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銀色の北十字 弐  作者: たき
5/9

(5)

「え……もしかして婁珠? うそ、いやだあ、久しぶりっ」

 白羊を見た柳女は最初目を見開き、すぐに声音をはね上げて走り寄ってきた。

「衛士になっていたのね。そうよね、婁珠って昔から剣術が得意だったものね。あら、じゃあ人馬様がおっしゃっていた『やたら怒る』女性副団長って、婁珠のことなの? ふふっ、変わってないのねえ」

 やたら怒る、を強調した柳女は、にこにこしている。人馬がこそこそと顔をそらすのをにらみつけてから、白羊は心の中でため息をついた。今日は間違いなく、人生で最悪な日の一つだろう。

「……今、人馬宮にいるのか」

「そうなの、先日働きはじめたばかりなんだけど、人馬様がすごく優しくしてくださるのよ」

 いやそれほどでも、と隣からぼそりと小声が届く。人馬はよそを向いたままだ。

「では、最近人馬が仲良くしているとかいう女官は柳女なんだな」

「ええっ、もうそんな噂が流れてるの? いったい誰が漏らしてるのかしら」

 恥ずかしいわ、と若草色のふわふわした髪を振りながら照れる姿がかわいらしい。柳女は自分のことを変わらないと言ったが、柳女も全然変わっていない。前から豊かだった胸元は、さらに大きくなったことを主張するかのように、大きく広げて谷間を見せている。

「それで、人馬の忘れ物というのは?」

 完全に沈黙している人馬の代わりに尋ねた白羊に、柳女が「これなの」と大きな封筒を手渡す。

「副団長に提出する書類だったみたいなんだけど」

「ああ、()()()()()だったものだな」

 受け取りながら、白羊が嫌味を込めて言うと、人馬の体が跳ねて縮こまった。

「わざわざすまなかったな。確かに受け取った」

「ところでこれはいったい何?」

 柳女が鼻をつまみながら山積みの服を指さす。自分はもう慣れてきたが、やはり入ってきてすぐだと気になる程度には臭うらしい。

「団員たちの繕い物だ」

「こんなに? 衛士って大変なのねえ。人馬様のものもあるのかしら」

「俺は持って帰って自分でやってるから」

 ようやく人馬が答えた。顔はまだそむけたままだが。

「まあ、私に命じてくださればいいのに。私、裁縫は得意なんですよ」

「あー、じゃあ今一枚星宮に置いてるから頼むよ。女官長が知っているはずだから」

「お任せくださいっ」

 自信たっぷりな様子で柳女が揺れる胸をたたく。案内してきた団員が戸口でぼうっとそのさまを見ているのに気づき、白羊は眉間にしわを寄せて髪をかきむしった。

「柳女、馬車で来たんだよね? 衛府の外まで送るよ」

 人馬が立ち上がる。

「一人で帰れますわ、人馬様」

 使いで来たのに送ってもらうわけにはいかないと言う柳女の背に、人馬はそっと触れた。

「君が来ると衛府が困ったことになるから」

「困ったこと、ですか?」

 柳女が問い直す。首の傾け方一つでも色っぽさは表現できるのだなと、白羊は感心した。

「白羊、後でまた手伝うよ」

「必要ない。私一人でやる」

 白羊は手元の服に視線を落としたまま断った。柳女とは全然違う、かわいげのかけらもない口調に、自分でうんざりする。

「婁珠、また会いましょうね」

 ほがらかな声を残し、柳女が人馬と一緒に出ていく。一人になった詰め所内で、白羊は補修し終わって糸を切った服を放り投げた。

 人馬の柔らかい語りかけを初めて聞いた。いつも軽口ばかりだと思っていたのに、相手によってはあんなに声の調子が変わるのか。

 なんだかとても疲れた。服を押しのけて机に突っ伏した白羊は、そのまま目を閉じた。



 柳女はそれからもちょくちょく使いと称して衛府を訪れるようになった。眠らせてくれない彼女という噂が先にあったせいで、衛士たちは柳女を人馬の恋人として扱い、うらやましがった。

 柳女に再会した日、いつの間にかうたた寝をしていた白羊は宰相府の鐘の音で目を覚ました。しまったと思ったら、自分の肩には仮眠室の毛布がかけられていて、頼まれていた繕い物も半分以上が片付いていた。その礼を、白羊はまだ伝えられないでいる。

 サギッタリウスを荒らしていた盗賊はまもなく捕まった。三年前、人馬が不正を暴いて商売する権利を奪った男の仕業だった。サギッタリウスを追い出された男は、星座を転々としながら人馬への復讐を企て、盗賊を雇ってサギッタリウスを襲わせたらしい。

