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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ロドス島のヨハネ

作者: 鳩螺流

 十五世紀、ロドス島。

 この島は今、運命の岐路に浮かんでいる。


 かつてコンスタンティノープルを落とした、皇帝スレイマンⅠ世率いる近代化の権化たるオスマン帝国海軍の襲来。

 十万人もの兵。

 港湾を封じ、絶えぬ砲撃と、まるで一生命体の如き結束力で進撃して押し寄せる、圧倒的な包囲網。


 対して、島を本拠点とするロドス騎士団。

 兵はたったの五百人程度。

 しかし弛まぬ努力と改築を累積して築き上げた、脅威の要塞都市。

 底知れぬ信仰心と、止めどなき闘争性による恐るべき拮抗能力は、彼らをギリギリまで延命させた。


 後に語られるであろう。

 西欧最後の聖地。

 その黄昏。

 多くの信仰と覚悟が血と死臭で洗われ、最後まで神の輝きだけは絶えることの無かった、神話の戦場。

 ———ロドス包囲戦、と。



 およそ六ヶ月にも渡る戦いだった。

 砦の占領と奪還の絶えぬ合戦。

 城壁は爆破と修復の繰り返しで、終わりは見えなかった。


 しかし戦いも佳境を迎え、とうとう騎士達も帝国も指揮が低下し極まってきた、十二月の中旬。

 騎士団長のリラダンから、帝国に対して三日の休戦を申し出たのだ。

 その間、休戦状態を崩さないよう、互いに人質となる者を送り込んだ。

 騎士団からは、あるスペイン騎士が送り込まれた。

 彼は暴力的に腐りつつあった騎士達の中でも、その崇高な信仰心と、他者への慈愛の心を忘れない、敬虔な若者であった。


 名を、ジュアンという。


 オスマン帝国のムスリムは、ひとり敵対心を燃やすジュアンを、地下の独房に入れ、牢を閉めた。



「では、若い戦士よ。貴方は今人質であり、同時に重大な立ち位置にいる。」


 独房の外から男が、非武装状態のジュアンに向かい、最低限の敬意を込めた言葉を敵として送る。

 頭から足首までにターバンで身を包んだムスリムの戦士だ。


 ムスリムは腰を下ろす。

 部屋の隅に静かに座るジュアンと目線を同じくして、互いが対等な存在であることを伝えんとする。


「我々の答えは、其方が悟る通りのものです。そして我々は、断固としてそれを曲げるつもりはありません」

「その答えが果たして真理であるかの是非を問う対話なのだ。貴方には私の言葉に応じる義務がある」

「我々は神の御言葉に従っているだけです。それを真理と言わずなんというのでしょう」

「お前達が開城を渋れば渋るほどに、島のギリシャ人やユダヤ人はいたずらに苦しむだけだぞ。皇帝陛下は余計な犠牲を嫌うし、きっと神もそれを望まれてはいない」

「あなた方の騙る神が、でしょう?」


 ムスリムが沈黙し、僅か数秒会話は切れる。

 ジュアンのその言葉は、今に至るまでの、キリスト教徒とムスリムの歴史の実態そのものと言っても過言ではないだろう。


「……今更信仰のすれ違いについて語るつもりか? 我々は何世紀にも渡り、あなた方に語ってきたぞ。我々の宗教とあなた方の宗教はその本質を何も違えていないのだと」

「いえ、あなた方の言う神と、我々の知る神とでは大きな違いがあります」

「神が外在するか、偏在するか、ということであろう?」

「神は決して死なない、不滅です。しかしこの地上に生きる被造物はどれも例外なく死ぬでしょう。神は永遠であり、世の理で語り尽くせないのです。遍在している神はやがて死ぬし、そのような神は創造主ではない、異教の偶像なのです」

「それは違うのだジュアンよ、神は確かにこの世に遍在するのだ。この世全てを超越しつつ、あらゆる時と場において存在する。我々の感覚のみでは把握不可能な精神的な存在だからだ。故に、外にいるか内にいるかというのは戯論に過ぎない。我々は決してお前たちの思想を否定したいのではないのだ」


「ジュアン……いや、ロドス騎士よ、あなた方は今目の前に広がる人々の苦しみの浄化よりも、終わりの見えない神性の議論に魂を尽くすほうが重要だと言うのか?」

「どちらか、ではない。我々はどちらも選んできたのです。五百年前、神は確かに言われた、"異教の地で傷付く兄弟達を救え"と。我々は神の命にただ従う。あなた方は我らの兄弟に刃を向け、平和の城塞をあの兵器で粉々にしてまで、その安寧を暴力的に歩み荒らす。ならば、我々はあなた方の如何なる暴力にも屈さず、剣を抜くまでです」

