放課後教室に戻ったら俺の机の上にブラジャーが置かれていたんだが
放課後、教室に戻ったら俺の机の上にブラジャーが置かれていた。
……え? なんだこれ?
現実味の無い状況に、金縛りにあったかのように硬直してしまう。
頭の中は大量のクエスチョンマークで埋め尽くされている。
……落ち着け。一旦状況を整理しよう。
俺、桜庭海斗は自分の教室に忘れ物を取りに来たところだ。
忘れ物と言っても俺のではない。手芸部の部活動中、同じクラスの女子の忘れ物をなぜか俺が取りに戻らされたのだ。
俺の所属する手芸部で男子は俺だけで、女社会のこの部活内で男の俺の発言権は非常に弱い。
今回もこの理不尽な要求に対しささやかな抵抗を試みたものの、ジャンケンで敗北したことで結局いつも通り俺がこき使われるオチになった。
しんと静まり返った廊下を進み、無人になった放課後の教室へ辿り着いた俺を待っていたのが、この光景だ。
女性用下着。男の俺の机の上にあってはならないものが、なぜかここにある。
しかも普通のブラジャーではない。
それはシンプルで淡いピンクの……ジュニアブラだったのだ。
タグは見えないからよくわからないけど、たぶんAとかAAカップぐらいのカップサイズで、胴回りのサイズも女児にぴったりであろうほど細い、そんな小さなコットンの下着だ。
俺の所属するこの教室は高校三年生のクラス。この歳にもなってジュニアブラを着けていそうな生徒はいるだろうか。
……いや、一人だけいる。
その女生徒の名は桐生水緒。
肩甲骨に届くくらいのロングヘアにカチューシャがトレードマークで、ぱっちりとした瞳が印象的な少女。貝殻集めというちょっと珍しい趣味を持っている。
……俺が密かに片想いしている女の子だ。
このクラスでダントツで身長が低く、おそらく一四〇センチ前後程度で肉付きもあまりない体型の彼女なら、きっとこの下着も着られると思う。
彼女のものかもしれないと思うと、急に心臓がドキドキとしてきて、生唾を飲んでしまう。目が離せなくなる。
しかし、これが彼女のものだと決まったわけじゃない。落ち着け。落ち着くんだ……。
どうしてこんなことになっているのか、考えられる可能性を挙げていこう。
まずは水緒が持参した着替えのブラを、何らかのきっかけでここに置いたまま忘れてしまった可能性。
無難な線だが、俺の机の上に置かれるきっかけが無さすぎる。彼女の席は俺の席とはかなり離れているからだ。
次に、イタズラである可能性。ドッキリカメラとか。
これはあまりないと思う。彼女には動機がないし、そういうことをするような人ではない。俺の願望込みだけど……。
イタズラならジュニアブラじゃなくて他により適したものがあるだろうしな。これは無いと思う。
そもそもこれは水緒のものではない可能性。
例えばクラス誰かの家族の妹のものだとか。それなら落とし主は男子にまで可能性は広げられる。
……いや、男女に限らず妹の下着を学校に持ってきて、あまつさえ置き忘れるなんてあり得ないか。
他には、あまり考えたくないものしか残らない。
まずはイジメ。
着替えを盗られたり、身ぐるみを剥がされたりして、適当な男子の机上に見せしめのように放置された、とか……。
……嫌だ。考えたくない。俺の想像の中の彼女が涙を流していて、胸の内が痛いほど苦しくなってくる。
こうして目の前にあるブラジャーを見ているだけでも、あるかどうかもわからないイジメに加担しているような錯覚を覚えて、今更ながら形容しがたい罪悪感が襲ってきて慌てて目を逸らした。
今まで水緒がいじめられていたなんて状況は見たことも聞いたこともないから、そんなことは無いと思いたい。無いはずだ……。
