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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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詞途巡礼

作者: 猩々飛蝗

「九つの門より出でて帳の裏から還れ」


 その本はそうしたエピグラムから始まるらしい。嘘か真か、血肉をなす本文を作家が実際に書く前から、その本は既に出版されてそこにあったという。ややこしいことに、作家は確かに出版された後で本文を手ずから書き上げたし、その前から本の中は真っ白でもなかった。タイムトラベルとかその手のからくりでないことは確かであって、亞書の改訂といった連想も少し外れている。ここでは直ちにその詳細には立ち入らないが、とにかく、私はその本を探している。

 排水路の怪しい老人曰く、最後にその本を読んだのは二十五歳の頃。「川兎を助けたお礼」にもらった「あらゆる兎のためのおいしいニンジンの調理本」。そこには確かにあらゆる兎の体内をあの手この手で生き延びる、巡回するニンジンと不食のニンジンを真に食らう方法を記した調理本を奪い合う兎たちの群像劇が記されていた。川兎は遂に出会った老人に、その本が二度と兎の手に渡らないようにと頼み、自分はもう長くない、まだ最後の晩餐の途中だからと言って立ち去った。

 本には過去が記されている。しかし巡回する知識には始まりも終わりもない。

 兎たちの物語が本当に終わったのかは分からない。しかし老人にとってその本は調理本というより聖書に思えた。それは街の、決して立ち入ることのできない高い塔に住む少女の物語だった。彼女は死ぬこともできずに街が滅ぶのを待ちながら、案の定毎日正午に鐘を鳴らしている。彼女に食事を届けるのが老人の役割で、それは彼の一生の恋だ。私が詳しく話を聞けばそれは市役所の塔に違いなく、彼は毎日鐘の鳴る時刻に市役所図書館の返却ポストにカレーを投函していた。

 本当のことかは分からない、そう思いはすれど、排水路の隅、学習机に乗せられた老人の晩餐、一皿のカレーに浮くニンジンの橙色はあまりにも鮮やかであり……すすめられたものの、それを食べる勇気は起きなかった。

 何はさて、そのようなカレーが投げ込まれた図書館に、その本は所蔵されていたことになる。

 九つの門とは、だから、市役所であり城であるその塔を囲むものだと想像され、帳というのは私が潜ってきた津波のことに相違ない。そう、きっと私は遡ってきてしまった!

 水浸しの田んぼ、巻き取られるように脱落した雁木。終末の光景が巻き戻されていく。手繰り直した脈絡は、拍動を速めるのに十分な鮮烈さをしていた。

 港にはふりがなみたいな雪が積もり、旅の始まりとしての風情を修飾していた。誰かが片付けなければならないが、今はまだそのための力が足りない、そういう残骸の群れ。ここでは全ての建物がそういう風に在る。

 私の足跡を証明する積雪は、しかし人々の過去と交差する度本来持っていたはずの情報量を喪失していく。そういった誤解が私の頭の中だけではなく、きっと皆に巣食っている。最初から何も示してはおらず、一切の教訓を伝えない逸話もどきが散逸するのは当然のことだ。そうして私は最初につけた足跡を踏み直す。波音の中に佇む円環は均整のとれた形などもちろんしていない。この経路がきっと、私の旅路の総てにもあたる。このようにするのだ、このようにすればいいのだと、今となっては簡単にわかった。

 私は忘れてはいけないのだ。雪の温度に溶ける街や、蝕まれていく生活的正常の異音を忘れてはならなかった。その足音は私のものだ。もう一度確認せねばならない……確か日記をつけていたはず。その時、遥かな濁音がして、西の空に飽和する天までの句読点に気付き。そして。灰昧の渦巻く正午の鐘の音にふたたび寄せる夜色めく海。城まで逃げることも間に合わないので、急いでポケットから万年筆を探り当て、無質量に足元を掬って流れる水面、鳴りやまない鐘の響きに励起して細かく奮い立ち、六花の結晶体の先端を結び今にも光り出す星空へとペン先を浸す。黒い海の閃光に中てられて今にもバラバラになってしまいそうな体の内側から、凝結して読むこともできなかった記憶が溢れてきて、走馬灯を書き尽くすことはできないながらも、なんとか今日の日記に区切りをつける。疲れ果てて顔を上げれば、遠い塔の天辺の窓に見えた人影。