「………ならば、それは我々の方からも糾弾させてもらおう。あなた方がこの島に駐屯する間、あなた方の海軍……と、名乗るだけの海賊共の、我々の同胞に対する不義をな」

「…………」


 それまで反論を絶やさなかったジュアンの言葉が、その時ようやく途絶えた。

 ムスリムの糾弾が、ジュアン達ロドス騎士団と契約していた海軍達による、日頃の防衛とは名ばかりの海賊行為を示していたと悟ったからだ。


 政治的な損得勘定故の結果とは言え、こればかりはジュアンからしても、物申したい想いが募っていたのだ。

 無実の者を、自分達から一方的に海に沈めているのだから。


 自分は、その蛮行を遠くから眺めるのみ。

 フランス軍団はそれを気にも止めない。

 だがスペイン騎士であるジュアンにとって、傍観するしかなかったその光景は、酷く胸を痛めるものに他ならなかった。


「かつてのあなた方なら、そのような行為には走らなかっただろう。あなた方騎士団は宗教の垣根を無視してまで、傷付く他者を治療する慈悲の持ち主だったではないか」


 かつて聖地エルサレムに駐屯していた、三つの騎士団。

 テンプル騎士団。

 チュートン騎士団。

 そして、聖ヨハネ騎士団。


 中でも聖ヨハネ騎士団は、騎士団にも関わらず病院と宿泊施設を兼ね備えた、紛れもない医療団体であったのだ。

 修道会の一部にも関わらず、キリスト教徒だけでなくムスリム達の治療をも事欠く事が無かったという。

 恐らくこの時代においては唯一無二の団体だったと言っていい。


 そして何を隠そう、この聖ヨハネ騎士団こそ、現在ロドス島を死守せんと戦っているロドス騎士団の前身団体なのだ。


 しかし、それは今より数百年も遡る話だ。

 今を生きるジュアンには、当時の彼らの精神は測れない。

 歴史としてでしか、知る事の出来ない栄光なのだ。


「……それはきっと、今を生きる我々も含めて、地上に生きる全ての兄弟が"悔い改める"ためだったのでしょう」

「悔い改め?」

「そう。当時の騎士達は恐らく気付いたのかもしれない。"ムスリムとは悪魔ではなく、考え方が異なるだけの遠方の兄弟なのではないか"と。"遠い砂漠にて苦しむ兄弟"というのは、あなた方ムスリムという"思想を違えた者達"だったのだと」


 それは、遠い西欧から身を挺して聖地にやってきた騎士達への、神からの崇高な天啓。

 神は人を一人たひとも見捨てない。

 地上の罪人を残らず救う。

 つまりそれは、逆説的に捉えるなら"人でない何か"を救う事は無いのである。

 異端へと転がった者達、異教より脱せない者達は尚のことだった。

 それならば、神が地上の暗黒に対し沈黙するのも納得がいく。


 ———今の自分達に、"人間"を語る資格は無いのだと。


 外れるべくして外れた人の道へと、回帰することのない罪。

 罪を犯さずにいられない人間の性を、受け入れつつあった罪。


 見兼ねた神は、きっと最後の憐れみを降らしてくださったのだろう。

 それはまるで、渇ききった荒野に降り注ぐ雨のようだっただろう。


 十字軍遠征。

 参わるだけで赦されるという聖地奪還の戦いとは、きっと"人類の主体性による悔い改め"だったのではないか、と。



「彼らは、その意志を継いでいたのでしょう。聖ヨハネ騎士団……ロドス騎士団というこの忌々しい蛮族達の前身は、そうして医療奉仕というカタチで、あなた方に赦しを与えていたのかもしれない」

「では、今はどうなのだ? あなた方は我々の罪を赦してくれるのか?」

「…………我々は、失敗した。ロドス騎士団などという愚かな業を負って、今なお、あなた方に対して一方的に刃を向けている。いたずらにあなた方の安寧を簒奪し、踏み躙った。剣を取る者は、剣によって滅ぶのです。貴方の言葉には、先程から出来損ないの言い訳しか返せないでいる。自分が恥ずかしい。本当は、我々にあなた方を浄めるような権利など無い」


 ジュアンの言葉には、溜め息が混じっていた。

 廃れた世代に生まれ、その業から脱せない自分の生き様に吐き気を覚える。

 何のための騎士道か。

 何のための十字架か。


 "罪を負わずにいられない人間"とは、即ち"罪を赦されようと神を愛する者"に他ならない。


 しかし自分は違う。

 神を愛するどころか、自身の感情すら押し殺して異邦の兄弟を幾多も手にかけた。

 自分だけではない。

 リラダン団長。ラ・ヴァレッテ秘書官。

 もはや勝ち目の無い戦いだというのに。

 護る意義すら失った島だというのに。

 皆、そんな島の守護を建前に、忌まわしい異教徒の悪魔を討ち滅ぼさんと躍起になるだけだった。


洗礼(ヨハネ)騎士団】を名乗る権利など、自分達の何処にあるというのか。




「ジュアンよ、私は貴方を軽蔑しているのではない。むしろ、私は貴方を尊敬している」


 他に誰がこの場にいようか。

 それは、紛れもないムスリムの真心の言葉だった。


「貴方は不思議な方であった。敵だというのに、戦場の真ん中で疫病にやられ倒れていた我が軍の兵士を、ある言葉を投げ掛けたと共に救い、ましてやその治療法を我々に提供されたではないか」


