EditoR_17 光と闇の間で
──静まり返った舞台の上。すべてのシーンが終わり、余韻を引きずるようにして、客席から拍手が鳴り響いていた。幕が下りてもなお、会場には興奮と感動が充満していた。
咲姫──いや、MAYA☆としての彼女は、その拍手の海に包まれながら、静かに深呼吸をした。ほんの少し前まで、「マヤを演じる」ということに自分の存在すら見失いかけていたのに、今、こうして舞台の中央に立っている彼女は、まぎれもなく自分だった。ライトの熱気がほとんど消えかけた舞台袖。照明が落ち、静寂が訪れる直前、彼女の胸の奥では何かが確かに震えていた。舞台袖では、次のカーテンコールのタイミングを計るスタッフのささやきが飛び交っていた。
「あと20秒……ライト落とすぞ」
「OK、次の音キュー、準備完了」
背後で幕が揺れる。カーテンコールの時間が近づいている。共演者たちと手をつなぎながら、咲姫は一度だけ客席を見た。そこに、優の姿があった。遠く、目立たぬ位置に。だが彼は、拍手をしながらも目を伏せていた。目が合うことは、一度もなかった。
──終わった。
だけど、何かが始まってしまった気がする。そんな感覚が、舞台を降りた彼女の胸に、静かに沈んでいった。
◆
楽屋に戻ると、演出助手のカズマが立っていた。
「……MAYA☆さん。お疲れさま」
控えめな拍手とともに、差し出されたペットボトル。それを受け取りながら、咲姫は軽く頭を下げた。指先に触れる冷たさが、ようやく気持ちを落ち着かせる。
「……ほんとうに、いい舞台だったよ」
「ありがとうございます……」
一拍置いて、カズマは言った。
「マヤじゃなくて、君自身の表現だった。ちゃんと、自分の声で叫んでたよ」
その言葉は、なぜかくすぐったくて、そして痛かった。舞台は成功した。観客も喜んでくれた。演出家も満足していた。でも、彼の目には、まだ過去の誰か──マヤの影があるように感じてしまう。鏡前に置かれた紙コップの水面が、彼の言葉の間にわずかに震えた。
「……私、ちゃんと……演じられてたでしょうか」
問いかけた声が、思っていたよりも弱かった。カズマは何も言わず、静かに頷いた。その沈黙が、答えだった。沈黙のあと、彼は少しだけ視線を外して言った。
「でも……あのシーン、最後の手紙を読むところ、あれは台本になかったよね」
「……はい」
「アドリブだったの?」
「…マヤだったら、あのとき手紙を読むはずだった。そう思ったんです。だけど、あれを書いたのは私で、読んだのも、私です」
彼は小さく目を見開いた。
「……じゃあ、それは……」
「私からマヤへの手紙、でもあのときは、マヤとして読んでいた気もして。……わからなくなっちゃって」
「いいじゃないか。どっちでも。君が、選んだ言葉だったなら。相手役は少しびっくりしていたけど、それが逆にリアルになった。舞台は千穐楽に向けて育てていくもの。それを自分の意志でやれた。俺はそう思う。」
その言葉に、咲姫はふと顔を上げた。カズマの目には、曇りがなかった。
「……もう君のことを誰かと重ねたりはしないよ」
「……ありがとう」
ようやく、咲姫は言えた。心の底からの、感謝の言葉を。この瞬間、マヤの影から少しだけ自由になれた気がした──。
カズマが出て行った後、楽屋の鏡の前にひとり残った咲姫は、しばらく無言のまま自分の姿を見つめた。ステージメイクが少しだけ滲んでいる。頬に手を当てると、指先に冷たい感触──それが涙だったことに気づくまで、しばらくかかった。鏡面のライトが一つだけチリッと鳴り、消えたフィラメントの匂いがかすかに漂う。
◆
一方、優は舞台の成功を見届けながらも、楽屋へは向かわなかった。花束も持っていなかったし、かけるべき言葉も見つからなかった。彼の中で、何かが壊れ始めていた。
「また、俺は……彼女の人生に介入してしまったんだろうか」
──これは、小説じゃない。現実だ。だけど、書いたことが現実になるという異様な連動に慣れてしまった彼は、逆に書かなかったことが、現実から弾かれるような違和感を感じていた。そして、その不気味な余白こそが、今の咲姫にとって最も危険な空白なのではないかと、薄々気づいていた。
優はふと、スマホを取り出して舞台の写真を見た。投稿されたばかりのMAYA☆のSNS──そこには、まさにマヤの最期と重なるような写真と言葉が並んでいた。
「彼女は、俺が書いた“物語”を、超えてきている……」
思わず、画面を閉じる。指先に残った微かな振動だけが、決意と迷いの境を知らせた。
◆
