EditoR_20 記憶と記録の裂け目
──あれは、ほんの一週間前だった。
「胃の中に腫瘍があります。今の段階での悪性所見はありません。転移があるとは限りませんが、早急に手術が必要です」
言葉は優しいのに、内容は突き刺さるようだった。部屋の空気が重くなり、時計の秒針の音がやけに大きく響いた。白い壁の塗装が乾きかけの絵具みたいに無機質で、消毒液の匂いが喉の奥に細い線を引く。医師のペン先がカルテを走るカリカリという音だけが、やけに現実的だ。
(まだ24歳なのに……)
不安と孤独が一気に押し寄せる。咲姫は椅子の背に身を沈め、握りしめたハンカチがじっとりと湿っていくのを感じた。足先だけが冷えて、靴の中で指が動かない。
「しかも、脳の画像にもわずかな影が見えます。転移とは限りませんが、精密検査が必要です」
その言葉に、耳の奥がキーンと鳴った。もし脳にまで転移していたら──その可能性が、彼女の中に「終わりのイメージ」を落とした。何かが、そこでプツンと切れた。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせても、心の奥ではずっと「死」の二文字がちらついて離れない。
(カズマ…あの人が聞いたらどう思うだろう。きっと自分の夢を投げうってでも私に寄りそうと言うはず)
……決めた。
カズマには言わない。希望を語れないなら、最初から居場所を空けておこうと。あの人は優しすぎる。だからこそ、壊れてしまう前に、私が壊さなきゃいけなかった。診察室を出ると、廊下の床がわずかにきしみ、橙の誘導灯が昼と夜の境目みたいに滲んだ。
──そして今日。
「……ごめんね、カズマくん」
咲姫はそう言って、視線を逸らした。スマホを握る指がかすかに震えている。いつもならまっすぐ見つめられたはずのカズマの瞳を、どうしても見られなかった。待ち合わせた駅ビルの吹き抜けは、休日のざわめきに満ちているのに、二人の周りだけ音が薄い。
「なんで?理由くらい聞かせてよ」
カズマの声は静かだった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、哀しさと戸惑いが滲んでいる。
「他に……好きな人ができたの」
嘘だった。そうじゃない。ただ、伝えられなかった。一瞬、カズマの目が揺れた。
「……そっか」
カズマはそれ以上は聞かなかった。
「君が無理してないといいけど」
「無理してないよ」
声が震えそうになるのを必死に抑えた。カズマは小さく頷いた。それが「納得」だったのか、「諦め」だったのか、咲姫には分からなかった。去り際、カズマは手を伸ばさず、静かに背を向けた。咲姫は背中を見つめながら、心の中で何度も叫んだ。足元の白線のひび割れが、言えなかった言葉の裂け目みたいに見える。
──行かないで、って言いたい。
──でも、言えない。
──ああ、これ……マヤが優さんと別れた時と、同じ……。
その一致に、ゾクリとする。偶然じゃない。何かが、何かが重なっている。
(自分の意思で決めたのに、何で小説と同じになるの……)
◆
病室の天井は、どこまでも白かった。灯りの反射で、まるで雲のない空を見上げているようだった。手術は無事に終わった。医師は「早期発見のおかげですね」と笑っていた。回復も順調。家族もほっとしていた。だが、その安堵は長くは続かなかった。点滴の滴下が一定の間隔で落ちるたび、未来が一拍ずつ猶予を伸ばしてくれる気がして、同時に、延長された時間の端がほどけそうで怖かった。
「術後のMRIで、脳には異常がありませんでした。なぜ影が消えたか不思議ですが、現時点では転移の可能性はありません。」
静かに告げられた言葉。
(……良かった。転移してなくて)
咲姫はその報告に安堵し、緊張の糸が切れたからか涙があふれだした。時間の感覚がぼやける中、廊下を通る足音が非現実的なリズムに変わり、ワゴンの車輪の音が交差し遠のいていった。
(あのとき……カズマくんに、ちゃんと伝えていたら)
そんな「もしも」が、今になって胸を締めつける。でも、もう遅い。あの人の優しさに触れる資格を、自分から捨てた。それでもどこかで、祈っていた。
──いつか、どこかで。もう一度だけ、会えたらいい。
◆
咲姫は、優へ病気の事を報告した。
To:You-KI(喜多邑優)
《突然のご報告ですが、私は胃の中に腫瘍が見つかりました。幸い、早期発見だったため早めに処置をすれば回復が見込まれると言われ、手術をしました。おかげさまで、術後の回復も順調です。……小説の通りになりました。》
送信ボタンを押した直後、胸の奥にこみ上げるものがあった。打っては消した下書きの文が、画面の明るさの下で、何度も生まれては消えた跡を残している気がする。
(これで、小説の通りの結末になった…マヤの呪縛から逃れられたかもしれない。『マヤの物語』から、解放された……はず)
…
優はメールの報告を読んで呟いた
「小説の通りになったか……手術、成功したんだな。でも、小説の病気は、実際とは違う。マヤは病気にはなっていない。」
(……フィクションで書いたシーンが実際に起こってしまった。)
画面に映る、咲姫からの簡潔な報告メール。優は小さく息を吐いた。胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「でも、よかった……生きていてくれて」
安堵と、同時にぬぐい切れない違和感があった。
(これで、このまま何も起きなければ、彼女も解放されるはず)
◆
──書かれていた通りに、咲姫は手術を受け、無事に生還した。まるでこの未来が、あらかじめ決まっていたかのように。けれど、咲姫はそう思った瞬間に怖くなった。
(だとしたら……マヤも、生き延びていたんじゃないの?)
