EditoR_02 マヤを生きる決意
……私は、変わりたい。
もうあんな事は言われたくない
『もうキミじゃなくてもいいんだよね。なんか、俺の方が変わったのかも』
その夜、咲姫は何度も何度も同じ言葉を心の中で繰り返していた。
マヤの物語かぁ。
──マヤみたいになれたら、人生……変わるのかな。
◆
次の朝。咲姫はまどろみの中で目を覚ました。
カーテン越しに差し込む光が、優しく頬を照らす。窓の外では、昨夜の雨が嘘のように澄んだ青空が広がっていた。空の青さが目にしみるほど鮮やかで、どこか現実味がなかった。部屋の天井を見つめながら、心の中に浮かぶのは、昨夜の夢の続きだった。けれど、胸の奥には、まだあの夢のざわめきが残っている。それは決して不快ではなく、どこか暖かい揺らぎとして、咲姫の内側に静かに流れていた。夢の中で見た光景が、瞼の裏に焼きついていた。
──水の中で、誰かが手を伸ばしてくる。
──あれが、未来の私?それとも・・・
あの人は、笑っていた。どこか懐かしい笑顔だった。けれど、その笑顔の奥には、なにか深い決意のようなものが宿っていた気がする。その表情が胸の奥に残っていて、今でも少し胸が熱くなる。布団の中、スマホを握りしめたまま、咲姫は決意する。
「変わるって、決めたんだから」
その言葉は、自分への小さな宣言だった。寝ぼけた声でつぶやきながら、咲姫はゆっくりと起き上がった。肩から毛布がずり落ちる音が、静かな部屋に小さく響く。
朝の光がカーテン越しに差し込む。目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めたのは、久しぶりだった。いつもは布団の中で現実から目を背けるように寝返りを打っていたけれど、今朝は違った。目覚めた時の空気が違っていた。冷たいけれど、どこか背筋が伸びるような清涼感があった。洗面台の鏡に映った自分。昨日、美容室で切ったボブヘアが、少しだけ跳ねている。まだ見慣れなくて、少し気恥ずかしい。けれど、それすらも“新しい自分”の証のようで、なんだか悪くなかった。寝癖を手ぐしでなおしながら、咲姫は鏡の中の“誰か”と目が合った気がした。
「……誰、これ……」
昨日と違う。たしかに何かが、変わりはじめている──でも…
「うん、悪くない」
つぶやく声が、少しだけ弾んでいた。その響きは、どこか前よりもしっかりと、自分の中に根を下ろしていた。かすかに頬が上がる自分の表情が、咲姫には少し新鮮に映った。化粧水と乳液を丁寧に重ねる。手のひらで顔を包み込むたび、冷たさの中に少しずつ体温が戻ってくる。その温度は、昨日までの咲姫が知らなかった“自分への優しさ”だった。ファンデーションも、動画で見た通りの順番で。スポンジをぽんぽんと軽く叩く音が、まるでリズムのように響く。
「目尻は、ほんの少し跳ね上げて……」
まゆ毛の形を整える。まぶたにうっすらブラウンをのせる。自分の顔を、少しずつ“理想のイメージ”に近づけていく作業。それは、自分にしかわからない静かな挑戦だった。
「ナチュラルに、大人っぽく」
口元には、ほんのりピンクのリップを。その色は、自分の本音をそっと包み隠してくれるようだった。指先が震えなくなったのは、きっと、昨日より少しだけ自信が持てたから。新しい自分を怖がらずに見つめることができたから。いつもより時間をかけて仕上げた顔に、咲姫はようやく笑みを浮かべる。
「……よし」
その声は、昨日よりもほんの少しだけ、大きかった。部屋の中で跳ね返るその音が、ほんのすこしだけ未来の音に聴こえた。
スマホの画面に指を滑らせると、InSTARの通知がいくつか届いていた。昨夜投稿した自撮り写真──ボブヘアの、自分。☆が思ったよりも多くついている。フォロワーも、少しだけ増えていた。画面をスクロールする指先が、ほんの少しだけ震える。その中のひとつのコメントが、咲姫の目を留めた。
『マヤちゃんかと思った。雰囲気そっくり』
胸の奥がざわついた。不意に息を呑む。画面の中のたった一文が、脈打つように鼓動を揺らす。
「マヤ……」
