の掃除をしながら瑠花が先輩に応えた。
「うん。やっと支配から卒業できるかと思うと嬉しくて」
「なんですか、それ」
「こう、解放されたぁ、って感じ」
先輩の発言に瑠花は自在ホウキの柄に顎をのせ顔をしかめた。彼女の足元にはたくさんの綿ボコリがまとめられている。
「別れとか旅立ちが切なくて涙がでたとか?」
「むしろ笑みしか浮かばなかった」
「そ、そうですか」
先輩にはお友達が少なかったんだよ、悲しいね!
ちなみに愛流は塾で谷崎は歯医者である。
先輩というボケを助長するやつらがいないのは大変喜ばしいことだが、俺と瑠花だけではこのアホを抑えきれないかもしれない。
「もう一度あの感覚を味わいたい」
グッと握りこぶしを固める先輩。それってつまりさっさと卒業したいってこと?
「まあ、来年になれば先輩は卒業式を迎えるわけですし、焦らなくても」
瑠花は小さく苦笑いを浮かべてホウキから塵取りに切り替えた。しゃがみこんでゴミを片付けている。
わが部室の清潔はこうして保たれているのである。ありがとう瑠花。吸引力のかわらないただひとつの自動掃除機。
「佐奈がこのまま無事に卒業できると思ってるの?」
「だ、 大丈夫ですって。一学期の欠席率はまだ挽回できますって」
ゴミ箱にゴミを捨てながら笑顔を浮かべる瑠花に先輩は唇をつきだしてブゥたれた。
「気休めはいらないので、練習をしよう」
ん?
前後の文章の繋がりがおかしいよ。
「練習、ってなんのですか?」
「卒業式の」
季節は晩夏。汗と埃にまみれた卒業証書なんて受けとりたくない。
「あ、あの、佐奈ちゃんが卒業を迎えるまであと一年。私たちが卒業するまでだと二年以上ありますよ。いま練習したって無駄じゃないですか」
ロッカーに掃除用具を片付け終わった瑠花は椅子に腰かけた。それを横目に先輩は腕を大きく振り上げる。
「青春なんてあっという間。今のうちにやりたいことをやっておかないと」
同意だとしても、先輩に言われる筋合いはない。加えていうなら我々は数ヵ月前に中学校を卒業したばかりだ。
「と、いうわけで台本を作ってきた 」
先輩はそう言って三枚綴りのプリントを俺と瑠花に手渡した。すごい目がキラキラしている。
「情報の授業中に作成した力作。心を込めて読んでほしい。愛流と琴音のぶんも刷ったのに無駄になってしまった」
おかわいそうに情報の先生。
「んー」
べらりぺらりとそれをめくりながら喉をならす瑠花。きちんとチェックを加えて偉いな。
この話題に飽きた俺は携帯でテトリスに勤しむことにした。
「このままでもいいんですけど、こうしたらどうでしょう」
「おぉー」
二人で何やらこそこそとプリントをこねくり回している。カラーペンを取り出した瑠花がプリントになにやら書き加えていた。
どうでもいいけど女子って異常にカラーペン持ってるよね、そんなに使わないだろってレベルでもってるよね。あんなにどこで仕入れてくるんだろ。
って、くそ、バーがこねぇ!バーが来ねぇと消せねぇんだよ!