イジメでないとなれば……あとはこの教室内で服を脱いで、そのまま置き去られた可能性。
正直、いつ誰が出入りするかもわからない教室で服を……それもブラジャーまで脱ぐシチュエーションが考えづらい。
だが、ごくごくわずかでも可能性としてはある。
これは本当に、本当に考えたくもないのだが、ここで情事が行われた可能性だ。
誰もいない教室内で盛り上がって、事に及んで、慌てて退出していったとか、疲れて気が回らなかったとか……。
あるいは、その……無理やり……とか……。
ああ、だめだ。
あり得ないと思いたいのに、考えたくないイジメや情交や、レ……のシチュエーションばかり想像してしまう。
だって可能性はゼロじゃないんだ。
そんな状況を想像するだけで腹がキリキリと痛んで、吐き気がして、そういうことばかり想像してしまう自分自身にも嫌になって……。
「うっ……うぐ……ひっく…………」
なんだかもう、気がついたら涙が溢れていた。
布きれ一枚を前にして触れることも払いのけることもできず、勝手に変な想像をして、泣いて。
俺はなんでこんなにどうしようもない男なんだろう。
一瞬でも邪なことを考えてしまった自分が嫌で。
涙も止められない自分が情けなくて。
結局何もわからなくて。
惨めで。
やるせなくて……。
そうしてどれだけ立ち尽くしていたのかわからなくなったとき、教室の引き戸がゆっくりと開く音がした。
「あっ……」
こんな現場を誰かに見られるだなんて、もういろんな意味で終わってしまう。
しかしもう取り繕うのも手遅れの状況で、俺は絶望的な気持ちで戸の方へ顔を向けた。
「あの……海斗くん……」
そこにはよりにもよって、桐生水緒その人がいた。
「…………」
「それ……」
絶句している俺に、彼女は小さい声と共にブラジャーを指差した。
「……これが?」
「それ、私の……」
「……あ、やっぱ……いや、そ、そうだったんだ……」
やっぱり、と言ったら失礼になるかと思ってギリギリで言い直したが、取り繕えなかった気がする。
「ご、ごめん。なぜか俺の机の上に置かれてて……。えっと……か、返すね……」
手に取って渡そうとして、しかし手で触れていいものか直前でためらってしまいホバーハンドのように空中で手が硬直した。
もう、俺はなにをどうすればいいのかわからなくなってしまった。
そんな挙動不審な俺の様子を見て、水緒は複雑な表情を浮かべた。
「ごめんなさい……」
「え…………」
なぜ俺は謝られているのだろう。謝るのはどう考えても俺じゃないか。
「海斗くん、泣いてる」
「え、いやっこれは……!」
硬直していた手が弾かれたように動き、慌てて目元を拭うが、今更すぎて誤魔化しようがない。
「嫌だったよね、こんなこと。汚れものなんて机に置かれて、触りたくもないよね……。ごめんなさい。いますぐ机の上、拭くから」
「汚れものって、そんなこと……。いやっ! 汚くないから! そんな気にしなくていいから……」
洗濯済みの着替えかどうかもわからなかったが、どうやら目の前のこれは着用済みのものだったらしい。なおさら俺が触れるわけにはいかなくなってしまったし、よくない感情がかき乱されてしまう。
結局、俺がウジウジしているうちに彼女は自らブラを回収して、ウェットティッシュで俺の机を磨き始めた。
小さな手で机を丁寧に拭く彼女を、俺は手も口も出せず見守ることしかできない。
心なしか彼女の表情は思い詰めたかのように口元が引き結ばれている。
無言の時間が流れる。
「ねえ、どうして俺の机にそれがあったのか聞いてもいい……?」
