表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二人でお茶を  作者: 櫻夏
1/1

転機

 体が重い。いや体より心が重い。

 昨晩はあの後警察に通報して、警察官が二人部屋にやって来た。一通りの事を聞かれ、やはり「ブロンズで金を家に置いておくなんて、泥棒に差し出してるようなものだ」と、呆れられた。

 僕は被害者で、あのお金は学費のために肉体労働をして貯めたんだ、と訴えると、多少は同情の素振りもされたが、実際問題、お金は戻って来ない確率が高い。

 アパートの一室程度の空き巣など、他の凶悪事件の後回しにされてしまう。ブロンズはそんな場所だ。

「今日はここにしよう。結構人通りも多いし、お客さん来てくれると嬉しいな」

 僕はシルバーエリアを抜け、ゴールドとの境目の橋の袂にやって来た。小さな椅子を二つ並べ、肩からパンパンに膨らんだバックを下ろした。手描きの看板を小さなイーゼルに据えると、片方の椅子に腰掛けて空を見上げた。看板には『似顔絵、描きます』と筆と絵の具の絵も添えてある。

 小さな頃から絵を描くのが好きだった。正直、ここまでの人生色々とあったが、どんな時も絵を描いていれば、僕は違う世界に飛び立つ事ができた。お金を貯めて学校に通おうと思ったのも、美術の教師になりたいと思ったからだ。

 ペンキ塗りのアルバイトは、賃金と同時に絵を描くことに、少しでも近い仕事を探した結果で、綺麗な色の塗料を見るのは楽しかった。そして休みの日は、実践と少しは収入の足しになるようにと、似顔絵描きの真似事をやっている。

 でも今は、その似顔絵の方に頼らなければいけない状況になってしまった。会社の運営資金のほぼ全てを失った社長は、会社の規模を縮小するために、多くの従業員を解雇した。技術の低い人、技術はあるけれど歳を取って体力がない人、見た目で素行が悪そうだと判断された人、そして一番下っ端の僕。

 ーレイは超真面目で、いつも一生懸命だったのに!

 怒りに任せて社長に抗議しようとしたケントを止めたのは、僕だった。そんな事をしたら、ケントまでクビになってしまう。

 ーケントはきっと立派な職人になるよ。だから頑張って。

 心からそう言った時、ケントは大きな体を窄めて、泣くのを我慢しているようだった。

 ー俺が頑張って、会社を大きくするから。レイ、その時は戻って来いよ。

 きっと果たされない約束に、僕は笑って頷いた。ケントの心が嬉しかった。

 冬もそろそろ終わりで、春先の少し重い湿り気のある風が川面を撫でて吹き抜けて行く。

 橋の向こう側は本格的にゴールドエリアが広がり、綺麗に区画された街が白く輝いている。ブロンズのどことなく薄汚れた街に慣れている僕は、やっぱり気後れしてしまう。

 似顔絵など、金銭的に余裕がある人じゃなければ関心を示してはくれない。ブロンズでは、酔っ払いに絡まれるだけだし、シルバーでもそこまで足を停めてくれるもいない。流石にゴールドになると、子供にせがまれた親や、デートで盛り上がっているカップルがちらほらと、向かい側の椅子に腰を下ろす。

 けれども今日に限っては、全く誰も寄り付いてくれない。僕が垂れ流している絶望感のせいかも。それどころか、路肩に座る僕が視界に入ると、一瞬ビクッとし、次に忌み物を避けるように歩調が早くなった気がするのは、酷い被害妄想のせいだけじゃない気がする。

「良いか、嶺。うだうだ考えていても、何も解決しないぞ」

 自分自身を鼓舞する。

 無くなったお金が戻って来ない可能性が高いのなら、また頑張って貯め直すしかない。予定よりだいぶ時間はかかるだろうけど、『大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫』とお決まりの呪文を唱えて、ここまでやってきた。

「少し気分でも変えよっかな」

 来ないお客を待って、ぼんやり空を眺めるよりも、やっぱり僕は絵を描いて気分転換をする。 

 スケッチブックを開くと、ピン、と今描きたいものが心の中に浮かんだ。鉛筆が紙の上を走る音が心地良い。まだ両親が生きていた頃、家族で住んでいた家の庭に大きな木があった。毎年、春先になると自分の手のひら程の大きな白い花を目一杯咲かせ、小さな僕はその木の下に立ち空を見上げると、真っ白な雲が空を覆い尽くしてるように見えた。

 パレットの上にごく少量の絵の具を絞り出し、水を含ませると薄く色も付けた。スカイブルーの空に、洗い立てのシーツのような清潔で真っ白な花弁が滲む。

(当分は絵の具も、節約しなきゃいけないだろうな)

 正直、絵の具は高い。珍しい色ともなると、僕では手の出ないものもある。今までだって好き勝手に買えていた訳じゃないけど、好きな色すら使えない自分に、情けなさだけが募っていく。

