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EditoR_10 ニアミス


 ホテルの客室清掃の仕事に戻った咲姫は、まるで舞台の幕が下りたあとの静けさの中にいるようだった。舞台を現実の空間の様に感じ、役を生き切って、カーテンコールで拍手を浴びて日常に戻る。その後の静けさとはまるで異質の感覚。でも温かい。廊下に漂う洗剤の香り、カートの車輪が床を擦る音、窓から差し込む淡い午後の日差し。誰にも見られていない。何も起きない。

起きるはずもない。そう思えるこの空間は、むしろ現実のほうが虚構に思えるほどに、整いすぎていた。


(今日……やけに静かだな)


軽く鼻をすすり、咲姫は部屋の扉を開けた。

薄暗い部屋の中。カーテンの隙間から細く光が差し込み、テーブルの上のガラスコップが鈍く反射していた。ベッドは使われたまま、シーツが無造作にめくれている。その隣、テーブルの端に何気なく置かれた黒いノートがあった。無地のカバー。タイトルも、ロゴも、装飾もない。ただ、誰かの思考が閉じ込められたような、静かな存在感だけがそこにあった。


(今でも、こんなノート使っている人いるんだ……)


清掃マニュアルでは、「私物には触れないこと」とある。万が一、何か起きた時に、もし触れていたら言い訳が出来ない。けれど。なぜか目が離せなかった。吸い寄せられるように、指先がそっと表紙をなぞる。


──パタン。


思わず開いてしまった。手が勝手に動いたわけじゃない。でも、そうとしか思えなかった。

一ページ目。そこに、たった一行だけ、文字が書かれていた。


『私はまだ終わっていない。もしもあのとき、別の選択をしていたなら。』


その瞬間。心臓が、音を立てて跳ねた。咲姫はぽつりと呟いた。


「……この言葉」


知っている。いや、忘れられるはずがない。それは、咲姫が何度も読み返した『マヤの物語』の、あの一節だった。物語の折返し。マヤが一度、夢を諦めかけるシーンで語った、あの台詞。なぜ、このノートに、それが書かれている?誰かの引用?偶然?思考が追いつかない。でも、手が震えてページを閉じられない。頭の中に、あのシーンがフラッシュバックする。ステージに立つマヤ。涙をこらえて語った、あの瞬間。殆ど無意識だったが、抗うことが出来なかった。理性など介在するべくもなかった。食い入るようにノートを見てしまう。


(……あのページ……何度も読み返した……私の心を救ってくれた言葉……)

(なんで?なんでこんな場所に?)

(まさか……)


現実と小説の境目が、少しずつ崩れていくようだった。その時、カチャン。背後で清掃カートの車輪が僅かに跳ねる音がした。誰かが見ているような気配がする。視界が狭くなる。言い知れぬ恐怖に似た感覚。ノートの言葉が、まるで“こちらを見ている”ような錯覚だった。ページの端に、何か薄く書かれている気がして、咲姫は身を乗り出した。ごく小さな文字で、こうあった。


──“雪平咲姫とマヤの差異、それは…”


(なぜ……私の名前が……)


読みかけたそのとき、ドン。廊下で清掃カートが壁に当たる音が響いた。咲姫は一瞬で現実に引き戻され、ノートをそっと閉じた。



部屋を出たあとも、あの言葉が頭から離れなかった。


『私はまだ終わっていない。もしもあのとき──』


それは確かに見たはずの文字列なのに、まるで耳元で誰かに囁かれたような、感覚の方が鮮明に残っていた。


(あれは、“読む”というより、“聞かされた”感覚だった……)


自分の意志ではなく、誰かの続きを、なぞらされているような──そんな妙な感覚。何かを終わらせなければならないのは、自分じゃない“誰か”のはずだった。でもその“誰か”が、自分の体を通して続きを求めているように思えてしまう。足取りが少し重くなる。心の奥に、誰かの足跡が残ってしまったかのように。


──“雪平咲姫とマヤの差異、それは…”


