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EditoR_17 光と闇の間で


──静まり返った舞台の上。すべてのシーンが終わり、余韻を引きずるようにして、客席から拍手が鳴り響いていた。幕が下りてもなお、会場には興奮と感動が充満していた。

咲姫──いや、MAYA☆としての彼女は、その拍手の海に包まれながら、静かに深呼吸をした。ほんの少し前まで、「マヤを演じる」ということに自分の存在すら見失いかけていたのに、今、こうして舞台の中央に立っている彼女は、まぎれもなく自分だった。ライトの熱気がほとんど消えかけた舞台袖。照明が落ち、静寂が訪れる直前、彼女の胸の奥では何かが確かに震えていた。舞台袖では、次のカーテンコールのタイミングを計るスタッフのささやきが飛び交っていた。


「あと20秒……ライト落とすぞ」

「OK、次の音キュー、準備完了」


背後で幕が揺れる。カーテンコールの時間が近づいている。共演者たちと手をつなぎながら、咲姫は一度だけ客席を見た。そこに、優の姿があった。遠く、目立たぬ位置に。だが彼は、拍手をしながらも目を伏せていた。目が合うことは、一度もなかった。


──終わった。


だけど、何かが始まってしまった気がする。そんな感覚が、舞台を降りた彼女の胸に、静かに沈んでいった。



楽屋に戻ると、演出助手のカズマが立っていた。


「……MAYA☆さん。お疲れさま」


控えめな拍手とともに、差し出されたペットボトル。それを受け取りながら、咲姫は軽く頭を下げた。指先に触れる冷たさが、ようやく気持ちを落ち着かせる。


「……ほんとうに、いい舞台だったよ」

「ありがとうございます……」


一拍置いて、カズマは言った。


「マヤじゃなくて、君自身の表現だった。ちゃんと、自分の声で叫んでたよ」


その言葉は、なぜかくすぐったくて、そして痛かった。舞台は成功した。観客も喜んでくれた。演出家も満足していた。でも、彼の目には、まだ過去の誰か──マヤの影があるように感じてしまう。鏡前に置かれた紙コップの水面が、彼の言葉の間にわずかに震えた。


「……私、ちゃんと……演じられてたでしょうか」


問いかけた声が、思っていたよりも弱かった。カズマは何も言わず、静かに頷いた。その沈黙が、答えだった。沈黙のあと、彼は少しだけ視線を外して言った。


「でも……あのシーン、最後の手紙を読むところ、あれは台本になかったよね」

「……はい」

「アドリブだったの?」

「…マヤだったら、あのとき手紙を読むはずだった。そう思ったんです。だけど、あれを書いたのは私で、読んだのも、私です」


彼は小さく目を見開いた。


「……じゃあ、それは……」

「私からマヤへの手紙、でもあのときは、マヤとして読んでいた気もして。……わからなくなっちゃって」

「いいじゃないか。どっちでも。君が、選んだ言葉だったなら。相手役は少しびっくりしていたけど、それが逆にリアルになった。舞台は千穐楽に向けて育てていくもの。それを自分の意志でやれた。俺はそう思う。」


その言葉に、咲姫はふと顔を上げた。カズマの目には、曇りがなかった。


「……もう君のことを誰かと重ねたりはしないよ」

「……ありがとう」


ようやく、咲姫は言えた。心の底からの、感謝の言葉を。この瞬間、マヤの影から少しだけ自由になれた気がした──。

カズマが出て行った後、楽屋の鏡の前にひとり残った咲姫は、しばらく無言のまま自分の姿を見つめた。ステージメイクが少しだけ滲んでいる。頬に手を当てると、指先に冷たい感触──それが涙だったことに気づくまで、しばらくかかった。鏡面のライトが一つだけチリッと鳴り、消えたフィラメントの匂いがかすかに漂う。



一方、優は舞台の成功を見届けながらも、楽屋へは向かわなかった。花束も持っていなかったし、かけるべき言葉も見つからなかった。彼の中で、何かが壊れ始めていた。


「また、俺は……彼女の人生に介入してしまったんだろうか」


──これは、小説じゃない。現実だ。だけど、書いたことが現実になるという異様な連動に慣れてしまった彼は、逆に書かなかったことが、現実から弾かれるような違和感を感じていた。そして、その不気味な余白こそが、今の咲姫にとって最も危険な空白なのではないかと、薄々気づいていた。