 スケッチブックの上に広がる、今はもうない思い出の庭に、鼻の奥がツンと痺れた痛みを伴う。

(失敗した。さらに辛くなった…)

 いつもは自分を支えてくれる幸せの記憶が、今日は自分を傷みつける。視界が滲んだ気がして、俯きギュッと強く目を閉じた。

「それはマグノリアですか?」

 いきなり頭の上から降って来た声に、弾かれるように顔を上げると、見るからにゴールドの住人と分かる、品の良い年配の男が上から僕を覗き込んでいた。

「春が近づいてきた。そろそろですね」「はあ…」

 咄嗟のことに間抜けな返事しかない僕に、その人は柔らかな笑みを浮かべている。

「座っても?」

 向かい合いに置いた椅子を指差す手は、一眼で上質と分かる皮の手袋がはめられ、低い椅子のせいで高そうなコートの裾が汚れてしまうのではないかと、心配した。

「似顔絵を描いているのですか?」

 似顔絵ではなく、肖像画の方がお似合いの紳士と呼ぶべき男は、イーゼルに乗せた手作りの看板と僕の顔を交互に見た。

「失礼ですが、ご職業は画家ですかな」

「違います。絵はまだ趣味の域なのですが、将来、子供に絵を教えたくて…でも特に資格は持っていないので、学校に行こうと。今はその学費を貯めている最中です」

 どうして初めて言葉を交わした人に、それも自分とは明らかに住む世界が違う裕福そうな人に、こんな事を話しているか分からなかった。

「しかし失礼ながら、道端の似顔描きでは、学費を貯めるには効率が悪そうかと」

 男は既に僕の掲げた看板に興味を失くしたのか、通り過ぎていく人たちを見ながら綺麗に整えられた顎鬚を撫でている。

「ええ、そうです。普段は塗装屋で見習いをしています。結構ハードな仕事なんです。こっちは、日常の忙しさに絵を描くことを忘れてしまわないようにと始めました。それに少しでも収入の足しになれば、良いなと」

 そう、僕は誰かに話を聞いて欲しい程、心底弱り切っていたのだった。

 今まで学費のために必死に頑張って貯めた金を全部失っても、落ち込んでいても何も解決しない、と今日も自分を奮い立たせてここまで来た。でも、その頑張りは、僕が感じている以上に、自分自身を疲労させていた。

 そんな時にこの裕福そうな人が、僕の絵を見て話し掛けてくれた。

「…でも…それも、難しくなりそうです」

「何かあったのですか?」

 目の奥がじんわり熱くなり、漏れそうになる嗚咽を無理やり飲み下した。

「僕、住まいはブロンズなんです。それで部屋に泥棒が入って、貯めていたお金を全部盗まれてしまいました…」

 思わず言ってしまったが、僕は昨日から散々投げつけられた「銀行に預けてないのが悪い」「用心が足りない」という言葉の礫が蘇り、その痛みに思わず身を固くした。

 いくら事実だとしても、弱りきっている今の自分には、正論は傷口にさらに刃物を立てられるようなものだ。

 しかし、彼から返ってきた言葉は、予想とは全く違っていた。

「そんなに頑張って、絵を人に教えるようになりたいと思うのは、なぜですか?」

 僕は目の前の顔を見た。明るい茶色の瞳には、哀れみも好奇も批難も、何の感情も浮かんではおらず、ただただ僕の返事を静かに待っているが分かった。

「…僕の幸せな記憶なんです。まだ両親が生きていた頃…」

 今度は男の眉が微かに上がるのが分かったが、僕は構わずに言葉を続けた。

「僕は幼い頃からとにかく絵を描くのが好きで、いつも両親や家の庭に咲く花や木を描いていました。両親はいつも褒めてくれて、壁一面に子供が描いた上手でもない絵を丁寧に飾ってくれました。あの幸せな記憶は、僕をいつも支えてくれます。だから僕も誰かにそれを伝えたいんです」

「絵を描くのなら、画家…まあ、食べられるのかどうかは別としても、そちらを目指さないのは、どうしてですか」

「描いている人を、見てくれる人を、近くに感じたいんです。僕が描いた絵が、僕の知らないどこか立派な所に飾られるより、誰かと一緒に楽しむことを選びたいんです。このスケッチブックの花も、幼い頃住んでいた家の春の記憶です。こうしてあなたが見て話しかけてくれました。あ、でも、もちろん有名になれたら、それもとっても嬉しいです」

 短い沈黙が流れ、彼は僕の答えを噛み締めるように、二、三度ゆっくりと頷いた。「良いでしょう」と聞こえた気がした。胸ポケットから、手帳を取り出し何かを書きつけると、破ったページをこちらに差し出した。