 ◇


 11時36分だ。門関の係員に聞くまでもなく市役所の壁面には大きな文字盤がある。

『am 11:36』

 私は財布を広げてほぼ合同な謎のカードたちをプラスチックシートの上に並べ、三枚の書類への筆記事項を順次埋めていった。私は自分の名前を思い出せずに苦労した。当然あらゆるカードにそれは記載されており、問題はなかったものの。二枚目のサイン。しかしやがて筆跡は青く薄れ、なぞっても文字が形にならなくなる。「このペン、インクがありません」係員は何も言わずに新品のペンを開封し手渡してくれる。

 図書館は市役所の地下の空洞に吹き抜けているが、巧みな採光設計はあらゆるオフィスよりもその空間を屋外に近づけていた。連なる高窓から陽の射しこむ踊り場を下ると、本を抱えて急ぎ上っていく少女とすれ違う。今日は休日だ。私は司書に本のことを何と聞くべきなのかを考えつつ歩いていたが、やがて何も思い至らないまま彼の前に立ち尽くした。

「本をお探しですか」「はい」「本の題名はわかりますでしょうか」「いいえ」「著者名などは」「わかりません」「ではあなたのお名前は」

 突如鐘の音が響き、城全体が一種躍動したとでもいうのか、そんな錯覚を覚える。長い音色に途切れた会話の余韻がもたらした少しの空虚な静寂があって、私は少しの動顛から、自分の名前さえ告げるのにまた財布を取り出さなければならなかった。司書はそれまでずっとマウスを弄っていた手をやっとキーボードに乗せて恐らく何かを検索し始める。老人は塔の地下にはアカシックレコードがあると語った。またそれは黒く巨大な六角結晶の姿をしていると。しかし当然ここにあるのは図書館であり、小さくはないがアカシックレコードというには大げさだ。もしくはそれが今目の前のコンピュータが接続された蔵書管理に用いられるデータベースにしても、まず六角結晶なる形をしているとは思えない。

「その本は今当館にはないようです…貸し出されたままずっと行方がしれません。しかしお力になれるかもしれません。丁度休憩時間ですし、少しお話ししませんか?」

 市役所図書館底円、大きな陽だまりの落ちる広場にはカフェが併設されており、依存性に訴えかける香気に心が安らいだ。ピアノの似合いそうな広場には函体ではなく、BGMとして『海辺と再会』が流れていた。ピアニストは……

「私も実は以前、その本を読んだことがあるんです」

 手掛かりは期待されるがまま得られた。懸念と希望は既に得られた情報からの連想にあたるから、単なる予測や予感と一致することもある。夢の展開が決していくようにそれらが事態を導いているわけではないのだと、今の私は知っている。司書と話すまで意識していなかったこと。本には題名と、書き手、出版した主体の名前、そういった情報が付随している。そしてふつう、本を探すときはそれらを頼りにする。しかし私は代わりに、その手がかりを裡に求めた。或いはこの旅路に。本には過去が記されている。しかし巡回する知識には始まりも終わりもない。

 カフェのカレーというのは往々にしてドライカレーであり、ここのは迂闊に嚙みしめたくはないクローブがゴロゴロ入っていた。

「最悪の場合にも、ドロドロのルーが書籍を汚すことはないように、こうなったんです。」

 人参が細かく刻まれた状態であるのも、その本に範を採っているのかと尋ねると、返ってきた返事は曖昧だった。

 司書によれば、その本は想い人を亡くした少女の冥界行に関する神話をもとにした大長編ファンタジーになるそうだ。少女は塔に登り、そこから身を投げることで地表という障壁を透り抜ける。そのとき脱ぎ捨てられた肉体が立てたであろう音。そんな音がBGMを搔き消した。赤。カレーとは違う赤。赤い音。本当はその前に響いたはずの風切り音が、我々の耳には届いていた。

