EditoR_13 不気味な再構成
優と会った翌朝、清掃中の咲姫は、備品室に置き忘れた黒いノートをまた回収した。ノートは昨夜と同じ場所にあったはずなのに、なぜか埃一つついていない。まるで誰かが丁寧に拭いて戻したかのようだった。中を確認すると──昨日と同じはずのページに、一言だけ書き込みが増えていた。
『“彼”が気づき始めている。早く、重なって──』
(昨日からこの場所には私以外誰も入っていない筈なのに、何でノートに書き込みが?!…彼?……誰のことを言っているの?)
心臓が、また一つ大きく鼓動した。視線の端で、備品室の鏡が光を跳ね返す。咲姫はその反射に一瞬たじろぎ、鏡の中の自分がほんの少しだけ笑ったように錯覚する。そんな馬鹿な、と思いながらも、視線を外すことができなかった。鏡面の隅には、細い拭き筋が残り、そこにだけ朝の光が白く溜まっている。金属棚の奥からは、洗剤の柑橘の匂いと、古いモップの湿り気が混ざった空気がゆっくりと流れてきた。
◆
優は寝不足のまま出勤。昨夜、鏡の前でノートを見つけたときの違和感がまだ尾を引いていた。通勤中の電車で、揺れに身を任せたまま、まどろむ。そして、周囲の音はぼやけていき、現実か幻想か分からない世界に溶け込んでいく。
~~夢の中:かつてマヤが舞台袖で涙を流していた夜の記憶~~
しかし、そこにいるのは咲姫だった。優の手を取った彼女が、優しく「ありがとう」と告げる。
その口調、その微笑み──
──マヤに、似ていた。
……マヤ、君は今何を感じているの?……俺、君の事を……
電車がガタンと揺れた拍子に、優は現実に引き戻された。窓ガラスに映る自分の顔が、半拍遅れて瞬きをする…。
(はっ?!寝てたのか……俺は何を言おうとしてた?)
目覚めた優は、心臓の音が耳の奥で鳴っているのを感じた。ワイシャツの襟が首に張りつき、額から汗が滴る。吊り革のビニールに残った他人の体温が、妙に生々しい。
(あれは……夢か?それとも……あの夜、俺が見たはずの光景?)
電車の窓に映った自分の目が、どこか遠くを見ているようで、思わずそらした。広告のモデルが笑っている。だが、その目だけが笑っていないように見えた。
(俺……どうかしてる……)
◆
ホテルのロビーでの咲姫と優は再び顔を合わせた。
「おはようございます」
「おはよう」
空調の音だけが静かに響く中、咲姫はおずおずと声をかける。
「……あの、変なことを聞いてもいいですか?」
「変な事?」
優が視線を向けると、咲姫は苦笑いしながら、ポケットからあの黒いノートを取り出す。表紙の黒色が柔らかく光を弾き、かすかな爪痕が古さを告げていた。
「このノートって、喜多邑さんのノートですか?」
(え?何で雪平さんが持っている?)
「あ、ああ、そうだけど。でも何で分かった?」
「昨日、喜多邑さんにお会いした後、田嶋さんに聞いたんです」
「ああ、田嶋さん」
「社員の方って、仕事が遅くなると、泊まる事あるって。もちろん社割で」
「そうだね。僕もたまにそうしてる」
「ある部屋を掃除してたら、このノートが出てきて」
「あ、それ、処分したつもりで…」
その言葉を遮るように咲姫は続けた。
「喜多邑さんって優さんってお名前なんですね。社員名簿で見ました。わたし、下の名前は咲姫。雪平咲姫と言います」
(咲姫……マヤじゃないんだ)
「そうなんだ」
「あの、喜多邑さんって、小説家のあのYou-KIさんですか?」
「え?なんで?君、You-KIを知っているの?」
「はい。昔から密かにファンで読んでいました」
「そうなんだ。ありがとう」
「あ、やっぱりそうだったんですね。」
「うん」
「このノートって、ネタ帳みたいなものですよね?どうして捨てようとしたんですか?」
「あ、もう、パソコンにネタは移してあるし、ごちゃごちゃしていてだいぶ古くなったから、処分しようと。」
「そうなんですか……あの、このノート、処分しようとしても、すぐ戻ってきてしまうんです。誰かのイタズラかと思いましたが、イタズラしても何のメリットもないので、戻す意味はないかと」
「戻ってくる?なぜ?」
「わかりません。そんなこともあったんで中を見てしまったんです。すみません」
「いやいや、捨てたものだから気にしないで」
「ありがとうございます。で、このノート……なんか、勝手に書き換わってるような気がして。まあ、気のせいだとは思うんですけど……」
咲姫は、冗談めかして笑って言ったつもりだったが、優は表情を凍りつかせた。
「……それ、誰かの名前……書いてなかったよね?」
咲姫の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「“マヤ”って書いてあった気がして……」
その瞬間、優の中で、何かがはっきりと“つながる”。
(?!…捨てる前に、マヤの文字は消したはずなのに……)
脳の奥で、遠く忘れ去った記憶が急に動き始めたような衝撃を受ける。咽喉の奥が乾き、言葉が一瞬だけ粒になって舌の上でほどけた。
「喜多邑さん、ノートお返しした方が良いですよね?」
「いや、良いよ。雪平さんが処分しておいて」
「そうですか。わかりました」
◆
自室に戻った優は、パソコンを立ち上げる。削除されたはずの「mirror_log」ファイルの断片が、なぜか紙にプリントアウトされてデスクに置かれている。
(なぜ、印刷されている?)