気まずい沈黙に耐えられず、俺は地雷を踏む覚悟で尋ねた。
「……うん。いいよ。話すよ」
机を磨く手を止めず、彼女はぽつぽつと話し始めた。
「……罰ゲームだったの」
「罰ゲーム?」
「幸奈とちょっと口論みたいになって、子供みたいな私には女としての魅力は無いとかって……。私だって男の子ぐらい誘惑できるって反論したら、ゲームで負けた方が自分の下着で男の子の気を引くってことになって、ゲームで負けて……」
「なんだそりゃ」
幸奈というのは、俺をここへ来るようけしかけてきた手芸部の高木幸奈のことだろう。手足が長くて顔が小さいモデルみたいなスタイルで、垢抜けた雰囲気の女子だ。
水緒と高木は仲が良かったはずだけど、どうしてそんな口論に……。しかも罰ゲームの中身がこれって……。
「じゃあ、俺はここに誘導されて、アレが置いてあったのも故意的なものだったと……」
「う、うん……。その、ごめん。本当にごめんなさい! こんな海斗くんを試すようなことして……泣くほど傷つけるなんて思わなくて……! 私、もうこれから海斗くんに顔向けなんて……」
「良かったああああぁ……!」
「…………え?」
俺はもう気が抜けてしまって、その場で座り込んだ。
「俺てっきり君がいじめられてるとか、乱暴されたのかと思って。もう心配で心配で。でもただの罰ゲームだったんだ。ああ、本当に良かった……」
「海斗くん……」
「よかったなぁ……」
「……ぜんぜん良くなんかないよ! 私、海斗くんを弄ぶようなことしたんだよ!? もっと怒ったりしないの? 私のこといくらでも殴ったっていいし、してほしいことがあるならなんでもするよ。許してもらえるまで償うから……」
床に座り込んでいる俺の視線に合わせるように、水緒も四つん這いの姿勢になって凄い剣幕でそう訴えてきた。
その必死の形相から、覚悟は充分伝わってきた。
でもな、水緒。そんなに思い詰めなくていいんだよ。
「許すも何も、実害は無いし、水緒だって被害者みたいなものなんだから俺が怒る筋合いはないよ。高木にはひと言文句言ってやりたいけど……。あれ? 罰ゲームってことは、高木のやつもさっきの俺のこと見てたのか?」
「う、うん……。途中までだけど……。私が戸を開けた瞬間に逃げた」
「くそっ……」
あの女にまで俺の醜態を見られてたとか最悪だ。
「でも罰ゲームも負けちゃったな……」
「なにを?」
「やっぱり私の子供っぽいブラじゃ、男の人は興味なんかないよね……。ましてや泣かれるなんて……」
「……あのな、水緒」
「は、はいっ」
水緒の小さな両肩に手を置き、正面から目を見る。
びくっと震えたのは彼女の体だろうか。それとも俺の手のほうだろうか。
悟らせないようにそっと呼吸を整え、慎重に言葉を選んで口を開く。
「俺の机に置かれてたアレを見て、正直すげえドキドキした。もしかしたら水緒のなのかもって、そう思ったら目が離せなくて、緊張して、くらくらした。だから、その……興味がないわけじゃないんだ」
「え…………」
「気持ち悪いこと言ってごめん。でも水緒はちゃんと魅力的な女の子なんだからもっと自信を持ってほしいし、自分を軽んじて俺みたいな男にそういうのを安売りするような真似は控えてほしいんだ。今回は何事もなかったけど、他の男だったら変なことされるかもしれないんだぞ」
「……別に、誰でもよかったわけじゃない。こういうことできる相手は海斗くんだけだもん」
「……え?」
「幸奈との口論は元々恋バナから始まったの。振り向かせたい人がいるのをどうしたらいいのかって」
恋バナ? 振り向かせたい人?