 吹き抜けの底は杳として知れない。そこにはアカシックレコードが眠っていると老人は言う。ぶつけた疑問は粉砕され、地下書庫はB3階です、とだけ案内がある。求める本の無い図書館の地下へ、私は降りていく。少女はもう魂だけになって、暗がりに満ちる黴臭と違う位相を往く。

「行けば分かるはずですよ」そうして私の名前を呼んで、少しは動揺しながらも、何事もなかったかのように、というよりそれが日常であるかのように食器その他の後処理をして、全てをカフェに運び込み、司書は私を送り出したものの、小さな四角い螺旋の先にお手本のようにちらつく蛍光灯の並列な廊下、それらは無数の扉を抱えてどこまでも同じ景色のまま続いていく。気分が悪いまま歩いた。扉には小さな四角い窓と標識がついていて


『B-24』『B-26』                              『B-23』『B-25』


 右側には奇数列が、左側には偶数列が並んで競っていた。

 試しに一つの部屋に入れば、殆ど似たような装丁の殆ど似たような書籍ばかりが並ぶ棚。落丁版1、落丁版2、書籍の間には度々プラスチックのプレートが挟まっていた。部屋の一番奥には窓があり、そこから青空が覗いていた。それから窓の前にはどの書庫にも大抵図書館にあったものと同じ椅子が据えてあったから、そこで本を読みながら、ふと外を見たら、時折色とりどりなストライプの飛行船が目前や遠方に通りかかるのを目にすることができた。

 吐き気はずっと続いた。何も食べるものがない場所でよかったと思う程。歩いていると轟音がときおり響いて、蛍光灯は激しく明滅し、その間窓に映る反射した廊下の景色は左右で前後にずれていくのが分かった。轟音の度に、扉の間隔分を単位にして廊下は恐らく進展していた。導かれる推論は、この廊下が円環に閉じた回廊であること。しかし消失点は常に左右の正面にあった。

 同じ書庫内にある別の本を読むことにはほとんど意味もないように思われたが、表現の揺れによる意味の不明瞭性は遠い二冊を併用することで解消されることもあった。隣接する書庫に関しても内容は似通っており、そこには完結したように装った知識の流動があった。そしてそれを司る示唆が。私はその影を追った。

 どうやら彼は件の轟音の度に大きく思想の方針を転換していて、一見流動的に見える潮流は、共鳴点で屈折する。だから本の内容はよく理解した上でその先を常に推測し、音の間隔を心音で計りながら時には廊下を走り、時にはずいぶん待たなければならなかった。走っても走っても息が切れることはなかったが、あまり速く走れば消えてしまいそうで恐ろしかった。扉の窓の陰には何かが映り始めた。初めからそこに私はいなかったものの、何かの尻尾を掴めそうな気がしていた。轟音の間隔は短くなっていき、やがて廊下のがたがたという振動は止まず、窓の景色は左右で逆方向に並走し続けた。加速。巡回する知識それ自体の時間的変化を遊泳することは、はるか遠くに思いを馳せることにも思えて……まもなく


 ◇


 ある日、廊下は終端に達した。振動がやむ。突き当りの扉は『地下書庫回廊電鉄』。メロディアスなチャイムが鳴り、(海辺と再会だ)右手に並んだ全ての扉の中央を縦に一筋亀裂が走る。扉は一斉に左右に割れて、一時に流れ込んできた海風と日差しが冷色の淀みを濯いだ。『地下書庫回廊電鉄』の扉から現れた男は自らを車掌と名乗り。「ご利用ありがとうごさいます。終点、七津海岸。音楽堂へはお乗り換えです」

 ホームの時刻表と建時計の間にいくつかベンチがあって、そこに一匹の兎が座って本を読んでいた。「やっと会えたのだろうか」兎は鼻を震わせて顔を上げる。「違う違う。僕じゃないのですよ」

 しかし私が追ってきたのは確かに彼であるらしかった。「少女は君を追ってこないのか」「あの子は毎日どこまでも落ちていくでしょう。鐘を刻んでくれなければ、運行ダイヤもままならない。僕がその度に潜ったり出たりを繰り返していたら、街がめちゃくちゃになってしまうかも」