 再度人馬の手で捕縛されたとき、人馬に対してあらんかぎりの暴言を吐き散らした。もう更生は望めないと判断され、一生を衛府の監獄で過ごすことが決まった。

 サギッタリウスはようやく落ち着きを取り戻したが、人馬の寝不足は続いているようだった。時折獅子と二人だけで話をしているほかは、ほとんど衛府で寝ている状態だ。しかもなぜか仮眠室ではなく詰め所で休んでいる。さすがにおかしいのではと白羊も火使団員たちもいぶかしみ、獅子に問いただしたが、「俺がいいと言っているんだ」と獅子は笑うばかりで、何の説明もなかった。

「お前さ、いくら好きでもちょっとやりすぎじゃないのか?」

「そうそう、仕事に支障が出るってまずいだろ」

 ある日、団長共同執務室に向かっていた白羊は、廊下を曲がった先から聞こえてきた声に足をとめた。

「別にいいだろ。団長は許してくれてるんだから」

 火使団員数名に囲まれている人馬は、不機嫌な様子で茶褐色の髪をかきなでている。会話するのも億劫な様子だ。

「それにさー、かわいい恋人を見せびらかしたいのもわかるけど、あれは目の毒だぜ」

「衛士は男が多いんだから、あんまり刺激するなよ」

「俺は来るなって言ってるんだよ」

 それなのに無理やり用事をつくってやって来るんだから仕方ないだろ、と人馬がぼやく。

「何の騒ぎだ」

 そこへ、摩羯が現れた。すさんでいた人馬の目に生気が戻りかけ、またくもる。摩羯のそばに金牛がいたのだ。

「人馬が最近恋人を頻繁に衛府に通わせてるので、ちょっと注意を……」

 火使団員の言い訳に、摩羯が人馬を見やる。人馬はうつむいて唇をかたく引き結んでいる。そのとき、人馬を呼ぶ衛士の叫び声がした。

「おーい、人馬! 恋人が荷物を届けに来たぞー」

 ふり返ると、中央棟の入り口に衛士と柳女の姿がある。とたん、人馬があせったさまで駆け出した。自分の脇を走り過ぎたが、気づいていないのか見向きもしない。

 柳女を伴って去る人馬の背中に、残された火使団員たちが舌打ちした。

「いくら団長がそういうことに理解があるって言っても、やっぱ変だよな」

「団長のお気に入りだから、甘やかされてるんじゃないのか」

 そしてすぐ近くに摩羯がいたことを思い出したのか、彼らは気まずそうに一礼して逃げていった。

 金牛は人馬が消えた先を見つめている。不審と心配ととまどいがないまぜになった、複雑な表情だった。

 白羊もどう判断していいか迷っていた。今までなら、常軌を逸した行動だと怒っているところだが、何かが引っかかる。人馬はよく悪乗りするが、仕事に対してだけは真摯だ。

 早い話、人馬らしくないのだ。

 火使団員もだんだん人馬に当たりがきつくなってきている。孤立しかかっていると言っていい。

 そうまでして、柳女にかまいたいのか。このままでは人馬が築いてきたものが崩れるかもしれないのに、そんなことより柳女のほうが大切だと思っているのか。もし本当にそう考えているのだとしたら――。

(……ああ、そうか)

 今まで期待していたのだと、白羊は気づいた。たぶん自分が一番叱っているのは人馬だが、同じくらい実力を認めていたのも人馬なのだ。

 決して本人の過大評価ではなく、まさに将来有望だと。

 摩羯が金牛をうながして歩いてくる。白羊は軽く会釈をしてからすれ違い、獅子がいるはずの団長共同執務室へと爪先を向けた。

 気持ちを切り替えなければ。頭ではわかっているのに、ずっと白く濁った靄が心の中から消えなかった。



「白羊、人馬の姿を見なかったか?」

 二日後、白羊は詰め所から出たところで、柳女を連れた火使団員に声をかけられた。

「いや。詰め所にはいないが……私が探すからお前は行っていい」

 じゃあよろしく、と言って火使団員がきびすを返す。

「お手間をかけてしまってごめんなさいね」

 柳女が満面の笑みで手を振ると、彼はなかばぎこちない愛想笑いをして去っていった。最初は柳女が来るとにやにやし、進んで案内をしていた衛士たちも、近頃は少々うんざりしているのか、あっさり引き下がるようになってきている。