とんでもない速度で落ちてくるアヒル型に悪戦苦闘すること五分程度、
「さぁはじめよう」
佐奈先輩の一言に気をとられ、ゲームオーバーを迎えてしまった。
虚脱感がはんぱない。
もうなんでもいい、つきあってやるか、とため息をついてから立ち上がる。
先輩に促されるままホワイトボートの前に立つ。
「桃の花もほんのりと膨らみ始めた今日の良き日にー」
渡されたプリントを読むように言われたので大口開けてぶっきらぼうにいってやった。
「ぼくたちぃ」俺一人だ。
「わたしたちぃ」瑠花一人だ。
「佐奈先輩はぁ」先輩の発言で間違いありません。
「今日この学校をぉー」瑠花。
「「卒業ーします」」みんなで。
なにしてんだろ、俺ら。まじでいみわからん。不毛にもほどがある。
「着なれない制服で緊張しながら臨んだ入学式ー」
「途中で寝ちゃったので記憶にありませんー」
「名作映画を全校生徒で観た芸術観賞会ー」
「途中で寝ちゃったので記憶にありません」
「たくさん練習した合唱コンクールー」
「口パクで乗りきれて良かったです」
もうなんだこれ。わけわかんねぇや。
「楽しかったぁ、修学旅行ぅ」
「那須塩原では、硫黄の臭いで気分が悪くなったー」
瑠花、佐奈先輩の順番で謎の台本読みが始まったので、横でボゥと突っ立っとくことにしよう。
「みんなで行ったぁ、修学旅行」
「雲仙では硫黄臭くて気分が悪くなった」
「三年最後のぉ修学旅行」
「草津温泉の硫黄の臭いが忘れられません」
硫黄から離れろよ。もっとなんかほかにあるだろ!
「紅白に別れて勝敗を競った体育祭」
「勝っても負けても意味はなく、争いはなにも生まないと学ぶことが出来ましたぁ」
「みんなで作り上げたぁー、文化祭ー」
「資本主義と値下げ合戦によるデフレスパイラルを目の当たりにし日本経済の縮図を感じることが出来ました」
「人の体液とぉ塩素が混じったぁプールの授業」
「そんな汚水で泳げと命じた先生たちのこと一生許しません」
こわいよ!
「そんなたのしい思い出ともぉ」
「今日でお別れです」
「いままで育ててくださったおとうさん」
「おかあさん」
「おじいちゃん」
「おばあちゃん」
「おにぃちゃん」
「おねぇちゃん」
「おとなりさん」
「いとこ」
「はとこ」
「またいとこ」
「よいとこ」
「……」
「「ありがとうございました」」
感謝を伝えるのは大切だけど俺の親戚はそんなにいないし、どんだけ複雑な家庭なんだよ。
「ぼくたちぃ」
俺一人。
「わたしたち」
瑠花。
「佐奈先輩はぁ」
佐奈先輩。
「今日、そつぎょぉーします」
みんなで。
「なかなかいい感じ」
佐奈先輩は満足そうに頷いた。
「そうですか? 」
眉ねを寄せて首を捻る瑠花。
何をもってよかったと評するのか、佐奈先輩の脳はすこしばかり普通のそれと違うらしい。
「あとは卒業式のアナウンスで『皆勤賞授与、代表、海野郁次郎! ……本日、欠席です』をやってほしい」
「そんなネタフリのために三年間無遅刻無欠席で頑張ろうは思わない!」
「皆勤賞はもう私では叶えられない夢となってしまった。頼む、郁次郎この通り」
一切頭を下げることなく偉そうに佐奈先輩は俺を見つめた。
「いやです」
「じゃあ、帽子を空に投げて」
「うちに学帽なんてない」
「じゃあ答辞で泣いて周りからガンバレーって応援されて」
「まず代表に選ばれない」
「じゃあなにするの?」
「なんもしねぇよ! そもそも卒業式なんざまだまだ先だろうが!」
窓のむこうでは、澄みわたった青空が最後の夏を歌ってる。
「……佐奈が郁次郎たちど同級生なら一緒に卒業できるのにな」
先輩は寂しそうに呟いた。留年してるくせによく言う。
「できることならみんなと同じ学年で一緒に青春したかった」
「別に年齢なんて関係ないじゃないですか。それに青春ってなにすればいいのか」
「みんなで、町に蔓延る44の不思議な噂を犬の散歩ついでに検証したりしたかった」
「……一人でやれば?」
「これがゆとり教育の弊害か……。競争社会から逸脱し子供たちは人を思いやる心を忘れてしまったのかもしれない」
あんたも俺らと同年代だろうが。
「それに先輩はちゃんといまの学年の人たちと卒業するんでしょ?」
念のため訊いておいた。
元・引きこもり生徒である諌山佐奈先輩がこのままキチンと学業復帰してくれないと娯楽ら部の存在意義がなくなってしまうのだ。
「もう二度と校長面談したくないし、出来れば留年したくない」
「面談なんてあるんだ」
「めんどくさかったからサボったけど」
「うわぁ……」
「二回目はちゃんと出た」
「なんの自慢にもなりませんからね」
瑠花がコーヒーを煎れてくれたので、湯飲みに口をつける。うまい。
瑠花のお茶汲みスキルはドンドン上達している。よくわからんが豆にこだわっているらしい。あいつはどこにいきたいんだ?