 乗り換え電車はすぐにやってきた。車掌たちは交代をして、同じ人が運転士を務めるようだった。架線も鉄道も、波の音のすぐ上を通って海の中に潜っていく。和音が海面にぶつかって跳ね返り続けていた。兎は窓の外を指さしながら私に色々なことを教えてくれた。

「海というのは一つの巨大な円盤なのです。また塔は音を削り取る旋盤。地上の三枚と、地下の六枚。針先とターンテーブルは限られていて、同時にならせるのは六枚だけだからです。どこまでが同じものなのかよく考えなければならない」

 確かに多層的な海面は海と空の比率をごちゃまぜにしていた。離着陸時の飛行船を食い破ろうとする鮫の群れがきらきら輝くのが見て取れた。乗員達はロープの梯子を下ろして脱出を図るも、芥子粒がごとく零れていく。戦闘機は手をこまねいて周囲を旋回している。日が緩やかに暮れていった。海面付近では潮騒が、航空領域では乾いた鉄道を鳴らす車輪がより強く響いた。夕暮れ時の雲海に突入するとき、黄金になって車窓にまとわりついた気泡達が摩擦で弾けて放電していくのが雷の仕組みらしかった。そして、そこを抜けるともう夜だった。

 鉄道の撓みから生じるパンタグラフの放電すら海中の塵に結晶し、星となって降るようだった。その光景が無数の記憶を想起するものの、それが何なのかは確かに分からない。完結したイメージの泡沫だった。

「まさか市役所がこんなに巨大な建物だとは思わなかった」そう言うと、兎はキーキー鳴いて喜び笑った。「並列的な記憶の内燃機関なのですよ。あの人に会いに行くんなら、映し鏡の回廊電鉄を降りてきてもらわなきゃ仕方ない。当然、光を燃やす深海は見えないダイヤグラムで巡っているのだし」市役所というより、それは浮遊してスケールを交換し続ける幾重の円盤群である。

 夜は車窓に反射する並走列車が明白になる。暗闇の閃光が互いに幽霊である全ての世界を照らしているからだ。彼らの世界との速度のずれはそのまま列車の速度差となり、左手側と右手側で前進と後退が食い違い回っている。いくらかの駅を超えて、それらはほぼ満員になった。それでも私達の車両には誰も乗ってこなかった。しかし少しずつ列車がレコードの内側に向かっていることは明白だった。やがて星も絶え静かな中に響いて発散していく金属和音の向こう側、ぼんやりと浮かび上がる樹木のような白い光が見えてきた。

「次は、音楽堂、音楽堂。降車の際は揺れにご注意ください」

 それは巨大な海の端を削る條々の六角結晶の上端である。六花の弁のそれぞれを架橋する共鳴音はそのまま純白の結晶体となって裾野へ、形を変えつつきっと対称に結んでいる。近付くにつれ、その途方もない巨大さと、甲高い金属音の内側に解きほぐされた複旋律が露わになって、移動し続ける(海の方が回っているのだ)塔の頂上に速度を合わせた列車が相対的な停車を迎え、旋律の隙間を縫って辻褄を合わせた新たなメロディーチャイムが左側のドアを開いていった。「僕はあまり行きたくないのですが……」と言っている兎を無理やり掴んでホームに降り立つと、回廊電鉄は逃げるように走り去り、後からレールが音に吹き飛ばされていった。「これがアカシックレコードなのだろうか」「え?」耳を離すと兎はぽとんとホームに落ちる。「確かに存在しない全ての両端は、みんなこの針の先端に結ばれているでしょう」それは目に見えるものではなかった。しかしそちらからしたらこちらもまた見えていないのであり、つまりあなたはどこかにいるはずなのだ。

 音楽堂の外観は三角屋根だったが、内側は広い球状のドームで、天球儀みたく升目状の直線で区切られた輝く硝子の勾配屋根が十二本の銀の柱に支えられていた。中央にはあのピアノがあって、当然そこには誰も座っていなかった。飽和和音のブラウンノイズ。灰の海に揺られて、拙いながらも少し習った時のことを思い出しつつ暫く遊んでいると、いい匂いに導かれて開かれていた扉をやっと見つける。兎は真っ先にそこに飛び込んでいったに違いない。

