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EditoR_19 選ばれてしまった運命


──人を好きになるのは、一瞬だ。けれど、その想いを確かなものにしていくには、日々のちいさな出来事の積み重ねが必要だった。カズマとの時間は、まさにそういうものだった。その積み重ねには、派手な出来事はひとつもない。稽古場の埃、差し入れの紙コップの温度、袖に残る照明の熱──ごく小さな生活の粒が、ひびのない硝子みたいに毎日重なっていった。触れれば割れてしまいそうで、でも触れずには前に進めない。そんな脆さと確かさのあいだで、心の形が少しずつ、少しずつ整っていった。



三週間前のある日の稽古終わり、咲姫は水を飲みに舞台袖へ向かっていた。舞台の空気はまだ熱を持っていた。誰もいなくなった袖の空間には、残り香のように照明の余韻が漂っていた。そのとき、片付けをしていたカズマとふと目が合った。


「おつかれ、今日の芝居……ちょっと、よかったよ」


珍しく彼がそう言った。照れくさそうに、目をそらしながら。その一言の前に、ほんの一瞬、カズマは目を伏せた。言うべきか迷っていたような、そんな沈黙があった。沈黙の長さは一秒にも満たないのに、胸の奥では針のように長かった。袖の暗がりで、どこからか金具のこすれる微かな音がして、その音が合図のように心拍を数えた。


「……ありがとう」


そう言葉を返すまでのあいだ、彼はずっとポケットに手を入れたままだった。そしてようやく二本の缶ビールを取り出した。


「……一回だけだからな」


その「だけ」に込められた、いくつもの意味に気づくのは、もう少しあとだった。小さな劇場のロビーで、スタッフが引き上げたあと、薄暗い非常灯の下、二人並んで缶を開ける音だけが響いた。


「お疲れさま……乾杯」


カン、と缶が触れ合い、二人は静かに笑い合った。それが、咲姫とカズマが初めて二人きりで過ごした夜だった。指に触れるアルミの冷たさ。開いたタブが弧を描く音。炭酸が喉の壁を細かく叩くたび、言葉になりきれない温度が胸に灯る。非常灯の緑が缶の縁に薄く滲み、ロビーの人工芝の継ぎ目がやけに規則正しく見えた。

──バミリ。舞台の上に貼られた、立ち位置を示す目印。カズマと過ごしたその劇場の風景は、今もふとした瞬間に蘇る。笑って、少し泣いて。そんな一夜が、咲姫にとってはずっと消えない記憶になっていた。



炭酸ののど越しと、ほのかな苦み。あの時のビールの味は、どうしてこんなにもリアルに蘇るんだろう。思い出すたび、咲姫は現実と幻想の境界に立っている気がした。一緒に飲んだロビーのソファーの擦れた生地、カズマの足元に置かれた工具袋の匂い、非常灯の青白さまで、鮮やかに浮かんでくる。だけど、浮かび上がるその記憶の中に、咲姫はマヤの表情で笑っていた気がした。


(……この心のときめきは、誰のもの?)


マヤの記憶に支配されている自分を、自覚しながら抗えない。カズマのことが好きだった。けれど、その奥に「マヤ」の影を重ねてしまう自分がいた。あの頃の“私”は──恋に似た何かを、演じていたのかもしれない。彼の言葉にときめく“わたし”と、それを少し上から見下ろしている“私”がいた。


「こんな感情、マヤにもあったのかな……」


舞台の袖で一人、そう呟いた夜もあった。


(この感情は、わたしの本心からくるものだろうか……)


そう思いつつも、何かに引っ張られるようにして、二人は、人知れず付き合う事になった。MAYA☆として、少しずつ有名になっていく陰で、世間からは無名の演出助手と付き合っている。最初は、内緒で付き合っていくその感覚が、学生時代に存在を認められていない想いをした咲姫には、ある意味心地よかった。秘密には重さがある。けれど、揺り椅子みたいな優しさもある。誰も知らないものを二人だけで揺らして、夜毎静かに確かめ合う。通知音のない夜、無言で交わすスタンプ、劇場裏の自販機の前でだけ許される長い沈黙──それらが、目に見えない指輪をするように心を温めた。



スマホを持つ手が、かすかに汗ばんでいた。スクロールする指先が、その告知画像の前で止まる。


『ソラニナレ──ヒロイン募集』


大作映画のヒロインオーディション──。


その文字を見た瞬間、鼓動が跳ねた。…まさか、あの作品のリメイク。それは、マヤが一躍有名になった、あの作品だった。「マヤの物語」にもそのエピソードは、はっきりと書かれている。あの時マヤは、確かにそのオーディションに合格していた。その後大ブレイクを果たして、スター街道に乗っていき、一躍有名になっていった。スマホの画面の白はやけに冷たく、広告の小さな×印にさえ、運命の針みたいな鋭さがあった。募集要項の文字は事務的なのに、行間から生温い風が吹き込んでくる気がした。「年齢不問」「経験不問」の四文字が、こちらを値踏みする視線に読み替わる。


──事務所から来た案件ではなかった。


許可を取ったわけではなかったが、咲姫は迷った末に、エントリーフォームを開いた。エントリー期間は明日までになっていた。時間はもう、ほとんど残されていなかった。事務所には事後報告で良いと思った。


(……報告しないでも良いか。スケジュールだけNGにしておこう)


咲姫はノートパソコンを前にして、何度も名前の入力欄を見つめた。「咲姫」という文字を入力する。…私の本名──これが、MAYA☆の代わりに刻まれる名前になるのか。文字を打つたびに、心がざわついた。


(本当に送っていいの……?)