「明日にでもそのメモの場所に行くと良いでしょう。きっと今後のあなたの助けになると思いますよ」

 渡されたメモには、ゴールドエリアの住所と『ライラック法律事務所』と書かれていた。

「あの、お金を取り戻す事が出来るのですか?でもそもそも取り返したところで、法律事務所なんて、高くて僕じゃあ報酬のお支払いはできません」

「報酬の心配は無用です。安心して尋ねてみなさい」

「ボランティア、という事でしょうか?それよりも、どうしてあなたは僕に親切にしてくれるんですか」

 弱っている心に沁みる親切に浸ってしまいたい気持ちと、用心しないと今以上に取り返しがつかない事になる、という警戒心が胸の奥でせめぎ合っている。

 すると男は、スケッチブックのマグノリアの花を指差した。

「答えはそれですよ。明日にはきっとあなたもソレを分かるはず」

 では、と言って、男は謎の言葉を残して立ち上がった。 

 呼び止める間もなく、男の姿勢の良い背中は、橋を渡りゴールドエリアへと消えて行ってしまった。

 手の中にあるメモをじっと見つめた。そしてスケッチブックの中に咲く、空を真っ白に染め上げる花を見た。

 うん。行ってみよう。

 このままだと家賃すら払えなくって、あのオンボロ部屋だって追い出されかねない。どこからどう見ても、今の僕は最悪だ。

『大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫』

 だったら、少しでも良くなる方に賭けてみるのも悪くない。


 

 約束の時刻に現れた親友の格好に、思わず吹き出した。

 芳亜(ヨシュア)・ライトハウス・セリノ。十五年ほどの昔、同じ頃同じ歳で同じホームにやって来た少年。その時から僕たちは常に一緒に育って来た。

 ーやっぱり、一人じゃ怖い…

 昨日、偶然出会った紳士からの申し出に腹を括ったは良いが、少し冷静になると当然ながら不安は拭いきれない。だから心から信頼している芳亜に、付き添いのお願いをした。

「どうしたの?その格好」

 芳亜はニヤリと笑って、両手を腰に当てた。

「威嚇だよ、威嚇。聖職者が隣にいたら、悪い奴だって、ちったあ遠慮するだろう」

 そう言う芳亜は、たっぷりと裾の長い黒い法衣に、旅人の木が刺繍された肩飾りを着けている。『癒しの力』を持つ聖職者の印。完全に正装だ。

「はぁぁ!」

 長い法衣の袖を託し上げて、芳亜が両前腕部分を顔の前でピッタリと合わせ見せる。顕になった腕には、歪な星型のような火傷の跡が、無数散らばっている。

「そういえば、昔、そんな映画あったね」

 あの映画の主人公の前腕部には、複雑な模様のタトゥーがあったっけ。

 子どもの頃に見た、百年ぐらい前に大ヒットしたらしい映画のリメイク版を、芳亜と一緒に見た。悪魔退治のエクソシスト、と呼ばれる御伽噺(・・・)の中の人たちの話だ。

 映画の中の悪魔は恐ろしい存在だったけど、今の僕にしてみたら、金を盗んで行った顔も知らない奴の方が、何百倍も酷い存在だ。

「あーぁ。あんなふうに超格好良い魔法が使えれば良いんだけな。指先からビームが出るとか、手のひらから火の玉が飛ぶとか」

「ヒーローみたいで格好良いけど、あの主人公も、そんなの出なかったよ。でも芳亜は癒しの力があるじゃないか。僕は壊す力よりも、芳亜のみんなを守る力の方が、好きだよ」

「まだ、見習い、だけどな」

 僕の言葉に、芳亜は綺麗な榛色の瞳をまん丸に見開き、次にぎゅっと口を窄めた。照れている時の親友の癖だ。

「ふふふ」

 ふと自分の肩の力が抜けたのを感じた。久しぶりに見た親友の懐かしい仕草に、自分が大分緊張していたのだと気がついた。

(きっとこれも癒しの力の成せる技だな)

 この世界には、特殊な力を持つ人間が一定数存在する。

 大体はごくごく自然の流れに沿ったささやかな現象で、触った物を冷やせるとか、反対に温める、ちょっとだけ浮くことが出来る、空の機嫌を見て一ヶ月先の天気を正確に予想する、とか小さな灯りを指先に灯せるとか、植物や動物の囁きが何となく分かる、とか。

 能力を持つ大抵の人が、それを活かした仕事につき、役所に登録も義務付けられている。 絵本に登場する魔法使いみたいな、杖から火の玉が飛ぶような派手な魔法は、今は存在しない。お話にあるぐらいなのだから、もしかしたら、僕たちが知らないほどの昔は、そんなのもあったのかもしれないけど。

 人間という生き物は長い変化の流れの中で、少しずつ平均化されていくらしい。飛び抜けた能力は代を重ねる毎に削られて行き、近い将来、全ての能力が完全に消えてしまうと言われている。

