EditoR_18 すれ違う愛と嘘
──その笑顔は、誰のものだったのだろう。
「これ……本当に、私なの?」
鏡の中で、メイクを落とした自分を見つめながら、咲姫はぽつりとつぶやいた。化粧水をコットンに含ませてそっと肌をなでる。その下から現れるのは、見慣れない誰かの顔だった。MAYA☆としての活動が始まって以来、咲姫の生活はまるで回転するステージのように、めまぐるしく変わっていく。その毎日は、眩しいほど光り輝いていた。テレビの収録、雑誌の取材、ドラマの撮影、そして新たに始まる音楽番組のMC。どれも、かつて「マヤ」が踏み損ねたかもしれない道だ。咲姫は、それを「自分の意志で選んだ」と思っていた。いや、思いたかった。
鏡台の白熱灯がジジ、と微かに鳴る。落ちかけのフィラメントの匂いが鼻の内側に刺さる。リムーバーに濡れた綿棒が、下まぶたの黒をひと筋だけ連れ去って、洗面ボウルに小さな軌跡を残す。肩にかけたガウンは収録スタジオの空調の匂いを微かにまとい、袖口のきらめきが蛍光の緑を跳ね返した。
「ありがとう、MAYA☆さん。今回の楽曲、最高でした!」
控室でスタッフが深々と頭を下げる。マネージャーが咲姫を呼ぶ声がした。
「MAYA☆さん、次の現場へ移動です!」
彼女は小さく頭を下げて、その場を後にした。
──SNSの総フォロワー数は17万人から一気に30万人を超え、トレンドには毎週のように名前が上がる。トーク番組での受け答えにも慣れ、バラエティでも笑顔で天使のリアクションと称されるようになった。最近ではスタジオからの帰り道、街中で声をかけられ、サインを求められる。誰からも注目されなかった学生時代の自分が嘘みたいだった。でも、ふと気づくと──胸の奥に小さな空洞がある。
(あの頃の私は、ただ誰かの真似なんかしてなかった)
『今日もマヤに似てるね』
『まるで生き写しだよ」
『本物のマヤが戻ってきたみたい』
──そんな言葉が、どれほど私をわたしじゃなくするのか、誰も知らない。
移動車の窓に映った自分の顔を、咲姫はじっと見つめていた。メイクは完璧。髪型もプロの手によって整えられている。でも、その奥にある“何か”は、少しずつ擦り切れていくようだった。
「……私って、本当に、わたしなんだっけ」
つぶやいたその声に、誰も答える者はいなかった。まるで、台本に書かれている役を演じているだけの気がする。
You-KIの小説──『マヤの物語』に書かれていた出来事が、現実に反映されていくあの奇妙な現象。それはもう、偶然でも気のせいでもない。事実、彼が最近ネットに投稿した「マヤの物語」の中には、咲姫が経験していないはずの出来事が描かれていた。
──恋人との別れ。
──マヤの病気の発覚。
──手術の成功。
そのどれもが、これから起きる予兆のように、現実へと浸食してきていた。そしてなにより、咲姫が最も恐れていたのは──
『その先の未来』だった。
──収録帰りの通路で、床の目地が一段だけ深く見える。踏み外しかけたヒールがゴムの音を鳴らし、持ち直した体の重みが自分のものではないように感じられる。壁の防音材に触れると、柔らかさだけがやけに現実的で、心の内側の空洞を露呈させた。
◆
「また、あの顔だ……」
優はテレビ画面を見つめていた。そこには、笑顔で歌うMAYA☆。だが優の目には、そこにマヤの影が重なって見えていた。あの頃、彼女が心を隠して見せていた、あの笑顔。
(……あいつと同じだ)
マヤと、彼女の表情が重なる。
──演じてる。無理に笑って、求められたイメージを完璧にこなす。そんな姿が、胸を刺した。
(また、同じことを繰り返している…MAYA☆…疲れた表情をしてる……マヤを演じさせてしまっているのは、俺かもしれない。でも、なぜこんな事が起きるんだ)
小説には書けなかった……疲れてる顔なんて。マヤが演じる事に疲れ果てていたという、そんな現実、物語には載せたくなかった。マヤを救うつもりだった。フィクションの中で、彼女に幸せな終わりを与えるはずだった。だが今、物語は、勝手に動き出している──。
マグカップの縁に乾いたコーヒーの跡がこびりつき、そこだけ時間が止まっている。テレビ画面の向こうの歓声と、部屋の静けさの落差が耳の内側で反響して、言葉にならない後悔だけが、優の心の中に積もっていった。
◆
「じゃあ、始めましょうか」
次の現場は、恋愛ドラマの撮影だった。主演の相手役は、今をときめく若手俳優・白鳥恭介。
「よろしくね、MAYA☆ちゃん」
彼の人懐っこい笑顔に、咲姫は曖昧に笑って返した。現場には、かつてマヤが辞退したオーディションの時と同じプロデューサーがいた。
──偶然だろうか。それとも、何かの帳尻合わせ?台本に書かれたセリフをしゃべるうちに、咲姫はふと、感情を失っていく自分に気づいた。
「好きだよ、ずっと前から」
カメラの前でそう囁かれた瞬間。彼女の脳裏には、優の顔が浮かんでいた。
(ごめん……こんなセリフ、誰に向けて言えばいいのか、わからないよ)
カチン、とスレートの音。照明の熱が頬を焼く。ケーブルに足を取らないよう印のテープに沿って進むたび、身体の重心が他人の図面の上を滑っている錯覚に襲われた。モニターの横で赤いランプが点滅し、演出の「OK」が出ても、胸の奥で誰かが小さく首を振っていた。
◆
優は、自分の小説の最終章を開いた。まだ公開していない終わりの章。だが、そこには見覚えのない文章が増えていた。
『マヤは、夜の番組の楽屋で泣いていた。誰の夢の中に生きているのか、もう分からなかった──』
「……またか、こんなの書いてないのに」
保存日時は、記憶にない深夜3時44分。ファイルは上書きされていた。震える指先で、優はマウスを握り直す。
(いや、待て。これ……俺が書いたのか?3時44分…覚えていない。)
画面の下でタスクバーの時計が一瞬だけ逆流し、すぐに整う。カーソルの点滅が脈拍とズレて、背骨に冷たい汗が一本、線を引く。ノイズ交じりの息遣いがスピーカーの中から漏れた気がして、音量を下げても沈黙は戻らなかった。
◆
咲姫は夢を見ていた。深く、果てしない闇。その中に、ポツンと浮かぶ劇場。舞台には誰もいない。観客席も空っぽだ。ただひとつ、天井から差し込むスポットライトだけが、咲姫を照らしていた。何を演じればいいのか、誰を演じればいいのか──わからない。
『演じて』
誰かが囁いた。
(誰か、見てる……?)
