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EditoR_14 嘘の別れ


朝のホテル。

廊下に並ぶリネンカートの隙間で、咲姫は例のノートを取り出した。黒い表紙がやけに冷たく感じられる。まるで昨夜から、誰かの手の中にいたように──。ページを開くと、そこには見覚えのない新たな文章が現れていた。


『──舞台袖で、マヤは彼に背を向けたまま言った。』

『もういいの。これ以上、私に優しくしないで。』


その文を目にした瞬間、心臓が強く跳ねた。それは、彼女が過去に何度も読んだ、あの物語の断片──のようでいて、違っていた。


(このセリフ……違う。確か、彼の方が追いかけていたはずじゃ……)


手の中のノートがじわりと熱を帯びる。まるで“真実”が書き換わったことを、その重みで伝えてくるかのように。視線がその文字に釘付けになり、思わず喉が鳴った。ノートを閉じようとした手が、まるで誰かに引き留められるように動かなかった。咲姫はそっとページをなぞる。インクの染みが紙の繊維に深く入り込んでいて、それがまるで“記録”というより“証拠”のように見えた。


(どうして──こんな文章が、わたしの手元にあるの?)


背後で、別の清掃スタッフの声が聞こえた。


「雪平さん、何してんの?!早く次の部屋やって!」

「は、はい、今行きます」


咲姫はノートを慌ててバッグにしまい込んだ。その時、なぜか耳元でかすかに囁くような声がした気がした。


──これは、まだ始まりにすぎない──


振り返っても、誰もいなかった。廊下の空調口から吹き降りる風が、わずかに埃を巻き上げる。薄い光の筋の中、埃が粉雪のように漂い、その見えない気配だけが形になっていた。



 優は、コーヒーを片手に「mirror_log」のフォルダを開いた。消したはずのバックアップファイルが、またしても復元されている。しかも、ひとつ追加されていた。


【rewrite_0414.txt】


開くと、そこには“別れの夜”が綴られていた。自分が書いた覚えのない文体だった。


─────────別れの夜──────────────


マヤの目が、ゆっくりと潤んでいく。


『……わたし、わかってる。あなたは、本当は優しい人。

だから……私を手放そうとしてるのも、きっと……』


────────────────────────────


(これ……俺が“書こうとして、やめた言葉”だ)


優の喉がつまる。それは、あの日、実際にマヤが言った言葉に近かった。 あの時の痛み、声、涙の熱まで──記憶が、創作を超えて侵食してくる。文面の隙間から、マヤの声が漏れているように感じる。まるで画面越しに、彼女がこちらを見つめているような感覚。カップの縁に手をかけるが、指先が汗ばんでいて、うまく掴めなかった。


(なぜ今、それが書かれている? 誰が? どこから……)


ふと、彼はキーボードに手を置いたまま、動けなくなった。自分の指先から、まるで“何か別の存在”がこちらを通じて文章を綴っているような──そんな妄想が、現実のように思えた。


(このログは、俺だけのものじゃない……?)


その答えを探すように、優は静かにページを閉じた。画面に映る自分の頬に蛍光灯の白色の光が貼りつき、カーソルの点滅が脈拍とずれる。デスクの上で乾きかけの付箋が反り返り、そこに書いた古い言葉が、別の意味に思えてくる。ファイルの更新時刻は、ありえない未来の分単位で進んでは戻り、秒針だけが逆走するみたいに揺れ続けた。



 その日の夕方、ホテルのロビーでふたりは再びすれ違った。廊下を通る清掃カートの音が遠ざかっていく中、咲姫が立ち止まり、優に声をかける。


「……あの、小説の話、してもいいですか?」


咲姫は少し緊張した面持ちで優を見上げた。胸の前で手を組む仕草が、言葉を探している心の揺れを映し出していた。


「この前の話の続きで……、別れの場面、読んだんです」

「……うん」

「マヤが振ったように、書かれていました」


優の目が、一瞬だけ硬直する。


「……そうだね」

「でも、何となく、あれは“真実”じゃない気がして……」

「…」


その一言に、優の胸が締め付けられる。目をそらしてしまいそうな自分を抑え、彼は深く息を吐いた。


「……君は、どうしてそう思ったの?」

「マヤは、たぶん……好きな人を、自分から切り離せるほど、強くなかったから」


静かな沈黙が、ホテルのロビーの広がりに溶けていく。窓の外を車が通り過ぎる音、エレベーターの低い電子音。そのすべてが、遠く鈍く響く中で──


「……君の言う通りだよ。……あれは、“俺が書いた嘘”なんだ」


優は、ようやくそれを口にできた。創作という名の美化であり、マヤの心を守るために塗り替えた、過去の痛みだった。


(でも──もう、誰かがそれを“元に戻そうとしている”)


咲姫は、優の目をまっすぐに見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「やっぱり……その“嘘”があったから、私はここまで来られた気がします」

「え…」


優は目を伏せた。彼女のその言葉に、皮肉でも責めでもない、優しい温度を感じた。


(俺の嘘が、雪平さんの救いになった……?)