ホーム(ウチ)に帰ってくりゃ良いのにさ。どうしてだよ。オヤジ(神父)も心配でオロオロしてたぞ」

 芳亜のいう『親父』とは、芹野偉沙久せりのいさく神父。僕たちホームのみんなの父親だ。僕と同じ東の涯の国にルーツがあるらしく、名前がそれを表している。

 同行をお願いするにあたって、ホームに電話を掛け、僕の身に降りかかった災難と果たして幸運なのか更なるピンチへの入り口なのか、まだ分からない出来事を全て話した。

 電話口の芳亜が「今すぐ行くから!」と激昂するのを宥めるのに、少し苦労した。

「もちろん一瞬、それも頭を過ったけど、僕は大人だし頑張れるから、僕よりもホームを必要としている子どもたちを優先してあげて。それに…この歳になってまで、君とベッドを分け合うのは、ちょっとごめんだよ」

 孤児のためのホームはいつも満杯で賑やかで、お世辞にも余裕のある運営とは言えなくて、そしてとても温かい場所だった。

「相変わらず、超真面目って言うか、お人好しって言うか…そんな事ばっか言ってると、野垂れ死にしそうで心配だよ」

 芳亜がわざとらしい程の大きなため息を吐く。でも、そういう芳亜はとても優しい奴だ。

「よし、来いよ」

 そう言うと、芳亜は大きく両手を広げた。僕は一瞬の迷いなくその腕の中に飛び込む。芳亜から流れ込む癒しの温かさに、胸の奥にあった冷たくて硬いしこりが、じんわりと溶けて行く気がした。

「今日は法衣を着てるから、力も底上げされてバッチリだな」

「法衣が無くたって、芳亜の癒しの力は凄いよ」

「まあな」芳亜がニヤリと笑う。

 幼い芳亜に、珍しい癒しの力があると知った両親は、彼を見せ物にした。観客から金を取り幼い息子の腕にタバコの火を押し付ける。幼い芳亜は、それを幼く辿々しい力で、泣きながら必死に直し続けた。直し切れなかった跡が、今も無数に歪な星型となって腕に残る。

 実際には見たこともないその光景が目脳裏浮かぶ度に、僕は怒りと悲しみでどうにかなりそうになる。

 直に両親は逮捕され、芳亜は安全なホームへと保護された。両親は今も塀の向こう側にいる。でももし、そいつらがこっちの世界に戻って来た時のために、僕たちの神父様が法的手順に則って、芳亜の親権をもぎ取ってくれた。芳亜という名前は、神父様が新しく生まれ変わった『ヨシュア』に贈ったギフトだ。

「癒しの力なんて聖職者にピッタリだよな。ま、オヤジにはまだまだ敵わないんだけどさ」

 僕もそうだけど、芳亜はそれ以上に神父様を尊敬している。口は悪いが、いつも言葉の端々に神父様への想いが溢れ、小さな頃から後を継ぐことを熱望していた。現在それを着々と実行中だ。

(良いな。ちょっと羨ましい)

 的外れだと分かっていても、芳亜を羨んでしまう自分がいる。彼には特別な力があって、神父様と強い絆もある。対して僕には何もない。特別な力も特別な絆も。

 もし芳亜にそんな僕の内心を知られたら、ぶっ飛ばされて泣いて怒られるだろう。

 僕にとって芳亜は、どんなピンチにも真っ先に駆け付けてくれる大親友で兄弟だ。

 でも芳亜と神父様の間にある、僕では立ち入る事のできない阿吽の呼吸に、時々気がついてしまう。彼らは親子で同じ能力者だからだ。それを感じる度に、胸の底の底が少しひんやりとしてしまう。

 今更、特別な能力は無理だけど、いつかは僕を必要としてくれる、特別な存在が現れるのだろうか。僕が存在している意味を教えてくれる人に。

 僕は自分自身の存在を確かめるように、強く右手で左の手首を掴んだ。


 

 住所に記された建物は、ゴールドエリアのその中でも、さらに中心部に近い高級エリアにあった。

 煉瓦造りの古いビルは同じ古さでも、オンボロではないアンティークという言葉が似合う、思わず見惚れてしまう美しい姿だった。

 ビルによく似合うアンティークなエレベーターは、アイアン製の柵に花が咲き、蝶や小鳥がとまっている。

「ゴールドの奴らはこんなとこまで金かけてやがる」

 芳亜が下唇を不満げに突き出している。

 見た目はアンティークなのに、動きは滑らかで全く揺れる事もないエレベーターで十階まで上がる。

 出迎えてくれたのは、まだ中年と呼ぶには早い男性で、ひょろっと背が高い。穏やかな雰囲気を纏った人は、僕が名乗る前にごく自然に部屋の中に招き入れてくれた。

 もしかしたら、昨日の紳士の事務所なのかもしれないと、僅かに期待していたので、全く違う人物にちょっとがっかりした。

「どうぞ、お掛けください」

 こんな一等地の建物に入るのは初めてだったので、物珍しくてそっと室内の様子を伺った。芳亜も同じようで、いや、そっちはもっとあからさまにキョロキョロとしている。

「今日はアシスタントが休みなので、こんなのしかないのですが、煮詰まったコーヒーは好きですか?」

 多分、冗談なのだろうが、本当に目の前に置かれたカップの中身は、いつも目にするコーヒーよりも格段に黒々している。恐る恐る匂いを嗅いでみると…確かに相当煮詰まっている。しかし当の本人は、平気で、いやうまそうに煮詰まったコーヒーを啜っている。