舞台の記念にと、咲姫はInSTARに投稿を上げた。
『たくさんの拍手をありがとうございました。……応援してくれたみんなにありがとうを。』
それは、心からの感謝だった。演技も、自分の想いも、ようやく観客に届いた気がしていた。すぐにたくさんの☆がつく。しかしその数分後、非公開アカウントから、ひとつのDMが届いた。
《それ、マヤのラストの投稿と同じ言葉だね》
一瞬、鼓動が止まりかけた。DMの送り主の名前が「見覚えのある文字列の並び」だったが、すぐに削除されてしまった──慌ててマヤの旧アカウントを検索する。かろうじてアーカイブされていた記録をたどると、確かに、そこには同じ言葉が書かれていた。
『……ありがとうを。』
今のは誰?どうして……誰かが、見ている──その確信めいたものが、背筋を凍らせた。咲姫はスマホを握りしめたまま、立ち尽くした。まるで、自分の心までトレースされているかのような感覚に覆われながら。画面の隅で時計の秒がひとつ飛び、通知の赤が一瞬だけ二重に滲んだ。
◆
その頃、優は自宅であるファイルを開いていた。
【0415_extract.txt】
数日前に保存されていた、自身の小説の草稿ファイル。だが、開いた瞬間に戦慄する。
『マヤは、嘘の病を理由に、恋人に別れを告げた。』
この記述……自分で書いた覚えが、ない。いや、部分的には書いた。だがここまで明確に嘘だとは表現していなかったはず。そして、次の行には、もっと恐ろしい記述があった。
『彼女は、病気などではなかった。ただ……運命を変えたかっただけ』
(これは誰が書いた?いや、何が、書いた?)
指先が冷える。頭の中で、マヤの顔がよぎった。
──まさか、これが……“彼女の意志”?
(何を知らせようとしているんだ…)
パソコンの冷却ファンが急に音を上げ、画面の光が呼吸するみたいに明滅した。
◆
舞台の終演から数日。咲姫はひとり、街中を歩いていた。特に用もないのに、舞台の余韻に浸るかのように、劇場近くの広場へ足を運んでしまう。そこは、マヤがかつてCM撮影で使われた場所でもあった。今も観光客が写真を撮り合っている。そのなかで、ひとりの撮影スタッフが声をかけてきた。
「すみません!よければ少しだけ、インタビューよろしいですか?」
「えっ……?」
「都内で活躍されているインフルエンサーさんに、インタビューしてまして……あの、MAYA☆さん、ですよね?」
一瞬、咲姫の中でざわつく感情が湧き上がった。取材。マヤなら、受けたであろう取材。でも──
「……ごめんなさい、今日はいいですか」
静かに断り、その場を離れる。その後ろ姿は、どこかマヤの影をなぞっているようだった。
──だけど。これは自分の意志。
「私は……わたしを生きる。」
心の中で、誰にも聞こえないように、咲姫は呟いた。
◆
その夜──優はパソコンに向かっていた。続きの話を書くために、ファイルを立ち上げようとしたとき、突如ポップアップが表示される。
【ファイルにアクセス権限がありません】
……そんなはずはない。何度かリトライを試みるが、反応しない。だが次の瞬間、画面が一瞬暗転したあと、勝手に文章が打ち込まれていく。
『……K…J...#@?** ……』
『かのjy……』
『彼女は……』
『彼女は、“びょうき”をりy……』
『彼女は、“病気”を理由にわk……』
『彼女は、“病気”を理由に別れを選んだ』
『だが……』
『だがそれh……』
『だがそれは、真実ではない』
——
——
——
画面が止まった。呼吸が詰まり、指先から熱が引いていく──誰かが、いや、何かが、続きを書いている。
(俺が書きたいことと違う……)
優は、もう一度だけ呟いた。
「……これで、はっきりした……もう、俺の物語じゃない。」
──思い通りにならないもどかしさを感じながら、優の心に、ある種の決意が芽生えた。
(これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない……)
椅子のキャスターが小さくきしみ、部屋の空気が一段重くなる。鏡面の端がわずかに曇り、その曇りが誰かの指で文字になりかけて、消えた。
◆
夜更け、咲姫は眠りに落ちる直前、胸の中央に小さな灯りがともるのを感じた。それは祝祭の光ではない。慰めでもない。ただ、名前のないほのかな光。そこに手を当てると、手のひらの鼓動と胸の鼓動が、やっと同期したように感じた。「借りもの」の呼吸ではない、初めて一緒になったようなテンポ──。
彼女は薄く笑って、目を閉じた。




