19:サナと水平線上の悪魔(下)
(眠)
二年三組の教室前についた。始業ベルギリギリだからか、かなりの生徒が登校を終えている。隣の先輩をみると信じられないくらいに震えていて、白い肌には脂汗さえ浮かんでいた。季節は夏で、耳を澄ませば蝉の鳴き声さえ聞こえてきそうなのに。
「先輩?」
焦点の定まらない視線で教室のドアを見ながら、彼女は弱々しい声で、
「あいきゃんどぅいっと」
と呟き、敷居を跨いで、朝の喧騒に支配された教室に足を踏み入れた。
「あー!」
先輩が三組の教室に入った瞬間、さながらサプライズパーティのような声が至るところからあがった。
「諌山さーん!」
窓辺や黒板、テレビの下や教卓、固まって散らばるおしゃべりの輪一つ一つから、黄色い声が上がり、輪唱のようにこだまする。カオス。
早々に自分の教室に行けばよかったのだけど、彼女の青い顔が気になって、廊下から様子を眺めてみることにした。
「佐奈ちゃーん! 今日も美人だよぉー」
野太い声が先輩を揶揄する。クスクスという嘲笑の中、自分の席に行こうとしていたのだろう、窓際に向けられた足はビクリと震え、その場に立ち竦んでしまった。
「諌山さん」
茶髪の女生徒が一人、張り付いた仮面のような笑顔を携え、先輩の前に立った。そのあとに続くように何人かの生徒が先輩を取り囲む。カツアゲ風景のようで、なんだか爽やか三組じゃない。
「あ」
「久しぶり、元気してた?」
「う、うん」
砂漠を何時間も歩いたみたいに渇いた声で先輩は頷く。
俺は一目でその茶髪の女生徒がこのクラスの女子のリーダーだということに、気がついた。
「みんな心配してたんだよぉ。諌山さん、どうしてガッコ来てくれないの?」
茶髪が声をあげると、近くの長髪も、
「そうだよ。メールしても返してくれないじゃない」
と声をあげ、その隣の一つ結いが、
「今度お見舞いに行こうって計画してたんだよ」
と、女子特有の演技口調で続けた。
茶髪は小さく鼻で笑い、
「ね。みんな心配してたでしょ?」
「……」
といって半笑いの冷たい瞳で先輩を睨み付ける。
もしかしたら、それらは本当に労いの言葉なのかもしれないが、端から見てるだけでは嫌味にしか聞こえなかった。あの間延びするしゃべり方、腹立つわ。
佐奈先輩は返事することなく俯いている。
「でも、今日から来れるんでしょ? また遊ぼうよ」
「う、うん」
「良かったぁ。これでクラス全員揃ったね。今日からまたよろしく、せーんぱい」
あの目は純粋なのだろうか。薄い人間関係しか築いたことのない俺には、茶髪の女生徒の言葉がプレッシャーをかけるために放たれたものにしか感じられない。
でもま、他の、ましてや年上のクラスの事情なんて一年坊主が知るよしもない。俺は肩にかけた鞄の紐を直し、自分のクラスに行くことにした。永松先生とともに仮想事故現場に向かった龍生の詳細が気になるからだ。
俺は届かないだろうけど、俯いたまま、震える先輩に心の中で小さく手をふる。
「うっ」
踵をかえそうと、後ろを向いたとき、苦しそうに喉を鳴らす音が聞こえた。振り返り、二年三組を覗いてみると、佐奈先輩は口を片手でおさえ、今にも戻しそうな勢いだった。
「きゃあ」
佐奈先輩を取り巻いていた人たちは潮が引くように一気にいなくなった。
「んっ」
誰も彼女に近づかない。ある意味異常だった。
クラスメートの一人が苦しそうに口元押さえているのに、誰一人として駆けつけないなんて。
先輩は涙目だ。
空気が凍りつき、先輩が喘ぐ度に小さな悲鳴が上がる。
「佐奈先輩!」
気がつくと俺は二年生のクラスに足を踏み入れ、腰を曲げる先輩に駆け寄っていた。
「誰あれ」「一年?」「急になんだよ」
ざわざわとした声をピックアップしてみると「演技だろ」とか「また媚びてる」とか気持ちの悪い発言に溢れていることに気がついた。
好奇の視線を浴び、先輩の気持ちを理解しながら、鞄から今朝買ったパンについてきたコンビニ袋を広げる。
「誰?」「カレシ?」「まじで。ちょっとショックかも」
先輩の小さな背中をそっとなでると、安心したかのように、ピタリと震えが収まった。