「そしたら私には無理だとかいろいろ言われて、売り言葉に買い言葉でこうなっちゃって。だから元々誰でもよかったわけじゃないの。……ねえ、海斗くん」
「は、はい?」
「私、ほんとに魅力的かな? 十八歳にもなってジュニアブラしてる女より、もっと大人っぽい幸奈みたいな子のほうが良かったりしない?」
「さっきも言っただろ! 水緒が魅力的だっていうのは本心だよ。その場しのぎの言葉じゃない」
「ほんとにほんと?」
なおも疑り深い彼女に、俺は真剣な目で向き合う。
「俺はさ、好きなことに全力で打ち込める人って素敵だなって思うんだ。水緒の貝殻集めは本当に尊敬する」
彼女の貝殻集めの趣味は俺の趣味とも少し相関するところがあるのでよく話を聞く機会があるのだが、相当なガチ勢だ。
フィールドワークでの貝殻拾いにとどまらず、タカラガイの生体を採取して面倒な標本処理を自分で行う。ダイビングの技術も習得していて、十八歳になってすぐ潜水士のライセンス取得までしていた。一番のコレクションはバイトで稼いだ数万円をはたいてオークションで買ったリュウグウオキナエビスという非常にレアな貝だ。ここまできたら相当なものだろう。
「そんな。私の趣味なんて、海斗くんの螺鈿と比べたらちっぽけなものだよ。あんな凄いもの見せられちゃったら敵わないよ」
彼女の言う通り、俺は学業の傍らで螺鈿工芸と向き合っている。
螺鈿とは蒔絵などと並ぶ伝統工芸で、木製の容器などの表面に貝片を並べて美しい意匠を施し漆で仕上げる装飾技術だ。手芸部に所属しているのも、これをやるのに適当な部活が手芸部しかなかったからで、部室の片隅に俺専用のスペースがあってそこで作業をしている。
将来、螺鈿で人間国宝になるのが俺の夢だ。
それはさておき――
「趣味に優劣なんてないよ。注いできた情熱だって、俺も自信はあるけど水緒のと比べたらどうだかわからない」
「でも……」
「二年前さ。俺、スランプだったんだ。そんなときに水緒から貰ったアコヤガイの貝殻がブレイクスルーになったんだよ。そのことを俺は一生かけて感謝したくて、どうしたら喜んでもらえるのか知りたくて、いっぱい話をして……気がついたらもう君から目が離せなくなってた」
「海斗くん……」
泣き顔なんて恥まで晒してしまった今、もういくら恥を上塗りしても構いやしない。
覚悟を決めて、今、言うんだ。
「君のことが好きです。付き合ってくれませんか」
彼女のただでさえ大きな目がさらに大きく見開き、その瞳は水面のような複雑な輝きを湛えて弾けた。
瞬間、俺の胸元にはかけがえのない小さな体が収まっていた。
「私も、わたしもあなたが好きです……。大好き」
その言葉に今度こそ俺は全身の力が抜けて、その温かな存在をそっと腕で抱き続けた。
**
「そういえば、高木には仕返ししてやらないとな」
「幸奈に?」
「罰ゲームとはいえこんな辱めみたいなことさせられて、俺だって見世物みたいにされて、何も無しなんて許せるはずないだろ」
「あ、それなら大丈夫だよ」
「そうなの?」
「罰ゲームの正確な内容は『好きな人の机の上に下着を置いて、興味を示されたら勝ち』ってなってたから。結果的に私の勝ちになったから、次は攻守交替なの」
「攻守交替?」
「うん。なので今度は幸奈が恥ずかしい目に遭う番なんだよ」
「ほーお」
それは良いことを聞いた。自分がしでかしたことを後悔するがいい。
――翌朝。
朝の一番乗りで登校した俺を待ち受けていたのは、俺の机の上に乗った一枚のベージュのブラジャーだった。
「あー。ふーん、そういうことね……」
昨日とは違い、どのような経緯でこうなっているのかも、これが誰のものなのかも察しが付く。
そして、昨日のようなドキドキした感情は湧いてこなかった。
つまり、勝負は水緒の圧勝だ。
俺はその布切れを無造作につまみ上げる。
「D65か……」
せめてもの武士の情けで、俺はそのブラを高木の机の中に押し込んでやった。
END.