この言葉は、何故か頭の中から薄れていき、深層心理に浸透するように、咲姫の表層意識から霧のようにすり抜けていった。



 一方、優は帰宅後、PCの中の古いフォルダを開いていた。そこには、かつてマヤと打ち合わせた公演プランのメモが残されていた。何気なくファイルを開くと、その一文が目に飛び込んでくる。


──「この劇場、いつか絶対にやりたいって思ってた」


マヤの筆跡で書かれた言葉だった。

カフェに来る前に偶然立ち寄ったコンビニで舞台のチラシを見つけた。それが気がかりでコーヒーを飲む気にはなれなかった。チラシに記されている劇場名は、かつてマヤが最後に立った小劇場のすぐ近くだった。


(なんで……よりによって、あの場所……)


優の胸の奥に、鋭い痛みが走る。マヤが願っていた未来。叶えられなかった舞台。それが今、別の誰かの名で実現されようとしている。PCに目を落とす。ふと新しい投稿通知が届いているのに気づく。

InSTAR。

アカウント名は「MAYA☆」投稿には、舞台稽古の様子が写っていた。

その横顔。その目線の角度。


(……似ている)

 

思わず口に出してしまった。そして思う。


(でも、なぜ“似ている”だけで、こんなに胸が苦しくなる?)


画面の中の彼女は、過去に舞台の上で光を浴びたマヤと、重なるようで、重ならない。でも。心が、先に反応していた。


(これは……記憶か? いや、違う。でも……じゃあ、この感情は?)


その問いが、彼の胸の奥で静かに根を張っていった。偶然では済ませられない。だとすれば…。


(この舞台は、誰が望んでいる?)

(マヤ……お前が……)

(そんなこと、あるはずがない……単なる偶然の一致だ……しかし)



 その頃、咲姫はホテルの控室でひと息つきながら、MAYA☆としてのアカウントを開いていた。投稿履歴を遡っていく。数週間前に上げた投稿の中に、ひとつだけ引っかかるものがあった。


——『私は、たとえ形が変わっても、この想いだけは届けたいと思ってる』


(……あれ、これ……私書いたっけ?)


覚えが——ない。投稿時間を見る。変だ。こんな投稿する筈がない。でも、たしかに投稿欄には自分の名前がある。日時も、自分が確かに触っていた時間。けれど、その言葉を「書いた記憶」が、どこにもない。心に引っ掛かるものが何もないのだ。でも……そこにある。読んでいると、まるで誰かの“声”が、心の中で再生されるようだった。


(……これ、本当に私が書いた?それとも──)


咲姫は最後の客室清掃を終えたあと、控室でふとスマホを開いた。通知は、ない。いつものように、何も起きない。でも。世界の何かが、少しだけ変わった気がした。あのノートを見た瞬間から、空気が変わった気がした。肌に触れる微かな風が、すこしだけ冷たく感じる。見慣れているいつもの光景が、わずかに違って見えた。そして、彼女は気づく。


(小説は、現実を先に書いてるんじゃない。……現実が、小説に追いついてきてる)


清掃業務の報告を済ませて戻る途中、別のスタッフが廊下で彼女を呼び止めた。


「ねえ、さっきの部屋、なんか妙じゃなかった? 空気が……薄いっていうかさ」


そう言われて、咲姫は一瞬立ち止まる。……寒気がした。急に誰かに触られた時に、びくっとする、あの感覚に近い。咲姫は冷静を装い「そう?」とだけ返して通り過ぎた。その直後、遺失物ボックスの上にポツンと置かれたノートが視界の端に映る。


(あれは──)


近づくと、それは先ほどの黒いノートだった。まるで誰かが“ここに戻した”かのように、丁寧に置かれている。そして裏表紙。光の加減でようやく見える、薄い筆跡が浮かび上がる。

──彼女はまだ気づいていない。そのノートの裏表紙に、薄く刻まれた筆跡を。


── You-KI ──


ただ、ページをめくる音だけが耳に残っていた。まるで、誰かが物語を先へ進めようとしているかのように──。


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