「だから佐奈は郁次郎たちの卒業式に電報うってあげる」
「意味わからん」
「それで卒業生を「誰?」って混乱の渦に叩き込むんだ」
「ねぇそれ楽しいの? やる意味あるの? ないよ、たぶん」
「じゃあ夜の校舎で窓ガラス叩いて回る?」
「回りません」
先輩はにっこりと微笑んで俺を正面から見つめた。
ふだん笑顔を浮かべることのない佐奈先輩の笑い顔はどこのだれより輝いて見えた。
「楽しいときはとくと過ぎ行くものだから、今のうちに思い出を脳に刻み付けておくんだ」
「はぁ」
俺が曖昧な返事でお茶を濁した時だ。
真向かいのテーブルでA4のルーズリーフにひたすらペンを滑らせていた瑠花が「できた!」と大きな声をあげて嬉しそうな声を上げた。
「さすがに真夏に卒業式の練習なんて気分が乗りませんから、きちんと私たちに合った台本を作ってみました!」
俺が疑問を口に出すより先に瑠花は先程まで書いていた紙を俺に渡した。そこには彼女の流麗な筆致とともに、
「卒業式 娯楽ら部ver?」
と綴られていた。
「はい。つまり先程の台本に足りなかったリアリティを追求した台本を作ってみました。今度はこれで練習してみましょう!」
「了解」
隣に座っていた佐奈先輩が顔を寄せてルーズリーフに目を通している。顔が近い。
しばらく経った。またさっきと同じようにホワイトボードの前で立って卒業式の練習を開始する。
「ぼくたちぃ」俺一人だ。
「私たちぃ」瑠花一人だ。
「佐奈先輩はぁ今日この学校をぉ」佐奈先輩は一人だ。
「卒業しまぁす」みんなで。
「いろんなことがあった部活動ー」
瑠花から渡された紙には「アドリブ(各様がクラブの思い出を語る)」と記載されている。
「みんなで旅行に行ってはしゃいだぁ」
あー、ついこないだのあれね。何だかんだで楽しかったなぁ。
「放課後居残ってトランプで遊んだぁ」
さすが佐奈先輩だなぁ。よくわかんないけどあの人トランプめっちゃ強いんだよ。
「あ…えーと…うーん……あれ?」
あれ?なんもないぞ?うん?浮かばないぞ?
「……」
「そ、そんな部活とも、今日でお別れです」
瑠花が打ち切って話を無理矢理前に進めてくれた。
「ばくたちぃ」
「私たちぃ」
「佐奈先輩はぁ」
「今日で娯楽ら部をぉ」
「「卒業しますー」」
三人で声を揃えて言ったときだった。
ガラリと部室のドアを開けて青い顔の谷崎が現れた。
わなわなと口を震わせている。
「あれ谷崎、お前今日で歯医者じゃないのか?」
「え、えと検査だけで虫歯ゼロだったから思った異常にはやく終わったの。それで、友達に貸してたCDを忘れてたの思い出して、んで、学校戻るついでに娯楽ら部を覗いて……」
幽鬼のようにふらふらと部室の中心まで歩いてきた。
「え、みんな、やめるの? 娯楽ら部……」
涙目の彼女に訳を説明するのは骨が折れそうだった。