「あ、あの。僕、大瀬嶺(おおせれい)と言います。昨日会ったって言うか…あの、僕、似顔絵を描くアルバイトをしてまして…」

 よくよく考えてみれば、見ず知らずの人に渡されたメモだけを頼りに、突然押しかけるなんて非常識だったと、今更ながらに気がついて、しどろもどろになってしまった。

「それで、こっちは子どもの頃から一緒に育った、芳亜・ライトハウス・セリノ…」

「大丈夫です。話は聞いていますから」

 レインフォードと名乗った彼は、目元に細かな皺を寄せ、こちらを安心させるように微笑んだ。

「空き巣に入られたとのことですね。大変でしたね。犯人が捕まれば良いのですが…」

 心の底から心配しているように、彼の両眉がハの字に下がった。

 通常ゴールドの住人とブロンズの住人は住む世界が違いすぎて、接点などまずない。目の前の弁護士も、ブロンズの若造の依頼など無視できる立場なのだろうが、尊大な態度など微塵も感じない。いくら聖職者が横に座っていようが、多分特異なことなんだと思う。これもそれも、実はあの紳士がとんでもない地位の人で、その影響力のおかげなのかも。

「早速ですが、本日オオセさんに来て頂いたのは、こちらの件になります」

 レインフォードさんは数枚の写真と書類をテーブルの上に並べた。どうぞ、と言う風に手を示され、取り上げた写真には白い屋敷が写っていた。二枚目も同じ屋敷を違う角度から撮影されたものだった。

「えっと、これは…?」

 言い掛けて、ピンと来た。

「このお屋敷で働くんですね。使用人のような感じでしょうか。すみません僕、あまり料理は得意ではありません。それ以外の掃除や洗濯なら得意です。あ、でも、もちろん料理も頑張ります。少し時間を頂ければ、練習します」

 どんな仕事でも給料がもらえるのであれば頑張ろうと決めて、ここに来たのだから、ここでアピールしなきゃいつするんだ。絶対に仕事もらうんだ、と前のめりで目の前のテーブルに両手をつき身を乗り出した。

 それから…と、なおも言い募ろうとした僕に、レインフォードさんは軽く右手を挙げた。

「もしかして、何も聞かされていないんですか?まさかこっちに丸投げとは、困った人だ。今度会ったときに抗議しないと」

 意味が分からず、思わず黙り込んだ僕の様子に、レインフォードさんはため息を吐いた。

「僕、何かおかしなことを言ったでしょうか?でも、精一杯働きますので…」

 だから、仕事をください…そう言いたかったのが、途中で言葉を飲み込んだ。また最後まで言わせては貰えなかったからだ。

「もちろん、仕事の紹介もしますが。まずはこちらが先です。あなたには、ここへ引っ越す事を提案します」

 人差し指で、トントンと叩かれた写真の屋敷は、全てが曲線で角がなく白い壁が美しい優雅な立ち姿をしていた。並んだ大きな窓からは陽の光がたっぷりと入るだろう。

(綺麗だな。僕、このお屋敷が好きだ)

 テレビで見かける一般的なゴールドの絢爛豪華な屋敷とは違って、テラスに彫刻や金色に縁取られた窓もなく、百人ぐらい住めそうな馬鹿デカさもでもない。何とか自分一人で掃除ができそうな広さに、安心感を覚えた。

「引っ越す、という事は住み込みですか?そうか、それなら家賃も浮きますし精一杯働けますね。もしかしたら、来月の家賃が払えないかもって心配していたんです」

 心の悩ます心配事が一つ減るかもしれない高揚感で、僕にしてはかなりお喋りになってしまった。

「あ、住み込みって言っても、その分の家賃は引かれるのでしょうか。食事はどうすれば良いでしょうか。きっと他に働いている方もいますよね。僕が全員分作った方が…」

「ちょっと落ち着いて。まずはコーヒーでも飲んでください」

 両手を取られて、コーヒーカップを持たされた。カップは白く飾り気のないシンプルなものだが、しっとりと手のひらに馴染む薄い陶器は高価な物だと分かる。僕は落として割ってしまわないように、しっかりと両手で握った。

