EditoR_16 書かれていない未来の代償
それは、稽古の終わり際だった。舞台の演出家が、ふいに咲姫の方を振り返った。
「MAYA☆さん、ちょっといいかな」
その声に、彼女の心臓が跳ねた。いつもなら簡単な感想やアドバイスがあるだけだが、この日は空気が違っていた。
「……はい」
舞台の袖へと連れていかれると、そこにはマネージャーも立っていた。手帳の角が擦り減り、開かれたスケジュール欄にびっしりと鉛筆の跡が走っていた。
「突然だけど、映画の主演オーディション、興味あるかな?」
咲姫は一瞬、耳を疑った。
(映画?主演??自分に???)
「え……それって……」
「プロデューサーがね、稽古を何度か観てて。今日の演技で決めたらしいよ」
心の中で何かがざわめいた。これは……『マヤの物語』に、書かれていない。初めてだった。すべてが“小説通り”に進んできたこの現実で、書かれていない何かが、自分の目の前に差し出された。
(もしかして……これは私自身の物語、なのかもしれない)
咲姫の胸に、初めて希望が芽生えた瞬間だった。夢を見ることすら、忘れていたのかもしれない。ただ目の前の毎日を、「マヤの物語」通りに生きていた。最初はそれでも良かった。でも、あまりにも偶然が重なる現実を、ある時から必然だと思っていた。でも、違うんだ。あり得ない確率の偶然に過ぎなかったんだ──そう自分に言い聞かせていた。
その日──夢のほうから、自分に近づいてきたような気がした。それは、自分で描いた夢じゃない。けれど、確かに“自分の未来”だった。稽古場の蛍光灯が静かに明滅し、誰かの拍手が遠くで響いた。指先が温度を取り戻す。喉の奥で乾いた息が転がり、ゆっくりと形作った。いつもは誰かのリズムに合わせていた呼吸が、このときばかりは自分のリズムに合っていた。薄い汗がうなじを伝い、衣装の襟がすこしだけ重くなる。自分の歩いてきた道が、ようやく“誰かの轍”ではなくなっていく気がした。思えば、自分の人生で「自分で選ぶ」という瞬間が、これまでどれほどあっただろうか。
自分の心臓の音が、急に現実の音として聞こえてくる。重力を感じて、自分を中心に世界が回り始めたような錯覚。こんなふうに未来が開ける感覚を、どれだけ欲していたか……そんな思いが、じわじわと涙腺を刺激していた。咲姫はこっそりと息を吸い込み、気づかれないように小さく拳を握りしめた。それは、小さな決意の証だった。
◆
「主演の話……?」
その報せを受けた優は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……マヤにも、あったんだ。同じ話が」
当時はそこまで大きなプロジェクトではなかった。それでも、舞台女優として注目されはじめた彼女にとって、チャンスには違いなかった。だがマヤは、何も言わずに辞退した。スケジュールの問題?体調?他の仕事との兼ね合い?どれも違った。マヤは、ただひとこと言っていた。
『オーディション、受けない方がいい気がする』
その直感だけで、未来を手放した。優はそのときのことを、ずっと理解できずにいた。辞退の報告を聞いたとき、優は怒りにも似た感情を抱いた。なぜ逃げる?目の前のチャンスを、なぜ掴まない?彼女は、すでに“何か”を感じていた。その先に待つものが、ただの夢ではないことを。たとえばそれが、終わらせるための夢だったなら。それが、自分ではない“何者か”によって運命を塗り替えられてしまう「ステージ」であると、本能が察していたのだろうか。
◆
今回の映画主演オーディションには、裏の“前提”があった。クライアントや出資者への建前として、形式上はオーディションを実施する。だが、内部ではすでに主演は、MAYA☆で内定済み。
所謂、決め打ちである。演出家も、マネージャーも、制作スタッフも、それを知っていた。
なぜなら、プロデューサーがすでに「この子でいく」と宣言していたからだ。そのための形式としてのオーディション。本来なら、予定調和のはずだった。台本には「オーディションの演技シーン」すら用意されており、それを通過すれば、撮影日程の説明に入る段取りになっていた。周囲は皆、この流れを当然として受け止めていた。その確信は、油断にも似た安心感を生み出していた。
控室の冷蔵庫が低く唸り、紙コップが薄く指に貼り付く。機材ケースの金具がぶつかり合う金属音が、同じ高さで繰り返される。「予定通り」の世界は、音までも既に決められているようだった。
◆
オーディション当日。咲姫は、いつも通りのスタイルで、控室に入った。しかし、足を踏み入れた瞬間、どこか違う空気が流れているように感じた。だが、ほんの少しだけ、心の奥にざらついた違和感が残っていた。その正体が何かはわからない。ただ、鏡の奥に映った自分の目が、一瞬だけ“自分ではない”ような気がした。
(誰かが……見てる?)