 その話は、ジュアンの中で僅かに心当たりがあった。

 しかし、詳細は定かではない。

 過酷な環境下にしばらく身を置いていたため、もはやそういった事細やかな出来事を鮮明に覚えておく余裕は無かったのだ。


「……言葉、というのは?」

「———"今この瞬間より、貴方は生まれ変わる。蝮の末よ。よく聴け、あなた方の生涯、あなた方の業をよく顧みて、神にその罪を告げ、悔い改めなさい"」


 思い出した。

 自軍と敵軍が退く中、自分とその病人、その付き添い人だけは野原の中に残り、自分は確かに二人にそう言ったのだった。

 この言葉は、元騎士であったジュアンの父が、息子であるジュアンに向けてよく言い聞かせていた言葉であった。


 どのような人間も然るべくして罪を重ね、やがては腐る。

 だからこれ以上父なる神の逆鱗に触れてはならず、常に己を省みなさい。

 と。


「陛下が和平と追撃の二つの選択肢を持つ自由を得られたのも、一概にその優れた医学知識と、貴方自身の慈悲深さがあってのものと言えよう」

「……敵に塩を送ってしまっただけにあります。もはや私には、神の赦しを受ける資格すら無い」

「ジュアンよ、貴方は紛れもなく"洗礼者"だ。貴方の愛があったからこそ、陛下は此度の猶予を赦されたのだ。貴方が我々の罪を清めてくださったからこそ、我々は急速に手にしたこの科学の力と、改めて誠実に向き合う事を決意できたのだ」


 オスマン帝国が、今後皇帝スレイマン達の世代が生きる限り。

 決して自分達が暴徒に成り下がる事の無いよう、心に強い戒めと警句を定めるキッカケとなったのだと。


「改めてジュアンよ、貴方に感謝を」


 きっとこの若者は、背中合わせで戦う兄弟達の穢れに憂いを覚えながら此処にいるのだろう。

 若者は知ってしまったのだ。

 愛一つが、誰かに与えるものの大きさを。

 それが如何に矮小で、蝮の前において無力であるかを。


 医療という名の洗礼。

 決して正式な儀式でもない。

 その清らかさは、かのバプテスマのヨハネの献身には全く適うものではないだろうが。

 このジュアンという若い修道士の行為には、誠の愛が深く根を張っているのだろう。


「……貴方のその感謝こそ、私に対する洗礼であったのだと、いずれ証明してみせましょう」






 いたずらに経過した休戦協定が解かれ、騎士団は答えを問われるも、結局、結論を出せぬまま、互いの人質を送り返した。


 さらに一日待った帝国軍だったが、やがて砲撃を再開した。

 騎士団も応戦する。

 攻防は数十に渡って続き、既に全壊となったハズのアラゴン城壁を中心に、戦線全域で展開された。


 砲撃は止まない。

 敵味方共に、一人二人と減っていく白兵戦。


 ジュアンの尋問をしていたムスリムも、この戦いに参加していた。


 砲撃が直撃し、凄まじい土煙と共に壁が崩れる。

 煙が静まった後に見たものは、石と砂利の間に動かない、幾人もの敵味方の兵。

 やはり凄まじい威力なのだろう。

 その一帯だけが、戦場とは思えない静けさに支配された。


 ふとジュアンの、現実に押し潰されそうな憂いの中で、他人に対する優しさの滲む瞳を、思い出す。

 ようやくはっきりしてきた彼の頭の中に、忽ち恐ろしい想像が立ち込める。


 ———悔い改めよ。


 先日独房で、ジュアンが口にした言葉だった。


 かつてイエスキリストの自己犠牲により赦され、新たな生を持って復活した、我々人類。

 しかしそれ以降に積み重なった罪はまた別である。


 我々はまだ、赦されていない。

 その真実が、どうしようもない重苦しさを帯びる。


 ムスリムはもはや何も考えなかった。

 無惨な石塊の山と化した城壁の上を這い、やがて生き延びた。

 もはやこの戦場に救いは無く。

 罪の残り香と重たい沈黙だけが、この荒野を空しく吹き抜けるだけだった。




 そうしてようやく、騎士団長は開城を決意した。

 朝は厳かで、港は上へ下への大騒ぎであった。


 ムスリムはかの男の安否を確かめに、私情で港へ赴いた。

 しかしジュアンの姿形は見当たらず、後に戦死したと耳に入れた。

 首から上が、砲撃の破片で飛んでしまったのだという。


 彼は最後まで、敵味方の兵の救護にあたり、戦場で一人でも多くの命を救おうと献身したのだと。

 生き残った騎士や島民は、彼を讃えるようにそう語った。



「———ジュアンよ、貴方こそ、真の"洗礼(ヨハネ)騎士"であった」


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