「さっきは料理が苦手って、言ってしまいましたが、頑張って練習して急いで上手に…」

 もし食事を作ることになったら、レシピ本が必要になる。数冊買うのなら、ブロンズのあの古書店に行ってみよう。

「良いですか、オオセさん」

 僕の先走った想像を見透かしたように、レインフォードさんが苦笑いを浮かべている。

「あなたは根本的なところを勘違いしている。レシピ本もエプロンも必要ありませんよ。まあ、何も聞かされずに来たのですから、仕方ありませんが」

 その言葉に、全身の血が引く音が耳の中に響いた。せっかく、仕事も住むところも決まりそうだと思ったのに。出来過ぎた話が、いきなり空から降ってくる訳ないか。

「あなたにこの屋敷の使用人を務めて欲しい訳ではありません」

 ほら、やっぱり。

 ぬか喜びした分、落胆も大きい。

「ただこの屋敷に住んで欲しいのです」

 言われた言葉はまっすぐに耳には届いたが、どうも脳の理解が追いついていないらしく、ただ単に呪文か音にしか聞こえない。

「すみません。もう一度言ってもらえますか?僕はただ住むって、聞こえたのですが」

「ええ、その通りです。あなたにはこの屋敷に住んで欲しい。言葉通りの意味です」

 やはり言われている意味が分からず、思わず目を瞬かせた僕に、レインフォードさんは出来の悪い生徒に言い聞かせるように、ゆっくりと説明を始めた。

「この屋敷の主人はビジネスで大変に忙しい人物で、世界中を飛び回っているのですが、今回海外で大きな仕事が決まりました。彼は仕事が軌道に乗る間、そちらに滞在するため、屋敷は無人になります。要はあなたに、その間の管理をお願いしたいのです」

「お屋敷の管理人っていうことですか?」

「ええ、そうです。人が住まなくなった家は、傷みが早くなりますから。期間は多分一年程度になると思います。まあ、状況に応じて延長はあります」

「僕に管理人なんて務まるでしょうか。もちろん掃除や壊れた所の修理は精一杯やります。でもこのお屋敷の事を全く知らない僕が、万が一触ってはいけないものを壊したり、そんな事だってあるかもしれません…」

「それについては心配いりません。執事がいますから。彼が全てを取り仕切るでしょう」

「執事、ですか?」

 羊、ではないよな…今までの僕の世界には存在しない、全く聞きなれない単語が宙に漂って、僕が理解する前に消えた。

「はい、それと料理番も一人。ですから、あなたは苦手な料理の心配をする必要性はありません」

「執事の方がいて、料理番の人がいる…じゃあ僕はその方達の指示に従って、掃除とか洗濯とか庭の手入れとか、ですね。実は僕、植物を育てるのが結構得意なんです。お屋敷なら、きっと立派な庭があるんでしょうね」 

 ホームを出てからの一人暮らしに、ちょっと寂しさを感じていた僕は、会話のある食卓や誰かの気配を感じながら眠りにつく夜を想像して、心の底にじんわりと温かを感じた。

「お仕えするご主人がいないのは、みなさんちょっと寂しいんじゃないですか?せっかく一生懸命働いても、物足りないって言うか」

「ですから、その役割をあなたにお願いしているんです」

「はい!…んん?ええっ!」

 僕の驚き様が面白かったのか、はたまたちっとも噛み合わない会話が、やっと落ちるべき所に落ちたと安心したのか、レインフォールさんはコーヒーを啜りながら、ニヤニヤとした笑いを浮かべている。

「そんな、僕は使用人じゃないんですか?お給料を頂く側じゃないんなら、お支払いする側っていう事ですよね。こんな立派なお屋敷の家賃なんて払えませんっ」

 そこまで言って、僕はさらに一つの事実に気がついて、全身の血の気が引いた。

「執事の方や料理番の方のお給料なんて、尚更無理です。お金はほとんど盗まれてしまって、逆立ちしたって何も出ません!」

「落ち着いてください。あなたの家賃も食費やその他細々した生活にかかる費用、使用人の給料まで、全部合計して月々の支払いはこの金額です」

 指し示された金額は、冗談で済まないほどの安さだった。それこそ、ファーストフードでの食事数回分ほど。三桁ほどゼロが足りてないんじゃないかと思った。

「いくら僕が無知なブロンズの住人だからって、揶揄うなんて酷すぎる。僕は何とかして生きてかなきゃいけないのに」

 そう思うのが普通だろう。

「揶揄ってなどいません。書類に示されている条件は正式なものです。ただ、守ってもらわないといけない項目はあります」

 度々の間髪入れない否定に、この人、人の心が読めるのか?本気で疑いたくなる。

『①屋敷を好きなって、大切に使用する

 ②執事の提案を素直に聞き、指示に従う

 ③必ず絵を描き続ける』

 最後の項目に「え?」と声が出た。

「僕が絵を描くのが大切な条件なのですか」

「もちろんです。それがあなたが選ばれた理由の一つでもあります。才能があり、強く願う夢がある。そしてその人個人では解決が難しい問題や環境のために、酷い遠回りをせざるを得ない。そんな若者の助けとなれれば。それが今回の趣旨です」