「先輩」
「……」
「大丈夫ですか?」
無言で首を横に振る。
そのまま力なくしゃがみこんだ。
「と、とりあえず、保健室…」
このクラス保険委員は誰だろう、と役割分担表を探すため、目線を上にあげた時だった。
「おぇぇぇえ」
凡そ小さな彼女からは想像つかない勢いで、袋に向かって吐瀉した。平たくいってしまえば、教室でゲロりやがった。
「うわぁ」「マジかよ」「ちょっ、おい、漏らすなよ」「くせぇ、窓開けろ!」「で、あいつ誰?」
先輩大きく目を見開いて、涙をボロボロこぼしている。
「最悪」
さっきの茶髪が震える声でそう呟いたのが、小さく鼓膜を揺らした。
結局どこの誰とも知れない保険委員より郁次郎がいい、と先輩に頼られたので、肩を貸しながら保健室にやって来た。
なんだか無償に腹がたったので、終始「誰」と呟いてた男子生徒に「これお願いします」とゲロ袋の処理を任せた。ざまぁみろ。
流しで口をすすいで、ウェットティッシュで顔を拭いた先輩はいまは穏やかな顔で、保健室のベッドで寝ている。一段落ついたと判断した養護教諭は職員室に日誌を取りに行った。戻ってくるまで、様子見を頼まれていたのだけど、この分なら大丈夫そうだ。
今度こそ一限目の数学に途中参加しようと、見舞い用のパイプ椅子から腰を浮かす。
「郁次郎」
寝ていなかったらしい。か細い声で名前を呼ばれた。ベッドをみると、うろんな瞳の佐奈先輩と目があった。
「ありがと」
「いや、いいっすよ。一限目嫌いな数学なんで」
「でもテスト前だし……」
「優秀な友達に教えてもらいます。龍生はまじで頭いいから」
国語は苦手だけどね。
佐奈先輩はクスリと笑ってから、クーラーを回すため閉められた窓の向こうの青い空に視線をやった。
「郁次郎はいいね、友達いっぱいいて」
「……」
え、
「私は、一人も友達いない。独りぼっち」
ちょっ、まって、なにこのシリアスな空気。聞いてないし、や、やめてよ佐奈先輩、俺そういうの苦手なんだよ!
「一年前ね。クラスで色々あって、やってけないな、って思って、留年したの」
「……」
こんなところで先輩の留年の秘密とか解き明かさなくていいよ!
もうちょっと娯楽ら部中の和やかな雰囲気のときに、アホみたいな連中のまえで、ギャグにしか捉えられない理由を明らかにしてよ!
「そんで、今のクラスに割り振られて、だけど、もう一年でクラスの基本構造は出来上がってて、後から来た佐奈は異質物みたいな感じだったの」
ちなみに羽路高校は理系文系の教室移動以外でクラス替えを行うことはなく、一年時のクラスのまま卒業を迎えることになる。って、こんな説明させないで、先輩!
「それでもなんとか溶け込めたんだけど、なんでだろ、女子からはスゴい嫌われてて」
単純に嫉妬からだろう。これだけの上玉、男子には花だけど女子には疎ましい嫉妬の対象にしかなり得ない。それにしても先輩は睫毛が長い。
「そんなとき、クラスのあの、リーダー各の女子のカレシから、こ、告白されて、断ったんだけど、そこから執拗に女子から絡まれるようになって、佐奈は」
「先輩」
俺は思わず、声をかけた。涙目で掠れた声の彼女に耐えられなかったからだ。
「そんなことより今日クラブでます?」
ぶっ、と先輩は吹き出した。
「ひ、酷いよ郁次郎、空気読んでよ」
あんたにだけは言われたくないよ。
「いやぁ別にいいじゃないっすか。人生それぞれ人それぞれ、先輩はそういうのがあって今の先輩になったんですから他人なんて関係ありませんよ。言いたいやつには言わせておけばいいんです。実害が出たら、俺とか谷崎に相談してくださいよ。まぁ、できる範囲で頑張るから」
「うわ、てきとう」
よく言われる。
「世界中で自分が一人きりだとか、そーゆーのはどんだけゲーム脳なんだって話ですよ。一人なわけないじゃないっすか。生きてる限り」
「う、うーん。そうだね」
「んで、今日クラブ出るんすか? 色々と面白いやつがいるんですよ。谷崎はともかく、前にも話したと思うんですけど、双子の妹で、宇宙人と交信したがるロリ巨乳で金持ちのボクっ娘とか」