 その部屋もまた円形に扉に囲われていたものの、全ての扉は鉄柵の隙間に立ち、一見屋外のバルコニーだった。しかし暗い中に浮かび上がったような空間で、その空が何なのかは定かでない。部屋の中央には食卓があって、円辺に腰掛けた少女は地面から延びる真っ直ぐな針に身体を刺し貫かれ、腹から海を生じていた。針はどこまでも高く続いている。一体どこから落ちてくれば……

「あ、こんにちは」「こんにちは」「あなたの分もあるから食べてね」「じゃあ……いただきます」

 食卓には彼女の分と私の分の銀匙とシチューがあって、正直なところ空腹を抑えられなかった。

「ほんとは魚ニンジンを連れてきてくれたらよかったんだけど、でもまあ競争相手が減るのに越したことはないし、これはこれで柔らかくてとてもおいしいしいいや」

 具材は肉だけだ。それでも味は濃く大分うまかった。

「これは晩御飯、お昼はいつもカレー。まず過ぎてひっくり返っちゃうんだ、空の上からここまでね。毒が入ってるわけじゃないんだけど、あれを作ってる人はもうちょっとちゃんとレシピを読むべきだと思う。わたしのシチューの方が百倍うまいね」

 少女は楽しそうに食べ物の話をしながらさっさとシチューを平らげてしまった。しかしそれらは恐らく食べたそばから海に変わって空中を渦巻いていた。そして彼女は満腹の幸福の延長に喜色を滲ませて

「ねぇ残念だけど、あなたが探しているのは多分わたしじゃないよ。でもあなたと話してみたかったんだ」

「ああ、私が探しているのはとある本なんだ。噂を耳にした程度だが、色々なバリエーションがあって興味をそそられる。だからこうして休日を利用して色々な人に聞いて回ってるんだ。それだけだよ」

「ふーん……云千年前から急に見かけなくなったから、ここにくるんだと思った。わたしを探しに」

「ここはどこなんだ」

「ここは鐘楼の鐘の中、あそこにはここからしか行けないから大変なんだよ。あとは落っこちて終わり。あなたにとってはずーっと続いている日々でも、わたしにとっては一日が何度も繰り返しているだけ。そういえば聞きたかったんだけど、あなたはいつも何をあんなに一生懸命綴っているの?」

 綴っていると言われて心当たりはなかった。仕事か事務手続きの書類くらいか。後は時折日記をつけることがあるくらいだ。海は鉄柵に纏わり、朧げな支柱や屋根を築き始めているように見えた。何度も見覚えのある外装。

「まあいいや!ねぇこれあげる」

 そういって差し出された本を立ち上がって受け取りにいく。

『空想ノートその∞』

 ふざけたタイトルがマジックペンで記されたキャンパスノート。

「暇なときにここで考えたことを書いてるんだ。とりとめないけど、よかったら読んでみてもいいかも。一度書いたことはどうでもいいし、ここに来た人にあげることにしてる。もしくは使い切って窓から順番の方角に投げるの……あーあ。こんなに待ったのにそろそろもう時間かも。まあでもいいや。まだきっと楽しいことはたくさんあるし、神さまもまだ帰ってこないしね。さあ、いつものようにお家へお帰りなさい」

 立ってみて気が付けば眼下には街があって、その上には青空があるようだった。また雪が降っていた。それはあの世で見た様な光の結晶だった。体を貫く針は消え失せていて、自由になった少女は街を見渡し。

「今日くらいはお昼ご飯食べなくていいや。水平線が見えるのはここからだけだよ」

 彼女は自身の海が形作った鐘楼の鐘の緒を思い切り引いて鳴らす。私は体がばらばらになる気持ちがした。水平線は、それに共振するように少しずつ撓む。口の端から言葉が漏れる。それは音でも形でもないようであり、再び夜色の海が押し寄せる。私は音に圧されて遂にバルコニーから滑落しかけ、少女はそれを見て思い切り私を突き飛ばし、そのまま二人一緒に落下していく。彼女はジェットコースターにでも乗った時のように叫んでいる。私は息を詰まらせて、言葉だけを吐き出し続け、ついに幾重もの図書館の採光窓を突き破り、やがて体はバラバラに解けながら、急速に街を浚っていく波に弾けた。そんなことがあった。