「別に付き添わなくてもいいって言ってるんだけど、衛士はみんな親切ね」

「部外者に内部を勝手にうろうろされては困るからだ。別にお前のためじゃない」

 ほわんとした口調に苛ついて、白羊はつい語気を荒げた。自分とて暇なわけではないのだ。

「今日は何の用だ」

「人馬様のお弁当に手拭きを入れるのを忘れていたから、持ってきたの」

「それくらいのものは衛府にもある」

 白羊はあきれた。無理やり用事をつくってくると人馬が言っていたが、ここまでくだらない用事とは思わなかった。

「私が刺繍した手拭きなの。いつも喜んで使ってくださるのよ」

 まるでそこらのものと一緒にするなと非難されたようで、白羊は額を押さえてため息をついた。

「柳女、もうここには来るな。人馬からもそう言われているだろう」

「私は人馬様のために働きたいの」

 少し怒り調子になった柳女に、白羊は尋ねた。

「人馬が好きなのか」

「好きよ。そうでなきゃこんなことしないわ」

「だったら人馬の立場も考えてやれ。お前が来ると衛府が乱れるんだ」

「知ってるわ。私が歩くとみんなの視線をすごく感じるの」

 特にここにね、と大きく開けた胸元に柳女が手を置く。誇らしげに。

「衛士は男性が多いから飢えてるのね。でも私は人馬様のものよ」

「柳女、胃雀とはどうなったんだ」

「胃雀? ああ、婁珠の恋人だった人ね。私たち、つきあったわけじゃないのよ。彼が勝手にその気になっただけ」

「……つきあってもないのに、関係をもったのか」

「嫌だわ、婁珠。私が誘ったと思ってるの? それは誤解よ。婁珠の幼馴染だって挨拶しただけなのに、しつこく迫ってきてすごく迷惑したんだから」

 迷惑したというわりには、ずいぶん胃雀の喜ぶことをしたみたいだが、とのどまで出かかった言葉を白羊は飲み込んだ。

 昔からそうだった。自分と親しくなった異性は、いつの間にか柳女のとりこになって離れていく。だったら最初から自分を経由せず、柳女のほうにいけばいいのに。

「ねえ婁珠、あなたもしかして人馬様に気があるの?」

 ねっとりとした問いかけに、反射的に白羊は否定した。

「ない。私はあいつの上官だ。そもそも、私は衛士の中で恋人をつくるつもりは――」

「だから、放っといてくれって言ってるだろ!」

 突然聞こえてきた怒鳴り声にはっとする。見ると、道の真ん中で人馬が金牛の手を振りほどいていた。

「でも人馬、最近おかしいよ。一人で抱え込まないでちゃんと相談したほうが」

「ああそうだよな! お前は困ったらすぐ兄さんに聞けばいいもんなっ」

 大声で嫌味を吐き出す人馬に、金牛の顔がくしゃりとゆがんだ。

「人馬、そんな言い方しなくてもいいだろう」

「金牛はお前を心配してるのに」

 集まってきた衛士たちが人馬をたしなめる。人馬はこぶしをにぎって地面をにらみつけてから、「俺にかまうな」と言って金牛に背を向けた。そこで白羊と柳女を目にとめ、顔をこわばらせる。

「人馬様ー! 手拭きをお忘れだったので持ってきましたあ」

 柳女が甘えるような声で人馬に駆け寄る。

「……ああ、ありがとう」

 手拭きを受け取った人馬が、いつものように柳女の背中に手を置いて、門のほうへとうながす。とても疲れた表情をしているのに、柳女に対する口調はやはり優しかった。

 つと、視線があった。紺青色の双眸が揺れ、人馬が口を開きかける。しかし白羊は顔をそむけると、足早にその場を離れた。

 その日の夜、星座タウルスで比較的大きな商家が襲われた。庭の茂みに隠れて生きのびた子供は、訪れた金牛たちに見たままを話した。

 盗賊の中に、白馬に乗った人がいた。馬に向かって「青斗」と呼んでいた、と。

 そしてまだ遺体の残る現場を調査中、主がにぎりしめていた赤い胴着の切れ端が発見された。その先には妻と赤子が倒れていて、店主は妻子を守るために賊にしがみついたと思われる。

 切れ端に刺繍されていた名前の一部について報告を受けた天鵝は、皆の前で告げた。

「事情を聞く。人馬の身柄を確保しろ」

 詰め所で柳女と一緒にいた人馬は、獅子が鎖で捕縛した。団長に引き立てられていく人馬を、白羊は他の団員たちとともに見送った。

 衝撃で、何の感情もわいてこなかった。

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