そんな思いの重さを感じながらも、咲姫は震える指で「送信」ボタンを押した。キーの軽いクリック音が部屋の壁で反射し、夜の静けさに小さな皺をつける。送信後のローディングサークルが、遅い。

遅いほどに、過去と未来の間で糸がきしむのが分かる。やがて「送信完了」の青が灯り、部屋の空気がわずかに沈んだ。



「この物語をなぞってるだけじゃ、意味がない」──そう思った。

いや、本当は落ちたかったのだ。決め打ちでさえ落ちる自分の実力では受かるわけがない。でもそれでいい。落ちたら、MAYA☆の活動もやめてしまおう。この物語から解放されたかった。マヤにはなれない、って証明したかった。もう、終わりにしたかった。誰かの代わりじゃなく、“わたし”に戻りたかった。オーディションの倍率を検索して、絶望的な数字にほっとしていた。


「……どうせ、無理だよね」


倍率は2000倍。有名な女優たちがひしめくオーディション。咲姫は、落ちることで安心したかった。

正気を保とうとしていた。「やっぱり、私じゃないんだ」って。選ばれないことでやっと演じることから解放されるような気がした。落ちたい、という願いは負け癖なんかじゃない。もう一度、素肌で風を受けたいという切実な祈りだった。誰の顔でもない顔に戻って、朝、鏡の中の名札を外したい──ただそれだけの、素直な欲求だった。



 メイクも変えて、髪型もウィッグにしてMAYA☆に見えなくする。演技も適当にこなしてしまおう。ただ受けるだけで良いんだから……。自宅を出る直前、ちょっとした頭痛と耳鳴りがした──。


──


──気づいたら自宅にいた。


「あれ?」


オーディションはとっくに終わっている時間だった。


(私、行かなかったの?)


でも、これなら絶対受かるわけがない。本当は、実力で落ちて解放されたかった。小説に抗いたかったけど……

時計は正しいのに、身体だけが時差ぼけみたいにずれている。リビングの空気は昼の匂いを保ったまま、靴の砂もそのまま──記憶のフィルムが一枚抜け落ちた音が、耳の奥でずっと鳴っていた。



結果は、あっけなく届いた。


(これで、解放される……)


通知音が鳴ったとき、なぜか胸騒ぎがした。画面を開く指が、ほんのわずかに震えていた。どうせ落選だろうと思った矢先、信じられない文字を目にした。


「……受かってる?!」


(え?何で?行かなかったのに?)


咲姫はオーディション当日の記憶が全くない。合格通知を見たとき、目の前がぐにゃりと歪んだ。スマホの画面には、オーディション主催者からの正式な通知があった。


《ご応募いただきありがとうございました。MAYA☆さんは、映画『ソラニナレ』のヒロインに選ばれました》


そこには、見慣れた名前──「MAYA☆」の文字。


「え……何で、MAYA☆になっているの?」


思わず声に出してしまった。スクロールしても、何度読み返しても、そこにあったのは咲姫じゃなかった。私が入力した名前じゃない。私が隠そうとした存在、それが選ばれていた。呼吸が浅くなる。胸の奥に冷たい風が吹いた。もう1回見直してみた。絶対見間違いのはずだ。


──MAYA☆の名前がうなずくように光って見えた。


MAYA☆で受かってる……。本来ならばうれしいはずなのに、心がざわつく。喉の奥がひりつくように乾いていた。


「これで、もう抜け出せない。」


そんな声が、頭の奥で響いていた。やっぱり私は……マヤの影をなぞるしかないの?涙も出なかった。ただただ、心の奥がひんやりしていた。


「やっぱり、わたしじゃないんだ」


正しすぎる現実が、網膜から体内へゆっくり侵入してくる。誰かの物語の続きに、勝手に乗せられていた。



優は、咲姫の知らせを知るより前に、「マヤの物語」の次章を書き進めていた。なぜだろう。行間から立ち昇る熱が、まるで舞台袖から差し込むライトのように感じられた。……誰かがそこに立ち、あの役を演じている気配が、確かにあった。


「性能を全開にした演技」──。


誰にも書けるはずがない。マヤを知らなければ。けれど、それが現実に呼応するように現れた。


──現実が物語を超えているのか。

──物語が現実を引きずっているのか。


優は画面を閉じられなかった。そして、気づいたら最終話の副題を変えていた。



 優の指は止まらなかった。まるで書かされているように、次の章が生まれていく。書き終えたタイトルを見て、彼自身が息をのんだ。


──ありがとう、書き換えられた未来──


何かが乗り移ったように、手が勝手に打ち込んでいった。止めようしても止まらなかった。まるで、誰かに乗り移られた自動書記のようだった。朦朧とする意識の中で、優はつぷやいた


「……そんな言葉、書くつもりはなかったはずなのに。」


未来が変わったのか、変えられてしまったのか。混濁する優の心に、言いようのない戦慄が走っていた。このときはまだ──その意味に、誰も気づいていなかった。



咲姫は、鏡の中の自分を見つめた。ウィッグを外し、素顔に戻っても、そこには誰かを演じる自分がいた。


(私はわたしで、ここに立ちたい)


そう願いながらも、足元にはまだ、マヤの影がついてくる。だけど……それでも、わたしはこの場所に立つ。誰かのためでもなく、物語のためでもなく、わたし自身のために。

わたしはマヤじゃない。でも──誰かの記憶をひとひら、手のひらに乗せたまま、この世界に立ってみせる。そこに降り注ぐ光は、誰かの残した、最後の祈りのようだった。名前も顔も全部違っても、今だけはこの舞台で私を演じてみせる。選ばれてしまったなら、選び直してみせる。

──例えそれが、物語の続きだったとしても。


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