 ◇


 光らなかった。陽射しを受けなかったせいではなく、性質の違いとして。或いは単に、それが帳の裏側にあるから。

 私の探すあの本がきっと、見つけるために、そこに書かれたことをなさねばならない類のものであることも、恐らく私にはわかっている。


 ◇


 また、壊滅した港に雪が降っている。私の足跡は8の字を結んで、それを踏み直してはズレを擦り消すから、一つ一つの足跡がもう足裏の形をとどめていない。擦り広げられた足跡同士が接続して、いずれ曲線を形作る。度が過ぎれば線の境界は癒合して、記憶と歴史は塗りつぶされてしまうだろう。吐き出した白い息は銀世界に重なって、夜の部分にしか確かめてもらえない。


「九つの門より出でて帳の裏から還れ」


 語られなおす警句は、都度所有者を変えるだろうか?刻まれた言葉は誰のものになる?右手に掴んだままだったキャンパスノートが、編み直された身体の形を教えてくれた。私の日記は句読点に押し流されてしまったから、今日からはこれが私の日記だ。引き継がれない記憶に、私のよしなしごとが注ぎ足されていく。連鎖する空想は持ち主を替えることができているのだろうか。実は一度失って、それっきりなのではないのか?

 段々吹雪いてきた港で、嘘みたいに波だけが静か。瓦礫の山は風に攫われて巻き上がっては散らかり方を変える。組み上がりかけては解けるその姿は、きっとかつての活況同士をかけ合わせたちぐはぐさなのだろう。

 知識の巡回にも円環があり、収縮と摩耗を繰り返して再構成されるまでのもう一つ巨きな円環がある。だからあの市役所はたしかにアカシックレコードだった。正確には、その一部だった。

 夜が雪と風に追い出されて、今度私が失ったのは言葉の方だった。それは今まで確かに白く結晶していて、背景との乖離にのみ確かめられるものだった。息は吸えても、言葉は吸えない。私をして、吐き出すことしかできないものが言葉だ。

 両の手指は硬直して、筆記具は歪んだり、取り落とされたりする。雪はそれを受け止める。跡が残る。その上から覆い隠そうとする。私は抵抗しようと、腕と身振りで言葉を紡ぎ出す。白く閉ざされた視界を切り裂きながら、この舞踏は8の字の足跡を大きくは外れない。そうして気付く。本は紙にインクで書かれるばかりではない。

 巡廻する知識には終わりも始まりもない。巡廻する中で伸び縮みするその知識が、どの段階においてもその知識であることに違いないために、その伸び縮みは可能な幅の限界と種類を持っている。だからひとつの知識だけではもちろん、アカシックレコードとは言えない。私は複数の市役所を編んだ織物を手に取る。きっとこの手触りは、海の輝きに由来する。帳の裏で、輝きを避ける海が割れた。


 ◇


 間違えないように一語一語を綴った。同居人に、ちゃんとした生活は執筆作業のことではないと言われる。ただし、何をすべきかは分かりきっていた。あらゆるものが言葉であることに境界はなく、同時に、人間は意味のある夢を見続けることができる。私の内側を走っている無数の言葉たちが口にする一つの同じ祈り。

「本当の世界はたった一日しかない」

 取り戻せるのならその一日を。何故破壊され続けるのか、それは正に私達が同じ人間じゃないからだし、それらが同じ言葉じゃないからだ。永遠は本当に美しいのか?光は何故肌を刺す。何かの間違えでさえ日々がたった一日に、言葉がたった一言に結ばれてしまえばどうなるのか、あなたは知っているだろうか。