「確かに、僕はその条件に当てはまりますが、そんな人、この街には星の数ほどいます。特にブロンズ地区には」

 そうですね。と、レインフォールさんはゆっくりと頷いた。

「そんな若者の中から、あなたがここにやって来た。それが偶然なのかあなたの運の力なのか、それとも目に見えない不思議な力の導きなのか。どれでも構いませんが、どちらにせよ、ここにいるのは(・・・・・・・)あなた(・・・)だ、それだけです」

 そして、もう一つ条件が…

「あー!思い出した!」

 何か言い掛けたレインフォードさんの言葉を、芳亜の大声が掻き消した。

「この屋敷、シュタイン社の社長の家だ!」

 その名前には聞き覚えがあった。確か、アンドロイドロイド業界の第一人者で大富豪。おまけに…

「なんかきな臭い事件に巻き込まれてるって、ニュースで見たよな」

 今まで、雰囲気に圧倒されていたのか、借りてきた猫並みに気配を消していた芳亜だが、思いも寄らない急展開に大分興奮気味だ。

「ああ、あの誘拐されたとか、殺害されとか、ですか」

 馬鹿馬鹿しい、とレインフォールさんは口をへの字にひしゃげて見せる。

「ええー違うの?一時期はネットニュースでも、その話題だらけだったよな」

 うん。と僕も頷いたが、実はその話題にはそこまで詳しい訳じゃない。日々肉体労働の仕事に疲れ果て、家に帰ればバタンキューの状態で、ネットニュースの画面に釘付けなんていう余裕はない。そんな状況の僕でも、マキシミリアン・フォン・シュタイン氏の名前ぐらいは知っている。

 元貴族の家柄に生まれた彼は、天才的な頭脳と豊富な資金を盾に、アンドロイド制作会社を立ち上げ大成功した。この街でも最も裕福な部類の人間なのだが、意外にもその姿は謎に包まれている。極度の秘密主義、人間不信と噂され、公の場にもマスコミにも姿を晒すことはない。

「普通、金持ちって目立つこと大好きだろ。良いことも悪いことも、わざと人の目に付くように大っぴらにやらかすよな。ほら、老舗ホテル業界の孫とか、スーパーマーケット業界の三兄弟とか、トイレットペーパー作ってる奴とかさ」

 芳亜は、お騒がせセレブたちがマスコミに提供した、笑えて呆れる騒ぎを挙げた。

「で、あの事件だろ」

「事件って?」

「もしかして知らないのか。相変わらず、世間に疎いなー」

 そう言い掛けて、芳亜は現在の僕の日常を思い出したのか「悪い」と小さく呟き、僕の手の甲を二度軽く叩いた。僕は「何でもないよ」と首を振った。

 そんな僕たちの様子をレインフォードさんがじっと見ているのに、気がついた。世間知らずな奴だと思われたかも。内心ドキドキしたが、目が合うと彼は黙って微笑んだだけだった。

「そう言えば、さっきもきな臭い事件って、言ってたよね。どんな内容なの?」

「あー確か、二ヶ月前ぐらいだっけ?夜の散歩に行くと言って出掛けた社長が、そのまま姿を消したって話。誘拐されたんじゃないかって噂だぜ」

「誘拐?どうして」

 目の前の優美な屋敷の写真からは、想像もつかない物騒な単語に、僕は説明を求めてレインフォードさんに顔を向けた。

「誘拐、じゃありませんよ。最初にお話しした通り、シュタイン氏は常にビジネスで世界中を飛び回っています。今回も幾つかの重要な商談先で長期滞在が続いているだけです」

「でもさあ、写真もほとんど撮らせないから、顔を知ってる人間はほとんどいないんだろ。正直何とでも言えて、怪しさを掻き立てるよなぁ。あ、でも、弁護士さんは流石に会った事はあるんですよね」

(直球過ぎだよ。万が一レインフォードさんを怒らせて、この話がなくなっちゃったら)

 思わず芳亜の法衣の袖をギュッと掴んだ。「おっと…」小さな呟きが漏れたので、僕の焦りが伝わったのだろう。

「あー、怒らせちゃったならすみません。俺、何でもストレートに聞きすぎちゃんで、いつもオヤジにも怒られるんです。でも、レイは全然違いますから。こいつは頭良いから、ちゃんと考えてから話します」

 でも、と芳亜の声が急に真面目な響きを帯びた。

「レイの事が大切だから、敢えて聞きます。コイツは小さい頃に両親が死んじゃって、いっぱい苦労もしただろうけど、それでもいつも優しくて頑張り屋で、すっごくイイヤツなんです。それなのに、今回、あんな事があってからの狙い済ましたように、この上手い話だ。本当か?って。神は起きてるのか、ちゃんとこっちを見てるんか、疑いたくもなっちゃうんですよね」

