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EditoR_09 感情の交差点


 稽古の合間、咲姫はふと動きを止めた。演出家の声が遠のいていく。その声はまるで水中から聞こえるようにくぐもり、周囲の空気が少しだけ重くなる。


(……っ?!)


舞台の上で立ち位置を変えようとしたその瞬間、頭の奥に鋭い閃光が突き刺さった。視界が一瞬真っ白になり、照明の熱が頬に差し、舞台の空気に混じる古いカーテンの埃っぽい匂いが鼻をかすめる。遠くの拍手の残響が不意に大音量で押し寄せ、その音の中で心臓が高鳴っていく。まるで雷鳴のような音とともに、舞台全体の色彩が反転するかのような錯覚が走った。視界の端に、見覚えのない景色がフラッシュのように入り込む。その景色の中には、見知らぬはずの観客の顔や、舞台袖から差し込む淡い光までもが鮮やかに焼きついていた。


(今のは……なに?)


知らないはずの舞台。けれど、足元の床のきしみや、ライトの角度、遠くに聞こえる拍手の反響──そのすべてに“覚え”があった。そして次の瞬間、無意識に視線をある一点へ向けていた。それは、舞台袖の奥。誰かがいる気がした。暗がりの奥、ほのかな香水の匂いが漂う気配さえ感じる。その影が微かに動いたような気がして、心臓が一度大きく跳ねた。まるで誰かがそこから自分を見ているとわかっているかのように。


(いま、私……何を探してた?)


演出家の指示に「はい」と答えながらも、心のどこかが騒いでいた。これは、自分の意志じゃない。けれど、誰かの意志だとも言い切れない。ただひとつ言えるのは、「私の中に、もう一人いる」──そんな感覚。見えない糸で引かれるようなその感覚が、舞台上の立ち位置すら変えてしまいそうだった。



 一方その頃、優は事務所の控室で、MAYA☆のInSTARの投稿を見ていた。ふと、その中の舞台公演案内の投稿に目が止まる。MAYA☆が舞台上で微笑んでいる写真。その横顔。その視線の流し方。あまりに似ていた。


(この光の角度……あの時、マヤが照らされていた舞台の──)

(マヤ……いや…違う。違うんだ。でも……なぜだ。似ているだけじゃない。この写真を見ると、感情が揺れる)


その感情の揺れは、まるで記憶の奥底を誰かが静かにノックしてくるようだった。胸の奥に、ふっと火種のような熱が灯る。鼓動が耳の奥で大きく響き、指先がわずかに震えた。それは冬の陽だまりに指先を差し入れたような、優しいのに、なぜか痛い温度だった。喉の奥がきゅっと締まり、息を呑む。ページをめくる手が止まり、音のない世界に落ちていく感覚。遠い昔に、誰かを想っていたあの瞬間と──重なっていた。今のMAYA☆の演技を初めて見た時も──。


(いや、待て。俺は……彼女の舞台なんて、まだ一度も観ていない。)

(なのに、なぜ……こんなにも鮮明に、彼女が舞台の上で笑い、泣いている姿が浮かぶ?)


──それでも、偶然では済ませられない感覚が、日に日に強くなっていた。



 ホテルの客室清掃の仕事に戻った咲姫。廊下には柔らかな洗剤の香りが漂い、清掃カートの車輪が静かに床をきしませて進む。窓から射し込む淡い午後の光が床に四角く落ち、漂う空気はひんやりと乾いている。手慣れた手つきで仕事をこなし、同僚ともいつも通りの会話を交わす。この時間だけは、不思議と“何も起きない”。InSTARの通知もなく、EchoEも静かだった。


(あれ……今日、静かすぎるくらい)


掃除機の音が単調に響く中、咲姫はふと立ち止まり、清掃カートの陰に隠すように、もう一台のスマホを取り出す。念のために作っておいた別アカウントで、何気なく写真を投稿してみる。


──何も起きない。


画面は更新され、☆も数件つく。けれど、あの“重さ”がない。まるで、音も匂いもない無菌室のような感覚。いつもは画面越しに感じる微かな息遣いや熱が、ここにはなかった。


(……雪平咲姫としての私は……自由なの?)