 ◇


 なんとなく、小説を書くことを考えていた。通退勤時に読む文庫本がなくなったからかもしれない。もちろん駅前の書店に行けば適当な新刊を手にして新たに読み始めることはできる。しかし今までに続けてきたような、興味のあるジャンルの作家達が紡ぐ相互影響や文脈を追う行為に、とうとう釈然としない終わりが訪れてしまった。寝室の本棚に読んだ順で並べられた背表紙が、長大な一冊の本の目次のように見え、その最端に自分が立っている気がした。

 勤務中、書類の内容、必要な手続き、人々の稼働状況、そういった情報をソートしていく作業の中にも実は曖昧な隙間のようなものがあると気付いた。目まぐるしい、溢れんばかりの物量に覆い隠されてはいるが、そこには必要な「言葉」が足らず、自己の範疇にないそれらの空白を何らかの「言葉」で埋め立てる必要があったのだ。

 そういう時決まって思い浮かぶのは娘とのままごとだった。お姫様は塔に幽閉され、兎(物語は人形の種類に制限を受けている)がそれを助ける話。何度繰り返したか分からない。ただしお話には無数のバリエーションがあって、既存のアイデアはストックされ組み替えられていくから、いくつも分岐拡散していく脈絡の中、兎がお姫様を助けに行くという主題は不変のまま、必ずしもそれが達成されるとは限らず、時に兎は姫自身の手によって惨殺されもぐもぐ食べられちゃったりするのだ。娘と私の対話によって引き起こされる物語の算術には、思えば電車内で読んだ小説の内容が多分に反映されていたようにも思う。幾度と繰り返される毎に、私の中には兎と姫の話に関する異様な普遍性が醸成され、現実生活のあらゆる経験でさえ、兎が姫を助けようとした余波として巻き起こされたものと解釈され得る気がしていた。

 間隙を見つける度、パズルのように言葉を探した。兎の影を追いながら。小説を書きたいと思いながらも、手帳に溜まっていくのは互いに分断された詩片のようなものだった。本を読まなくなった代わりに車内の人々の細かい振る舞いへ自分の記憶を当てはめて、解釈を大別していった。私が思うに、人には九つの類型がある。それは彼らの抱く言葉の束に相当し、私と彼ら、彼らと彼らの間に必要な言葉は容易に判明していく。それが面白い。

 そしてある時ふいに、互いに浮動していた詩片が、連結されたいくつかの円環に変貌した。また、それはどう見ても兎と姫、私に相当する人格を含む主人公九人と、それらにまつわる九つの世界が互いに影響しあう群像劇的な物語だった。それぞれの世界の規律が矛盾を溶かして混ざり合い、関係にあらゆる事象を内包し、そこではどんなことが起こっても不思議ではなく……せっかくそこまで思いついたのだから、次の休日、大まかに本文を書き始めてみようと思った。


 ◇


 寒い日だった。朝、寝ている妻の額にキスをする。空気が冷たくてすっと夢を忘れてしまった。本棚の脇にピアノがある。触ってみたかったけど、起こしたら悪いし後にしよう。リビングルームでは早起きしたらしい娘が椅子の上から窓枠に凭れて外を眺めていた。結露を拭った跡がある。海ではなく、空を眺めているのだろうか。扁平に白く曇った空。「おはよう」「おはよー」ぼーっとしているみたいだった。静かだった。電動ミルに豆を入れ、動かして初めてちゃんと音を聞いた気がした。ぽとぽとと、泡や香りを立て、コーヒーの湯気は冷気との摩擦で対流した。昨日のスープを温めなおしたものにパンを浸して、ダイニングテーブルで娘と向かい合って一緒に食べた。いつの間にかピアノが鳴り出した。流暢な二つの旋律は、部屋にあった最後の静謐さをどこかへ持ち去って、暖房が効き始め、それらは純粋な生活になった。「ねーパパ遊ぼ」すぐ食べてしまった娘は持っていたのであろうぬいぐるみを机の下からぱっと取り出して言った。「うん」電話が鳴った。娘が待っている横で話をする。彼女が持っているノートにはこれまでのあらすじが、彼女にとっては努めて厳密な絵や文字で記されている。「ごめんパパ仕事行かなきゃ」「えー!!なんでだぁ」「お話考えておくから。結構いいの思いついたよ」「え、うーん……やだ」急いで支度をした。ぬるいコーヒーを思い出してさっさと飲み干す。玄関から、「ちょっと呼ばれたから職場行ってくるね!」と叫ぶ。途切れないピアノ、そういう時はどうしようもないので黙って出かけることにする。娘がリビングルームの入り口からこちらを見ている。予報は雨。靴ベラをブーツに刺し込む。足を入れると靴ベラが抜けなくなった……………遠くから妻に名を呼ばれてはっとする。「ねぇ、晩御飯何にする?」「カレー!!」靴ベラが抜けた。また鳴り出すピアノ。