それは皮肉にも、“創作の力”そのものだった。

ロビーの床材に埋め込まれた薄い石の粒が、日の傾きで金色に点滅する。受付ベルの真鍮が微かに音をため、誰も押していないのに、鳴りそうで鳴らない緊張だけが残った。



 その夜の稽古。別れのシーンの練習が始まる。咲姫は代役として、舞台に立っていた。照明が咲姫の表情を照らし、舞台の床の上に、彼女の影が淡く揺れていた。咲姫は、台本通りに「あなたとは、もういられない」と言う。けれど、その直前に、喉元まで違う言葉がこみ上げていた。この舞台の脚本とYou-KIの小説「マヤの物語」は違うはずなのに、別れのシーンがオーバーラップしてくる。


(マヤ…本当は、こんな風に別れたくなかったんじゃないの?)


台詞を言った直後、わずかに息が詰まった。声が震える寸前でとどまる。演出家が「今の、とてもリアルだった」と褒める。けれど咲姫には、それが「嘘のリアル」のように感じられた。


(わたし、何の感情でこの芝居をしてるんだろう……わたしだったらどうする?……でも、そんな感情さえ、コントロールされている気がする…)


心が、ズレていく。足元がふわりと浮いているような不安定さを感じる。それでも身体は滑らかに動き、台詞は流れるように出ていった。


(まるで、誰かが……わたしを使ってるみたい……いや、使ってる)


照明の中、彼女の動きには一切の迷いがなかった。けれど心だけが、そこから一歩遅れて浮いていた。


(この演技は、誰のもの?)


観客もいない稽古場に、まるで“誰かの視線”を感じた──。袖の暗がりに置かれた予備のスタンドライトが、誰も触れていないのに微かに軋み、金具のこすれる音が空に消える。舞台上にあるバミリの養生テープの端が起き上がり、風のない場所で小さく波立った。



 帰宅後、咲姫はベッドに横たわりながら、EchoEのアプリを開く。そこに、予約投稿リストに見覚えのないエコー(投稿)が設定されていた。


──予約:明日 21:00

『それでも、私はあなたを愛してた。たとえ、何もかも終わったとしても。』


(……え? 私、こんなの書いた?…もう、わからない…)


アカウントの履歴を見ても、誰かに乗っ取られた形跡はない。ただ、それは──まさに、あの日、マヤが劇場の控室でつぶやいた言葉だった。咲姫はスマホを握る手に力が入り、液晶に映る自分の顔を見つめた。その目は、どこか他人のようだった。


(私……どこまでが自分なんだろう)


その時、天井から小さな“コトリ”という音が聞こえた。まるでどこかで誰かが、ページを一枚めくったような音。それが、何かの“始まり”であるかのように──。

スマホの画面の端に、未読の赤い点が点滅して消える。冷蔵庫のコンプレッサーが止まり、静寂がひときわ色濃く落ちる。まばたきの間だけ、写真立てのガラスに別の顔が重なった気がして、すぐに消えた。



 優は部屋の明かりを落とし、「mirror_log」を開いた。ログには、新たな一行が加えられていた。


『創作の最後の嘘を、現実が暴きにくる──』


(何だこれは……) 


キーボードに手を伸ばそうとしたその時。モニターの奥に、微かに“もう一つの顔”が浮かんだ気がした。それは──泣きながら笑う、マヤの顔だった。瞳の中に、彼を責める色はなかった。ただ、すべてを受け入れて微笑むような、優しい絶望の表情だった。


(俺はただ、物語の中だけでも、君に幸せでいて欲しいだけなのに……もう、隠しておけないんだな)


優の胸の奥、ひとつの靄がゆっくりと晴れていく。その瞬間、彼の背後の鏡がふっと揺れたように見えた。古い椅子の背で指先が木目をなぞると、節のところだけ温度が違い、指がそこに引っかかる。口の中の渇きに、さっきのコーヒーの酸味が遅れて感じられた。



 翌朝、咲姫は仕事の休憩中に、ホテルの屋上に出ていた。灰色の空がゆっくりと色づいていく。その色は、まるで咲姫の心の中をあらわしているようだった。決して抗えない色を馴染ませながら。咲姫は、ふと街中を眺めた──劇場の屋根が小さく見える。劇場を隠す周りの建物が朝日に照らされて揺れているように見える。それが、まるで“舞台の幕”のように思えた。


(私、あの夜の続きを、まだ知らない。でも、もうすぐ──思い出す気がする…思い出す?…なぜ私はそう思ったの?私、彼女に乗り移られているの?)


咲姫の顔を雲間から除いた陽の光がてらした瞬間、スマホのEchoEが通知音を鳴らした。

予約投稿:「1時間前に送信されました」──その言葉が、世界に放たれていた。

咲姫はゆっくりと目を閉じた。朝の光がまぶたを透け、胸の奥で何かが脈打っている。


(もう一度、始まるんだ)


咲姫は、ゆっくりと歩き出した。その背に、かすかな風が吹いていた。その風の中に、どこか遠い舞台の拍手のような気配があった。屋上の手すりに残る冷たい結露が、歩き出す咲姫の掌を潤した。眼下の交差点で信号が切り替わるたび、人の流れが微かに遅れて揺れ、街自体が呼吸しているようだった。靴底がコンクリートを離れるたび、見えない舞台転換の合図がひとつ、足元で鳴ったように感じた。


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