舞台の上で、彼女はゆっくりとぎこちなく踊り始める。誰に教わったわけでもないステップを踏み、音もない音楽に合わせて舞う。笑い、泣き、走り、叫ぶ。そして、光の中心で足を止めた時。
『……君は、マヤじゃない』
背後から、静かな声が響いた。
『なのに、どうしてその彼女の嘘まで引き受けるの?』
はっとして振り向くが、そこには誰もいなかった。暗がりの客席に見えない瞬きの気配がいくつも生まれては消え、スポットの埃だけが確かな軌跡を描いていた。
◆
次の日の撮影スタジオ。照明の熱と湿気で満ちた空間。リハーサル中、咲姫は急に目の前が歪むのを感じ、ふと目の前が暗くなった。軽いめまいと、頭の奥の鈍い痛み。足元がふらつき、思わず壁に手をついた。
「カット! MAYA☆ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ」
スタッフの声が遠くに聞こえる。
「すみません……ちょっと、立ちくらみして……」
笑ってごまかしたが、内心はざわついていた。咲姫はふらりとその場にしゃがみ込んだ。
「休憩させてください……」
手渡されたペットボトルのキャップを開けようとしたが、手が震えてうまくいかない。
(マヤも……こんな時期に、体調を崩したんじゃなかったっけ……?)
「今日のシーンのリハはここまで。続きはまた明日で」
その日の撮影は終了し、咲姫は帰宅した。洗面所の鏡の前に立つ。自分の顔をじっと見つめた。
「病気って……そんなの、ただの物語の嘘だよね」
頬を一筋、涙がこぼれた。辛い気持ちを払うようにうがいをしたとき、咲姫は凍りついた。唾液に、微かに血が混じっていたのだ。
(まさか……本当に病気、だなんて……)
いや違う。マヤが「他に好きな人ができた」と嘘をついた物語のあのシーン。それは、病気を隠すための別れだった。「その嘘を──自分は今、なぞっているの?」ふと咲姫はそう思った。
◆
「……何これ……」
優は自室のパソコンの前で、深く息を吐いた。いつの間にか、小説の草稿に見覚えのない章が追加されていた。
【ありがとう、書き換わった未来】──そんなファイル名のまま保存されていたデータ。
(そんなタイトルの章、俺は……つけてない。誰がこんなものを)
スクロールすると、こう記されていた。
『MAYA☆は、夜の番組の楽屋で泣いていた。誰の夢の中に生きているのか、もう分からなかった──MAYA☆は、マヤ本人の記憶を思い出し始めていた』
(なぜ、MAYA☆が登場する。)
「これは、マヤの物語だ。」
保存日時を見てみると、今日の昼過ぎだった。
(この時間は、出勤していたはず……)
画面を見つめたまま、優は動けなかった。自分の書いたはずの物語が、自分の知らない方向へ進んでいる。
──書いていない。それなのに、ここにある。優のパソコンに、見覚えのない通知が届く。
【書き変えられた未来、保存完了。#0419】
優は思わず立ち上がる
「誰かが……未来を保存してる?」
背後の本棚で古いファイルがきしみ、天井の換気口が短く息を吐いた。
◆
その頃。咲姫のスマホにも、同じ通知が届いていた。
【書き換えられた未来、保存完了 #0419】
(何これ?…書き換わった未来?)
見知らぬアプリ。通知の差出人も不明。
(……書き換える事が出来るとしたら、誰が、私の未来を書き換えてるの……?)
スマホを置き、ゆっくりと顔を上げる。そこには、鏡の中で咲姫を見つめ返す誰かがいた。
(……自分?それとも、マヤ?)
──泣いていた。ぽたぽたと涙を流しながら、咲姫はこう呟いた。
「自分のせいで、また……彼女を殺してしまうの?」
その言葉の意味を、咲姫自身も理解できなかった。ただ、涙は止まらなかった。そして、誰かの声が──いや、その彼女の声が頭のどこかで囁いていた。
『わたしのぶんまで、生きて』
部屋の明かりが、一瞬だけ赤く明滅した。まるで、新たな書き換えの開始を告げるキューランプのように。その刹那、外廊下を誰かが走り抜ける足音がして、すぐに消えた。窓の外の街灯が二度瞬き、カーテンの裾が風もないのにわずかに持ち上がる。空気の温度が一度だけ下がり、肌の上で鳥肌が駆け抜けた。
──これはまだ終わりじゃない。むしろ、すべてはここから始まっていくという予兆のようだった。