優の小説には、マヤが病を克服し、奇跡のように戻ってくるエピソードが書かれていた。
──じゃあ、なぜ……彼女は死んだの?それが現実だったのなら、小説は嘘?それとも──嘘だったはずの小説が、彼女の運命を歪めた?そんなことがあるわけない。でも、どこかで感じている。咲姫は今、書かれた物語の正しさよりも、マヤが歩んだ何かのズレをなぞっているのかもしれない、と。咲姫の頬には涙が一筋流れた。その涙をぬぐうように、窓の外を眺めた。病室のブラインドの隙間が細く変わり、床に落ちた影が定規で引かれたように伸び縮みしていた。
◆
優は、自宅のパソコンの前である違和感に気づいた。leafに投稿していた『マヤの物語』のラストシーン──マヤが病を克服し、表舞台に復帰する感動的なフィナーレ。そのはずだった。
創作として、病気のシーンを書いただけだった。
(……マヤも、本当は病気だったのか?)
そう思った瞬間、優の背中にひやりとしたものが走った。小説の中では、あえてその理由を書かなかった。「彼女は嘘をついた。大切な人を遠ざけるために」とだけ、物語の中に残した。……それも創作だったはずだ。美しく、切なく、マヤを傷つけずに終わらせるための物語。
だが──現実のマヤも病気を抱えていて、それでも優に言えずに、あの夜、交差点に向かったのだとしたら?
(……もし病気を隠していたのが本当なら、なぜあの夜、彼女はあそこにいたんだ?俺は……彼女のほんとうを、知らないままだったのか)
優は、実際に起きた事を美しく昇華させて小説にし、生前に「私の物語を書いてくれる?」と言った彼女の想いに報いたい。ただそれだけだった。でも、今画面に映っているのは、まるで別の小説のようだった。
『マヤは、交差点の中央で立ち止まり、光の中に溶けていく。』
「……こんな結末、書いた覚えがない」
手が震えていた。まるで、マヤが亡くなった「あの日」が再現されるような描写だった。スクロールしていくと、見慣れないタイトルが浮かんでいる。
──ありがとう、届かなかった未来──
「違う……俺は一度、『ありがとう、書き換えられた未来』と書かされた。それを『ありがとう、ふたりで書き直す未来』に直したはずだ」
誰かが勝手に書き換えた?いや、それなら編集履歴に残るはずだ。
──何もない。まるで、最初から「それ」が正規の結末であったかのように、書き換えられていた。ルーターのランプが一瞬だけ速く点滅し、カーソルの点滅が脈拍のテンポから外れた。
◆
目覚めた時、咲姫は自分の手の中にスマホがあることに気づいた。画面には、見覚えのないストーリーの投稿履歴。GPSのログも、マップのタイムラインには、覚えのない経路が赤く残っている。
(……私、どこにいたの?)
ぼんやりと、交差点の光景が脳裏に浮かぶ。夜の街。赤信号。照らし出すヘッドライト。白線の上に立つ足の裏が、冷たい石の感触を“覚えている”。
(夢だったの?……いや、これは、記憶……)
ふと鏡を覗くと、そこに映る自分の瞳の奥に──マヤのような、光を宿した表情が浮かんでいた。
「……だれ?」
自分の声が、他人のように聞こえた。鏡に映った自分の瞳の奥に、マヤの影を見た気がした。
でも──あの時のマヤは、ほんとうに誰にも頼らなかったのだろうか。
(マヤもきっと……)
──私はきっと、もう「他人の物語」として割り切ることはできない。
◆
優は、leafにアクセスする。『マヤの物語』の最終章。
──ありがとう、ふたりで書き直す未来──
もう一度、元のテキストに戻し再投稿する。完結済みにして、再編集出来ないようにした。
(よし、これで大丈夫のはずだ。これが変わらなければ、俺のマヤに対する想いが成就する)
更新ボタンを押す。
(今のところ、大丈夫のようだ)
優は何かの気配を感じた。その直後、画面が一瞬ブラックアウトする。
「っ?!」
優の目の前で、画面が静かに書き換わっていく。
──あ がとう、ふたりで書 直す未来──
── り とう、 たり 書き 未 ──
──ありがとう、書き換えられた未来──
── がとう、 き換 ら た未 ──
──あり とう、 か った 来──
── りがとう、届か かった ──
カーソルが一拍だけ止まる。そこには、新たに更新された最終章。
──ありがとう、届かなかった未来──
『彼女は、あの日と同じ交差点に立っていた。車のライトが差し込み、時が止まる。』
優はすぐさま編集ボタンを押そうとした──しかし、編集ボタンがグレーアウトして押せなくなっていた。
(過去ログの痕跡も消えている。)
アカウントが制限されているような錯覚に陥った。そして自分がゲストユーザーのようになっている恐怖を覚えた。
(このままでは……。また「彼女」が亡くなってしまう……それだけは、絶対に……)
画面の前で、優の指が震えた。
「止めなきゃ……今度こそ……」
(だが、どうやって?)
彼はただ、祈るように画面を見つめていた。優の目には、それが記録なのか記憶なのかさえ、もう判別できなかった。電源ボタンの周りのリングが微かに熱を帯び、部屋の時計の秒針がいったん遅れてから追いつく。
──周りの景色が一瞬止まったように見えた。時計の針が、一秒だけ進まなかった気がした。そのとき、leafの画面がふっと白く光った。光が収まった時、そこにあったはずの『ふたりで書き直す未来』は、痕跡ごと消えていた。