誰かの手が、明らかにそこに介在していた。印字された行の最後に、手書きの文字が添えられていた。
『創作と現実は、観測者次第──You-KIは、もう一人じゃない』
万年筆のインクがところどころ濃淡を作り、書いた者の呼吸まで透けてみえる気がした。自分はひとりで物語を書いてきたと思っていた。だが、もしかして──すでに“誰か”と共有していたのか?まさか、雪平さんが書いているのか?彼女が観測者か?いや、それは無理だ。彼女は、You-KIのファンだと言っていた。そんなことするわけがない──それだけではない。
誰かが、物語の“先”を知っているような感覚がある。気が付けば、キーボードに添えた指先が、いつの間にか冷えていた。優は、ありえないと思いながらも、現実に起きている事が、認めざるを得ないところまで来ている事に、戦慄を覚えた。壁時計の秒針が一拍だけ遅れ、すぐに追いつく。優は目をこすった。もう一度秒針をみてみる。今度は何も起こらなかった。
(俺おかしくなってる?…さっきのズレは、何だったんだろうか──)
◆
稽古中、咲姫は、再び“自分じゃない誰かの演技”をしているような感覚に陥った。身体は自分のものなのに、動き出すと勝手に台詞が出てくる。台本を読んだ覚えのない箇所まで、なぜか自然に言葉が流れていく。
「いまの芝居、完璧だった。あの頃のマヤそのものだった」
と演出家が絶賛。更に続けてこう言った。
「MAYA☆さん、あの台詞、知っていたの?今回の台本には入れてないんだけど」
「え?そうなんですか?……思わず口から出てしまって」
「ほぉ、そっかぁ。知っているのかと思った。いやぁ、あの表現はマヤにしかできないと思ったから、今回外したんだけど、凄く良かったから、やっぱ入れよっか!」
「え?…は、はい」
共演者が不審そうに聞いてきた。
「MAYA☆ちゃん、前にこの役やったことあったっけ?」
「いえ、ありませんけど」
「そうなん?……てかさ、さっきの台詞、マヤが最後に言ってたやつじゃない?録画で見たことあるよ」
「録画……あったんですか……?」
「え?見たからあの台詞言ったんじゃないの?」
「見てません。知りません……」
咲姫は頑なに否定するだけだった。
(…怖い……私じゃない。こんなの、私じゃない)
そう思えば思うほど、指先が震えた。背中に汗がつたう。呼吸を整えるたび、胸郭の動きが他人のもののように感じられる。
(自分の声なのに、誰かの声に聞こえる…)
身体が先に動いて、自分の思考が遅れてついてくる──その感覚はまるで、身体から魂がはがれて、遠くから傍観している様だった。
◆
優はふと、“ある記憶”を思い出す。かつてマヤが「誰かに見られている気がする」と口にしていたこと。それは優が彼女を“観察”していたことに由来するかもしれない。優は思い出す。あの頃、マヤの所作や言葉を、無意識のうちに小説に取り込んでいたことを──。
(あれは“取材”なんかじゃない。ただ……彼女を、切り取っていただけだ)
彼女が抱いていた“観測される恐怖”が、今になって優自身に跳ね返ってきている。パソコンの前に座る自分自身が、まるで誰かの視線を受けているような錯覚。背後を振り返っても誰もいない。だけど、モニターに映る自分の瞳の奥には、明らかに別の“存在”が揺れていた。蛍光灯の反射が黒目に細い舞台を作り、そこへ見えない誰かがそっと立った。
◆
咲姫は、結局黒いノートを捨てることが出来ずにいた。ふと、ノートに書かていた言葉を見た。
『“観測者”が交差したとき、物語は書き換わる──』
その文字を見た瞬間、どこかで冷たい風が吹いたような気がした。彼女はそっとノートを閉じ、鏡の前に立つ。鏡の中の“彼女”が、ほんのわずかにタイミングをずらしてまばたきした。それが現実かどうか、彼女にはもうわからなかった。鏡の縁の黒いゴムに、指でそっと触れる。ひんやりとして、現実だけがそこにあった。
……
同じ頃、優は、「mirror_log」ファイルの末尾に新しく付け加えられた最終行を見た。
『物語の再構成は、すでに始まっている。次に記すのは、彼女──君の番だ』
画面に浮かぶ文字が、ほんの一瞬だけ歪んで見えた気がした。カーソルが勝手に右へ歩き、見えない手が改行を与える。タイピングの音がしないのに、画面上の文字だけが変化していく──そんな錯覚だった。




