EditoR_12 すれ違う記憶
翌朝、咲姫は再び清掃カートを押して廊下を巡っていた。いつものように客室のドアをノックし、誰もいないことを確認して中へ入る。その部屋は──昨日、ノートが戻ってきた場所だった。
いつも通りにタオルを交換し、ベッドメイクを済ませる。けれど、机の上に目をやった瞬間、息が止まった。
ノートが──ある。
昨日とは違う、窓際に置かれている。開かれたページには、昨日見たものとは違う文字が綴られていた。
『彼女はまだ、自分が誰かを知らない』
手が震えた。後ろから気配を感じ、振り返る。
「誰……?」
誰もいない。けれど──鏡の奥に、一瞬“背の高い誰かの後ろ姿”が映った。思わず目を凝らしたときには、すでにそれは消えていた。鏡の表面が、ほんの少しだけ曇っていた。まるで誰かがそこに立ち、吐息を残したかのように。咲姫は思わずその曇りに手を伸ばし、指でなぞった。なぞった先に、うっすらと浮かび上がる文字のようなもの──「マ...ヤ...」
空調の風で、その曇りはすぐに消えた。
(……幻覚? それとも……誰かが……?今の私は、MAYA☆ではなく、咲姫……ここにいても何かが起こるの?…この黒いノートのせい?)
その場を離れようとしたとき、ふと背筋が冷たくなる。部屋の隅、誰もいないはずの空間から、ひとつの微かな足音が聴こえた気がした。振り返るとそこには何もなく、ただ光だけが揺れていた。
◆
うたた寝をしていた優は、目を覚ますためコーヒーを飲みながら自室のデスクでPCを開いた。
「いつの間に寝てしまっていた。…ん?!このファイルは…」
保存フォルダの中に見慣れないファイルを見つける。ファイル名は「mirror_log」──記憶にない。開くと、そこには「ノートを捨てた夜」の描写が詳細に記されていた。
──ベランダからノートを投げた描写。
──そのあと、再び現れたノートを机に置いた場面。
(……俺、こんなのは書いてない)
…にもかかわらず、それは正確に“過去の記憶”と一致していた。だが、その記憶すら、今となっては曖昧だ。頭を押さえる優の耳元で、かつてマヤが言った台詞がよみがえる。
『現実は、書き換えられる。私たちの手じゃなくても』
(何で今になって、その台詞が頭に浮かぶんだ……)
ふと机の片隅に視線をやると──そこに、なくしたはずの黒いペンが転がっていた。マヤがいつも使っていたものと同じ型。
(……戻ってきたのは、ノートだけじゃないのか……?)
◆
次の日の稽古場。咲姫は、舞台の袖で台本を手にしていた。照明の光が、汗ばむ額に反射し、台本の余白がわずかに黄ばんで見える。ある俳優が彼女に声をかける。
「……なんか、懐かしい匂いがするな、君」
「え?匂い?」
「あ、いや、昔、一緒に芝居した誰かに……なんとなく、雰囲気が似てる気がして」
その俳優は、かつてマヤと共演していた人物だった。「マヤの物語」の読者だけが知っている“過去の因縁”。小説では、名前を変えて登場していた共演者──だがその人物との因縁を咲姫は知る由もなかった。咲姫は笑ってごまかしたが、どこかで胸がざわついていた。
(まただ……この感じ。まるで、“私”じゃない誰かの記憶をなぞってるみたい)
台詞を読み上げるたび、心が勝手に感情を先取りしていく。泣くシーンで涙が出る前に、頬に熱が走る。嬉しい場面で、笑う前に胸が痛む。
(私、こんな演技できたっけ……?まるで、誰かに動かされている感覚がする。誰かが乗り移ってる?……まさか、そんな筈は…)
鏡越しに目が合う自分。けれど、そこにいる“自分”が、ほんの一瞬──誰か別の人間にすり替わった気がした。鏡の中の彼女は、ほんのわずかに姿勢が違って見えた。肩の角度、口元の表情、目の奥の光。咲姫は思わず身震いした。
(私、あんな顔してた?)
演じる役としてではなく、“自分自身”の輪郭が曖昧になっていく。目の前のガラス越しに映る人物は、自分でありながら、自分ではない何者かの面影を纏っていた。さらに違和感を強めたのは、服装の細部だった。自分の衣装の襟元には小さなブローチは付いていなかったはずなのに、鏡の中では確かにキラリと光っていた──まるで、かつてマヤが舞台で身につけていた記憶の装飾のように。
(…何コレ?!)
咲姫の心拍が早まり、呼吸が浅くなる。額に滲む汗を拭うのも忘れて、じっと鏡を見つめる。
(いま、“私”がどこにいるのか──わからない)
台詞を繰り返すうちに、声の響きが“マヤ”としての記憶と重なり始めるような感覚に襲われた。指先の仕草、歩き方、ちょっとした息継ぎさえ──かつて誰かが刻んだリズムで演じさせられているようだった。
◆
帰宅後、SNSを開いた咲姫は、タイムラインにある写真を見つけて絶句する。そこには「舞台袖の自分」が写っていた。
「何でここが?」
自分は撮った覚えはない。でも撮影された位置、構図は──まるで“見守る視点”からの一枚。小説『マヤの物語』に登場した、舞台袖からの視点そのものだった。
(……誰が、これを……?)