 改札を出て駅前、休日の朝は少し疎らで雑踏の質が違う。宗教家の演説。抑揚のない明瞭な声で何か説いている。「天の街の姿を思わねばならない。正しい願いは正しい償いによって叶えられる」正しい願い、正しい償い……ピンとくるものではなかった。立ち止まって聞いていた自分に気が付く。ふと隣を見ると、鉄柵脇、跪いた浮浪者が祈っていた。目を開いて遥か上を眺めながら。どうしてか、太陽に祈っているのだろうかと思った。

 市役所に着いて暫く確認作業を続けていくと、呼び出された原因である部下のミスはさして大きな問題ではないことが分かってきた。腹立たしいが仕方がない。「次からは気をつけてくれ。お昼だから休憩」私は併設の市役所図書館に足を運んだ。いつものの明彩は沈んでいる。ずいぶん前に読んだ本のことが気にかかっていて。

「本を探しているのですが」

 明白なタイトルも作者も思い出せず、司書に断片的な情報を伝えてみる。

「あー、もしかしてこれでしょうか……書庫にあるかもです。お持ちしますので暫くお待ちくださいね」

 持ってきてもらった本の表紙には青空の上を色めく飛行船が描かれていて、確かそうだった。私はその本を借りることにして暫く読み進めた。風の叩く音に連なる高窓が異様に明るく、事務所に戻ってから外を見ると確かに雪が降っていた。

 六時ごろ、吹雪になった、傘もなく。冷たい風に吹かれながら同僚と駅までの道を歩く。

「小説を書く計画がパーになった。明日は本当の休みだ」

「ろくでもない小説を書いてるのか。まだ早いけど久しぶりに一軒行こうぜ。お前の部署に合いそうなやつがいるんだよ。人員交替。小説の話も聞かせてくれよ」

「いや、俺は家に帰ってカレーを食おうかな」

「カレーか」

 駅、街を満たす二つの環状線の境界にある三つ目のホームにおいて二人待った。

「じゃあな。気をつけろよ、雪の鋭い冷たさでお前の生活が壊されてしまうぞ」

 同時に到着した相対する列車の車掌同士が何故か一度降りて入れ違いに交替していく様子を眺めながら乗り込んだ。

 電車が走るほど、天気は悪くなった。窓の街は白く塗りつぶされていった。いつもより少ない乗客たちが、駅を経るごとにもっと少なくなっていく。駅を経るごとに、停車時間は延びていった。風景と呼ぶべくもない白は灰色に暮れていった。

「ご乗車のお客様、誠に申し訳ありませんが当路線は運休となりました。非常な悪天候ではありますがお忘れ物のないようにご降車下さい」

 電車を降りると車掌と会った。アナウンス越しでない彼の声はこんな時なのにやけに明るかった。

「あなただけですか。いや、すみませんね。天気はどうとも」

「あなたはどうするんです」

「私は、駅に仮眠室がありますから」


 ◇


 酷い吹雪も、幸いなことに歩いていると段々収まってきた。それでも家に着くのはだいぶ遅くなってしまい、もう日も回ろうかという時刻だった。凍えていた。窓が明るく、玄関で娘が待っていた。

「ママ帰ってこないの」

 家中見てもいない。靴もない。また外に出て、見下すと暗い雪原。風も落ち着き、海上の空は晴れ間に眩しいくらいの星々を持つ。そして、街中にけたたましい音が


(了)

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