優はふと、スマホを取り出して舞台の写真を見た。投稿されたばかりのMAYA☆のSNS──そこには、まさにマヤの最期と重なるような写真と言葉が並んでいた。


「彼女は、俺が書いた“物語”を、超えてきている……」


思わず、画面を閉じる。指先に残った微かな振動だけが、決意と迷いの境を知らせた。



舞台の記念にと、咲姫はInSTARに投稿を上げた。


『たくさんの拍手をありがとうございました。……応援してくれたみんなにありがとうを。』


それは、心からの感謝だった。演技も、自分の想いも、ようやく観客に届いた気がしていた。すぐにたくさんの☆がつく。しかしその数分後、非公開アカウントから、ひとつのDMが届いた。


《それ、マヤのラストの投稿と同じ言葉だね》


一瞬、鼓動が止まりかけた。DMの送り主の名前が「見覚えのある文字列の並び」だったが、すぐに削除されてしまった──慌ててマヤの旧アカウントを検索する。かろうじてアーカイブされていた記録をたどると、確かに、そこには同じ言葉が書かれていた。


『……ありがとうを。』


今のは誰?どうして……誰かが、見ている──その確信めいたものが、背筋を凍らせた。咲姫はスマホを握りしめたまま、立ち尽くした。まるで、自分の心までトレースされているかのような感覚に覆われながら。画面の隅で時計の秒がひとつ飛び、通知の赤が一瞬だけ二重に滲んだ。



その頃、優は自宅であるファイルを開いていた。


【0415_extract.txt】


数日前に保存されていた、自身の小説の草稿ファイル。だが、開いた瞬間に戦慄する。


『マヤは、嘘の病を理由に、恋人に別れを告げた。』


この記述……自分で書いた覚えが、ない。いや、部分的には書いた。だがここまで明確に嘘だとは表現していなかったはず。そして、次の行には、もっと恐ろしい記述があった。


『彼女は、病気などではなかった。ただ……運命を変えたかっただけ』


(これは誰が書いた?いや、何が、書いた?)


指先が冷える。頭の中で、マヤの顔がよぎった。

──まさか、これが……“彼女の意志”?


(何を知らせようとしているんだ…)


パソコンの冷却ファンが急に音を上げ、画面の光が呼吸するみたいに明滅した。



舞台の終演から数日。咲姫はひとり、街中を歩いていた。特に用もないのに、舞台の余韻に浸るかのように、劇場近くの広場へ足を運んでしまう。そこは、マヤがかつてCM撮影で使われた場所でもあった。今も観光客が写真を撮り合っている。そのなかで、ひとりの撮影スタッフが声をかけてきた。


「すみません!よければ少しだけ、インタビューよろしいですか?」

「えっ……?」

「都内で活躍されているインフルエンサーさんに、インタビューしてまして……あの、MAYA☆さん、ですよね?」


一瞬、咲姫の中でざわつく感情が湧き上がった。取材。マヤなら、受けたであろう取材。でも──


「……ごめんなさい、今日はいいですか」


静かに断り、その場を離れる。その後ろ姿は、どこかマヤの影をなぞっているようだった。


──だけど。これは自分の意志。


「私は……わたしを生きる。」


心の中で、誰にも聞こえないように、咲姫は呟いた。



その夜──優はパソコンに向かっていた。続きの話を書くために、ファイルを立ち上げようとしたとき、突如ポップアップが表示される。


【ファイルにアクセス権限がありません】


……そんなはずはない。何度かリトライを試みるが、反応しない。だが次の瞬間、画面が一瞬暗転したあと、勝手に文章が打ち込まれていく。


『……K…J...#@?** ……』

『かのjy……』

『彼女は……』

『彼女は、“びょうき”をりy……』

『彼女は、“病気”を理由にわk……』

『彼女は、“病気”を理由に別れを選んだ』

『だが……』

『だがそれh……』

『だがそれは、真実ではない』

——

——

——


画面が止まった。呼吸が詰まり、指先から熱が引いていく──誰かが、いや、何かが、続きを書いている。


(俺が書きたいことと違う……)


優は、もう一度だけ呟いた。


「……これで、はっきりした……もう、俺の物語じゃない。」


──思い通りにならないもどかしさを感じながら、優の心に、ある種の決意が芽生えた。


(これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない……)


椅子のキャスターが小さくきしみ、部屋の空気が一段重くなる。鏡面の端がわずかに曇り、その曇りが誰かの指で文字になりかけて、消えた。



夜更け、咲姫は眠りに落ちる直前、胸の中央に小さな灯りがともるのを感じた。それは祝祭の光ではない。慰めでもない。ただ、名前のないほのかな光。そこに手を当てると、手のひらの鼓動と胸の鼓動が、やっと同期したように感じた。「借りもの」の呼吸ではない、初めて一緒になったようなテンポ──。

彼女は薄く笑って、目を閉じた。


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