☆の数が、異様に多かった。コメント欄には、「懐かしい」「あの頃のマヤが帰ってきたみたい」という言葉が並ぶ。
(……マネはしてたけど、それはきっかけをもらっただけだと思ってた。私は私……でも、本当に…その頃の“マヤ”になってるの?)
スクロールする指先が止まる。数ヶ月前に自分が投稿したはずの写真に、見覚えのないキャプションが添えられていた。
『記憶の奥に眠る舞台へ。再演の幕が、静かに上がる──』
それは、You-KIが小説内で使っていた冒頭の一文だった。
(……これって、どういうこと……?)
…
翌朝、清掃用具ロッカーを整理していると、棚の隅にまた黒いノートが押し込まれていた。咲姫が恐る恐る取り出すと、その表紙には銀色の文字でこう書かれていた。
『To the next actor』
中は、空白のページ。挟まれていたペンの先には、微かに黒インクの痕。咲姫はそのペンを手に取る。空白のページに、自分の名を書こうとしたその瞬間──ペンが、すでに“何かの名前”が記されていた。
『マヤ』
(え?MAYA☆じゃなくて……マヤ)
ノートのページが、風もないのにふわりと捲れる。震える指先でページをおさえる。そこには一行だけこう書かれていた。
『“あの人”が見ている──また』
咲姫の背中に、冷たい汗が流れた。
(“また”……ってことは、前にもあったの? 誰が……誰を?)
ノートをそっと閉じた。胸が小さく上下し、息が乱れているのに気づく。喉が乾き、手のひらにじっとりと汗が滲んでいた。鼓動が、自分のものではないような速さで鳴っている。鏡に映る自分が、一瞬、まばたきをしていなかった。
(え?今、ズレた……)
◆
その晩、咲姫はホテルのロビーで一人、仕事終わりにぼんやりとスマホを眺めながら、ソファに座っていた。ふと隣に人の気配を感じる。顔を向けると、そこにいたのは、昨日声をかけてきた“ファン”の男だった。
(あ、この人……)
「……あれ?あなたは」
「……え?君は」
そう言いながら、どこか不自然な間を残す会話。優は、何気ない顔をしながら、内心では動揺していた。
(なんで……ここに?MAYA☆がなぜここにいる?宿泊?)
声をかけるべきか、名乗るべきか──優が迷っているうちに、咲姫の方から口を開いた。
「……なんだか、どこかで会った気がして」
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。目の前にいるのは“マヤではない”と優は頭ではわかっている。でも、言葉の響きが、笑ったときの目元が、あまりに“彼女“と重なる。おもむろに優は尋ねた。
「……昔、誰かに似てるって、言われたことありますか?」
咲姫は少し困ったように笑った。
「最近、よく言われるんです。昔のアイドルに似てるって」
「……アイドル?」
「はい。マヤって人」
その名前を聞いた瞬間、優の中で“何か”が切り替わった。
(やっぱり……君は、マヤを知ってる)
けれどそれを口にする勇気は、まだなかった。
「君、名前は?」
「雪平です」
(ユキヒラサキ?)
「ここには、宿泊で?」
「いえ、ここで働いています。清掃の仕事で」
「そうなんだ。あ、僕は喜多邑です。ここでブライダルプランナーをしています」
「え?だから会ったような気がしたんですね」
(昨日のファンの人だと感じたのは気のせい?もう何が現実か分からなくなってきてる)
「そ、そうかな?」
「……」
ふたりの間に、一瞬だけ沈黙が生まれた。それは、懐かしさと恐怖が同時に降りるような、そんな静寂だった。
◆
深夜、優が再びPCを開くと、今朝見たはずの「mirror_log」ファイルが消えていた。検索しても、ゴミ箱を探しても、どこにも見つからない。代わりに、ブラウザの履歴に一行だけ残っていたリンク。
【Re:mirror-log/internal.draft】
そのURLは、You-KIとしてもアクセス権限がない“管理者専用ページ”だった。しかも、そのリンクには、見覚えのない日付が添えられていた。明日──未来のタイムスタンプ。
(……誰が、何のために……?)
まるで頭の芯を氷の針で刺されたような感覚が走る。
……記憶がすれ違っている。
優の指先がマウスの上で止まり、手のひらに汗が滲んでいく。背筋を冷たいものが這う。
──クリックしようとする直前、画面が一瞬だけブラックアウトした。真っ暗な画面の中央に、うっすらと白い文字が浮かぶ。
《記録中……》
《記録者:不明》
一部だけ断片的に残された文字列が脳裏をよぎる。
『マヤの代わりに、誰が幕を上げる?』
その瞬間、電源が勝手に落ちた。どこかで、誰かが彼の創作を“観測”している。これはもう、創作じゃない──書かされている。いや、“観測されることで物語が生成されている”。
そんな気がしてならなかった──。