その名前は、昨日読んだ小説の主人公の名前。なぜか、ずっと前から知っていた気がしてならなかった。遠い昔、自分が夢見ていた誰か──そんな錯覚にさえなる。
再び、You-KIの小説『マヤの物語』を開く。咲姫の指がページをめくるたび、胸の奥の何かがじんわりと熱を帯びていく。
──小説の中のマヤは、勇気を振り絞って、ある行動に出ていた。
オーディション。
「どうしよう……」
スマホを持つ手が汗ばむ。でも、昨日の自分がもう一歩踏み出したように、小説の中のマヤはそうして生きていた。
◆
「エキストラ 募集」「読者モデル」「初心者 OK」ふと、そんなキーワードで検索している自分に気づき、苦笑する。けれど、その苦笑は少しだけ誇らしかった。検索履歴が“誰かになるための道”に変わっていることが、咲姫の中の何かを確かに変えていた。出てきた中で、ひとつだけ心に引っかかる投稿があった。
【WEB広告モデル募集】
──初心者歓迎・交通費支給・SNSアカウントで簡単エントリー可能──
まるで、今の自分のためにあるような条件。画面を見た瞬間、鼓動が早くなる。視界が少しにじむほど、緊張と興奮が入り混じる。呼ばれている気がした。応募フォームを開く。名前、年齢、趣味、SNSアカウント。ひとつひとつの項目を埋めるたび、咲姫の中の“誰でもない自分”が、少しずつ形になっていくようだった。
@maya_star──昨日作ったばかりのInSTARの別IDの名前を変える。“MAYA☆”という名前を名乗った瞬間から、どこか演じるような気持ちと、素直な自分が交錯していた。
「もう、戻れないかも……」
最後の“送信”ボタンに、迷いが残る。けれど、咲姫は目を閉じて、指を置いた。
──カチ。
…それだけで、世界が少し変わった気がした。
◆
翌日。出勤途中の電車内。向かいの座席に座っている女子高生が、咲姫をちらりと見て、スマホをいじっていた。
(もしかして、さっきの投稿、見たのかな……)
(まさかね…そんなにすぐに反応ないか…)
そんな妄想が、胸をくすぐる。これまでずっと「目立たないように」と生きてきた咲姫にとって、“誰かの視線”は、怖さと同時に、ほんの少しの快感をもたらしていた。その視線が刺すようなものではなく、触れるような温度を持っていると感じたのは、きっと初めてだった。InSTARを開く。フォロワーがまた、数人増えていた。
──「素敵な笑顔!」
──「垢抜けてる!」
──「応援してます!」
はじめて見るユーザー名から、続々と反応が来ていた。“知らない誰か”が、“今の私”を肯定してくれている──そんな不思議な体験だった。
(……うそ)
ほんの少しの投稿が、見知らぬ誰かの目に留まっている。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。世界と少しだけ繋がったような、小さな手ごたえがあった。
(……こんな私でも、変われるかな?)
◆
午後、ホテルの清掃の仕事を終えた咲姫は、控室のロッカーに腰かけていた。シャワーを浴びたあとの火照った顔が、すこしだけ誇らしい。汗をかいたことで、自分の存在が“今日という時間”に確かに刻まれているように感じた。制服姿の自分も、昨日よりほんの少しだけ自信があるように見えた。ロッカーの小さな鏡に映る自分に、ほんのわずかに口角が上がる。
You-KIのページを開く。昨日読んだ時にはなかった“短編投稿”が増えていた。
タイトル:『交差点の向こうで』
それは、まるで──自分のことを描いているかのような、短いモノローグだった。
『もし、君がそこにいたのなら。きっと僕は、何もできなかった。でも、何もできなかった自分を、何度も責めて、物語にすることでしか……』
涙がにじむ。なぜだろう。You-KIの言葉は、いつも咲姫の“いちばん深い場所”に届いてしまう。どこかで知っていた気がする。まるで、ずっと昔から、自分のことを見ていた誰かのようだった。
(この人の、小説に出てきたかった)
咲姫は知らなかった。
この夜から、現実が少しずつ書き換わっていくことを──。