 鼻の奥がツンと痺れた。

 芳亜が僕を大切に思ってくれているのは、知っている。それでも改めてこうして言葉にされると、何とも言えないものがこみ上げる。

ファーザー(神父様)、あなたが心配されるのは分かります。でもわたしはシュタイン氏の弁護士で、法に則ってわたしの仕事をしています」

 芳亜を『ファーザー』と聖職者として呼んだ。二人の視線がぶつかり、ピリッと緊張感が走る。

「…まだ、ファーザーじゃないよ」

 明らかに不機嫌な声を芳亜が出した。

「あ、あの…ちょっと良いですか」

 小さく右手を挙げた僕に、レインフォードさんは「どうぞ」と教師のように重々しく頷いた。

「この庭がお屋敷の庭でしょうか」

 テーブルを滑らせ一枚の写真を押し出した。

 野山のような不思議な庭だった。綺麗に刈り込まれた芝生、ではなく、雑草で片付けらる可愛らしい小花やクローバーが絨毯のように広がり、でも所々はバラや僕では名前も分からない珍しい花が咲いている。

 そして庭の奥には、一本の大木が咲き誇る花の重みで枝をしならせながら、辺りを白く霞ませている。

『その意味が分かりますよ』

 あの紳士の声が聞こえた気がした。

『大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫』小さく口の中で呟いたつもりだったのに、芳亜には聞こえてしまったようだ。僕の癖を知っている彼はギョッとして、こちらを見た。

 僕は芳亜に止められる前に、はっきりと声に出した。

「よろしくお願いします」

「おい、レイ!お前、何言っちゃってんのさ。曰く付きの家だぞ」

「うーん。そうなんだろうけど、そうだとも言い切れないのかもしれないよ」

「いいや、完璧に怪しいだろう。常識離れした良過ぎる条件はどう考えても、後ろめたい何かを隠すためだろうが」

 芳亜が心配してくれているのは分かっている。ありがとう。これからどうなるのか分からないけれど、ただただ白く霞んだ写真を見た瞬間、僕の心は決まってしまった。

「ごめん」

 その一言に、芳亜は目玉が落ちる程に大きく見開くと、続けて体が一回り縮む位の大きな溜息を吐いた。

「まじか!危ないって言ってんのにさ。お前、一回こうと決めたら、マジ動かないもんな。よし、こうなったら良いチャンスだ」

 顎を摩り、ニヤリと笑う。何か嫌な予感がする。

「俺が謎を解いてやるよ!」

 あーやっぱりそうなるんだ。僕を頑固だというのなら、芳亜もなかなか負けていない。飽きるまでは屋敷に通い詰めて来そうだ。

「あの…」

 僕はずっと気になっていたことを口にした。

「橋の上でお会いした紳士が、シュタインさんなのでしょうか」

「いいえ、違います」

 キッパリとした否定は、予想通りだ。

「あの方にもう一度、お会いすることはできるのでしょうか」

「それは無理だと思ってください」

 これも予想通り。

「では、レインフォードさんが今後会われることはありますか?」

「どうしてそんなことを気にかけるのかな。その人が僕の顧客だとしたら、なおさら個人の情報で話せる事は何もない」

 僕の質問に答える代わりに、こちらの腹の底を探るように目を眇める。

「お礼を言いたくて。あの人は困っているブロンズの住人の話をちゃんと聞いてくれた。僕の身なりを見れば、明らかに自分とは住む世界が違う人間だと分かるはずなのに、躊躇いなく椅子に座って、僕の目を見て丁寧に話を聞いてくれました。あの時の僕に、優しい声を掛けてくれた唯一の人なんです」

 ほう、とレインフォードさんは片眉を上げ、笑ったのか口の端が斜めに上がった。

「あなたの幼馴染がいう通り、危ない話かもしれない。お礼を言うのは早計かもしれませんよ」

「まさか、本当に…」

「良いでしょう。いつになるか分かりませんが、その時は彼の親切を褒め称えましょう」

「何か、嘘臭えんだよな」

 横から聞こえた小さな呟きは、この際聞こえなかったことにする。

「どうしてシュタインさんは、新たな管理人を置くのでしょうか。屋敷の保存なら、使用人の方たちだけで充分だと思いますが」

 書類の署名欄を指さされて、ペンを手に取った。ここに自分の名前を記せば、全てが変わってしまう。そんな予感がした。

「使用人が自分の留守中もちゃんと働いているか、確認したいのでは?人を疑う天才、と言うのがぴったりな人物なのですよ。彼は」

 苦々しさを隠そうともしない、弁護士の顔に、僕は止まりそうになる手に力を込めて、署名をした。

 たっぷりとインクを付けたはずなのに。こんなにも自分の名前が頼りなく見えるのは、多分後にも先にも今だけだと祈りたい。



【続く】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