空気が凍りついたような感覚。だが、周囲に異変を訴えることはできなかった。それは、咲姫の内面にある違和感であり、表面上は何も起きていない。そんなことを言えば、ただの舞い上がった新人として処理されるだけである。
オーディション直前、スタッフに呼ばれて、ステージ脇に立ったとき、咲姫の耳に幻聴のような囁きが届いた気がした。
『……やめて』
振り返っても、誰もいない。空調の音、誰かのくしゃみ、衣擦れ──でも、確かに“声”だった。それがマヤだったのか、幻だったのか、自分自身の声だったのか、わからない。ただ、舞台に立ったとき、その声だけが胸に残っていた。本番では、渾身の演技をぶつけた。スタッフの表情も悪くない。むしろ、拍手すら湧き起こった。けれど、その違和感だけは、最後まで消えなかった。演技が終わって控室に戻ったあとも、鏡の前に立つのが怖かった。自分の姿を映すはずのその鏡が、異なる存在の影を投影してしまうような……そんな予感が、胸の奥にまとわりついていた。鏡越しに自分を見つめる「何か」の視線。それはマヤなのか、それとも……
鏡の縁に置いたティッシュ箱の角が、見えない風で微かに沈む。照明の光が、頬の産毛までくっきりと照らす。息を吐くたびに、喉の奥で紙が擦れるような音がするようだった。
◆
数日後、マネージャーが信じられない顔で戻ってきた。
「……ごめん、MAYA☆。不合格だった」
その声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「……え?」
「実は、君は受けるだけで良かった。100%受かるはずだったんだ…信じられない。プロデューサーも、演出家も、全部決めてたのに……なにが起きたのか、誰にも分からないんだ」
咲姫は、深く息を吸った。
(そんな約束、最初から信じていたわけじゃない。だけど、ほんの少し、信じたかった──)
もちろん、そんな甘い話はないのは分かってる。実力が足りない──それが原因だ。そんな裏側の力学さえ凌駕出来る存在でなければならない。100%なんてないんだから。分かってる。でも──あの時の視線。鏡の中にいた、何か。
(マヤ……)
書かれていない未来を手にした代償。それが、ここに来て振り下ろされた。そして思い出す──鏡の奥の、ほんの一瞬の歪み。自分が、マヤではないことを告げるような、冷たい拒絶のまなざし。肩にかけたバッグが、体温を奪うほど冷たかった。ショルダーハーネスがこすれるたび、歯車のような乾いた音が胸の中で増幅する。外に出ると、昼なのに風が夜の匂いを運んでいた。
◆
優は、古いノートをめくっていた。マヤとの日々を記した、誰にも見せたことのないメモ帳。そこには、かすかに書かれていた。
『あの映画の話、やめた』
『何で?チャンスなのに』
『オーディション受けても、たぶん、選ばれないって思ったから』
当時の優は、その言葉の意味が分からなかった。選ばれない?いや、そんなはずはない、と。
あとで制作側から強引に聞き出した。あのオーディションは、決め打ちだった。つまりマヤは最初から落ちる予定だったのだ。マヤは未来に干渉できる何かの存在を、感じ取っていたのかもしれない。彼女にはその事を言わなかった。そして、自分はその事を小説に書かなかった。書くことを拒否した道が、彼女にとっての防波堤のつもりだったのだ。書けなかったんじゃない──書かなかった。
マヤの決断には、彼女なりの静かな誇りがあった。それを活字にすれば、すべてがドラマになってしまう気がした。だから記さなかった。美しいままで終わらせた。その優しさが、今では──裏目に出ている。そして、小説は書き換わり、MAYA☆は、映画の主演オーディションに不合格となった。
(え?MAYA☆の合格は、確実だったはず。)
マヤはそのオーディションに、何かを感じ取り辞退した。MAYA☆は、合格が確実視されて受けた。
(結果は、なぞっただけで同じ……違う選択をしても、半ば強引にでも現実が辻褄を合わせてくる。)
復讐のつもりなのだろうか。マヤをトレースする限り、自分のレールを歩かせてくれないのだろうか。
(でも、何で?)
優は、以前投稿したテキスト【0415_extract.txt】を開いた。そこには、見覚えのない日付と『MAYA☆不合格』の文字が、赤字で追記されていた──。何か、この状況を打破する手立てはないのだろうか──優はそう思いながらも、『マヤの物語』の修正力に寒気すら覚える。ファイル名の右に並ぶ小さなアイコンが、一瞬だけ“見えない手”に触れられたように揺れた。
◆
結果を受け取ったその足で、咲姫はある場所に向かっていた。それは、かつて雑誌の撮影でマヤが立ったという噴水広場。なぜ、足がそこを選んだのかは分からない。ただ、引き寄せられるようにその場所に立っていた。街の雑踏の中で、一人立ち尽くす。
「これも……マヤの物語の延長線上なのかな」
ずっとマヤの道をなぞってきた。けれど、その存在が、もうどこにもいないとしたら?もしかすると私は……もう誰の道もなぞっていないのかもしれない。咲姫はそう感じた。
「じゃあ今の私は、誰?」
その問いかけに、風だけが咲姫に語りかけているようだった。。
「……それとも、わたしの……始まり?」
その瞬間、背後で足音が聞こえた。振り返る。だが、誰もいない。ざわめく木々の音だけが、優しく、冷たく、咲姫の心を撫でていった。その静寂の中に、まるで何かが含まれている気がした。
──誰かの思念。
──誰かの後悔。
そして、もう一人の私の影。咲姫はそっと目を閉じた。
噴水の水面が、風で楕円に歪む。飛沫が頬に一滴だけ触れ、そこにだけ確かな現実の冷たさが残る。ベンチの古びた板から、夏の終わりの樹脂の匂いが立ちのぼる。遠くで子どもが笑い、鳩が首を振りながら近づいては離れていく。
…心の奥で、知らない影がページをめくる音が、確かに聞こえた。まだ誰も読んだことのない、その物語の新たなページが──。