「え、どんだけ、一人でキャラつくってんの?」
「オタク肌の眼鏡女子とか」
「と、突然シンプルだね」
「でも、どちらかと後者の方がキャラ濃いかな」
「うそ!?」
「まじで」
一応秘密にするように頼まれてるから言わなかったけど、瑠花はBL好きで人に押し付けてくるからね。
「うん、でも楽しそう。出てみる」
佐奈先輩は決意に満ちた瞳で保健室の天井を見上げた。
「佐奈、頑張る」
「あ、今日部活ないんだった」
「……ぶつよ」
「だってテスト一週間前だし」
鼻腔をくすぐる消毒液の匂いにおさらばしようと、今度こそ腰を浮かせてパイプ椅子を畳む。
「まぁ、でも帰り道のファミレスとかで集まりましょうよ」
「さ、賛成」
「んじゃまた」
このあと先輩はあのクラスに戻るのかなぁ、と考えながら歩き出そうとしたとき、またしても裾を掴まれた。
「なんすか」
「ま、待って郁次郎。勇気をちょうだい」
「はぁ?」
なんだ、この人。ずいぶんファンタジーなこと言い始めたな。岩に刺さった剣を抜いて、険しい岩山のドラゴンでも狩りにいこうかという雰囲気だ。そんなアールピージーあるか知らないけど。
「か、屈んで」
「?」
言われた通りに床に立て膝になる。ベッドサイドにいそいそと寄った先輩は、俺の肩にポンと手をおき、それから一切の躊躇いをみせず、ギュッと俺を胸に押しつけた。
顔面が双子山に挟まれる。
「!?!?」
素晴らしい感触だった。
それはまるで燦々と降り注ぐ太陽の日差しのように優しく俺を包み込み、草原を吹き抜ける春風に似た匂いを伴って、長閑な高原で深呼吸をしたかのように、静謐で荘厳な神秘さを孕んでいた。おっぱい。成熟した果物に頬を擦り寄せたかのように芳醇な香りと清らかな感触。慈愛に満ちた母の胸に抱かれているかのような心地よさ。それらすべてが虹色の光を放ち俺の脳内を駆け巡る。おっぱい。冬の寒い夜コンビニで買った肉まんを二つに割ったときの湯気、おっぱい、真夏の夕暮れ時、おばあちゃんちの縁側で腹這いになって聞いたヒグラシの鳴き声、夜空を見上げてスッと線を引くように流れた流れ星、おっぱい、懐かしき日々の憧憬に愛しさ切なさが同時に込み上げてきて、目頭が熱くなるのを感じた。おっぱい。俺は生きている。いまこのときこの瞬間、誰がなんと言おうと俺は生きているのだ。おっぱい。なんだか眠たくなってきた。気持ちいい。おっ、、、
「はっ!?」
しまった! おまりの心地よい感触にトリップしかけていた。つうか冷静に考えたら制服とブ……えっーと、布でゴワゴワしてて言うほど柔らかくないからね!
「せ、せんぱーぃぃ」
バタバタと暴れる。予想外すぎるご褒美にいくら俺でも困惑だ。
そりゃ夏服の女子高生の胸に顔を埋めるなんてご褒美で、いまたっぷりとこの感触を確かめておきたいけど、脈絡無さすぎで、怖い。
「ご、ごめん。息が出来なかった?」
バッと手をどける先輩。そういう問題ではない、やっぱりこの人少しズレてるな。
「いや、なんですか突然」
「む、昔犬を飼ってて、こうして抱き締めると勇気がわいてきたの。何度も励まされた」
「はぁ。なるほど」
「い、郁次郎」
「ん、なんすか先輩」
「もう手放したよ」
「あ、そっすね」
いつまでも先輩の胸に顔を埋めたままの俺に先輩は優しく言ってくれ、
ガタン、
入り口の方から音がした。
天上の喜び、憧れ続けた理想郷から顔をあげ、音がした方に目をやると、
「……」
谷崎が保健室のちょっとだけ開いたドアの隙間からこっちを見ていた。驚愕で目が丸くなっているのがここからでもわかる。
脳内にビフォーアフターの「なんということでしょう」が延々リピートされる。嫌なヘビーローテーション。
「ま、まて、なんか、勘違いしている!」
「……」
「おい、谷崎!」
「……」
「なんかいえよ!」
無言のまま、すっと谷崎の丸い瞳は保健室から姿をけした。
怖いよ!
「郁次郎、佐奈、もう一度クラスに行ってみるね!」
俺からLuck(幸運)を吸い取りPluck(勇気)を手にいれた(らしい)、先輩は晴れやかな顔で俺にそう宣言した。
神様、俺はどうするべきか。