頭の中でカチリと、何かが噛み合う音がした。


(じゃあ……MAYA☆として投稿したときだけ、あの気配が寄ってくるんだ)


咲姫はその感覚を確かめるように、もう一度画面を見つめる。そこにあるのは、自分自身の投稿。

誰の干渉もなく、ただ静かにタイムラインに並ぶ。その安心感は、まるで長い間閉じ込められていた部屋から一歩外に出たような開放感だった。その気づきに胸が軽くなった。



 夜、優は自室のパソコンで、静かに小説の編集画面を開いていた。ふと、気づく。書いた覚えのないセリフが、アップロード済みのエピソードに追加されている。それは、マヤが実際に話した言葉だった。


(俺、これ……書いていない)


編集履歴も残っていない。未保存マークは消えているのに、増えたはずの一行だけが保存履歴にない。だが、間違いなくそこにある。誰が、どうやって──スクロールする指先が止まり、心臓の鼓動が速まる。文章の呼吸、リズム、言葉の選び方──どれも確かに“マヤ”だった。それは“創作”の域を超えて、まるで記録された“記憶”のように。画面の光が机の上のカップを照らし、冷めたコーヒーの香りがわずかに立ち上った。



 次の日、咲姫は稽古後、いつもと違う道を通って帰っていた。信号待ちでふと目を上げたその瞬間、ガラス越しにひとりの男と目が合いそうになる。けれど、お互いに気づかないまま、歩き出す。ほんの数メートルの距離。なのに、世界は交わらない。しかし、彼女の胸の奥で、なにかが静かに揺れていた。そのとき、咲姫は足を止めた。夕暮れの空気は少し冷たく、ビルの壁に映るふたりの影は、触れそうで触れないまま長く伸びていた。あたりに淡いオレンジの陰影を落としている。車のエンジン音と、信号のピピピという電子音が遠くからかすかに重なってくる。舗道にはコーヒーショップの香りが漂い、どこか懐かしい旋律のように記憶をくすぐった。そんな中、咲姫はEchoEを開いた。そして自分宛に届いていたひとつの“レスオン”を見つける。


(……この文章、見たことがある……ような)


その言葉に、妙な既視感が走る。スマホを持つ手に思わず力が入る。それは小説で見たセリフに似ていた。けれど、それだけではない。まるで自分の中の何かが“知っている”と囁いているようだった。


一方、優もまた、近くのカフェの窓際に座っていた。ふとした拍子に視線を上げると、目の前の交差点を通り過ぎていく人影があった。彼女は、どこかで見たことのある後ろ姿──けれど、優はそのまま視線を外してしまう。


咲姫もまた、なぜか誰かに見られているような視線を感じた。でも、振り返らなかった。すれ違ったその一瞬だけ、時間が少しだけ止まった気がする。ガラス越しに映る自分の顔が、何かを思い出そうとしていた。



 その夜、咲姫は夢を見た。観客のいない劇場。ライトに照らされた舞台に、一人で立っている。ライトは白く眩しく、舞台の板の上に立つと、足元から靴音が空虚に響いた。袖の奥から誰かが出てくる。それは、あの人。彼が、まっすぐにこちらを見て、言う。


「君は……誰?」


──目が覚めた。涙が頬を伝っていた。

──今の夢、誰かの記憶だった気がする。


目覚めた咲姫は、まだ心臓の音が残る胸元をそっと押さえた。カーテンの隙間から射し込む朝日が、まるで舞台のライトのように部屋を照らし、床に細い道を作っている。その光の中で心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に響いていた。



 優もまた、その夜、ひとつの投稿に目を留めた。


『“もういないはずの人”の言葉が、風に混ざって聞こえた』


それは、かつて彼が小説に書こうとしたが、結局書かなかった言葉だった。ぞくりとする。


「この子は……マヤじゃない。でも……この心の動きだけは……覚えてる。……いや、なぜ“覚えてる”なんて言葉が出たんだ?これは……俺の中の、どんな記憶なんだ……?」


心が、先に思い出してる──そんな気がした。胸の奥に広がるその感覚は、言葉になる前の感情の海のようで、彼を深く引き込んでいく。背筋にひやりとした風が通り抜けた。


──ふたりはまだ、名前も知らずに。けれど、“心”だけが、交差していた。


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