憧れの学舎と友と
時は遡り、前日昼。
うら若き伯爵令嬢、クラーラ・バイルシュタインの瞳は喜びと期待で輝いていた。
ハイデ王国の歴史ある学舎、ビーネンシュティヒ学園の正門をくぐると、クラーラは憧れてやまなかった学舎の空気を思い切り肺に充す。麗らかな陽射しの中、マグノリアの花弁がふわりと眼前を舞った。
「お嬢様、感慨深いのは承知しておりますが。そろそろ寮の区画へ参りましょう。長旅でしたし、風がお体に触るやもしれません」
伯爵家から連れてきた侍女のマルガが、興奮気味のクラーラの肩にラベンダー色のストールを掛ける。
「だって、ずっとずっと憧れていたのよ。私に体力があれば、ここで踊り出したいくらいだわ」
ストールの前で手を組んだクラーラが、マルガを振り返る。
上気した頬は薔薇色で、主人の体調が悪くはなさそうなことにマルガは安堵した。
クラーラは小さい頃から体が弱く、主治医からも家族からも、学園には通うことはきっとできないだろうと言われていたのだ。そんな主人が学園に通えることは、マルガとしても喜ばしいことであった。
「お嬢様〜、マルガ姉〜。まだここに居たんすね。手続き終わりましたよ〜」
褒めて!とばかりに駆け寄ってきたのはもう一人の侍女、リリーである。
通常、伯爵家以下の子女は学園の寮に入る場合に連れて来られる侍女及び侍従は一人と決まっている。しかし、クラーラの場合は前述の通り体が弱い。そのため看病要員として一名の増員の許可を得たのである。
クラーラがリリーにお礼を言うより先に、先輩侍女の指導が入る。
「リリー!このような誰に見られるともしれない場で、バイルシュタイン家の侍女ともあろう者が走るだなんて!」
「周囲に敵影はありませんよぉ」
ちゃんと確認してるに決まってるじゃないですかぁ、と気の抜けた返事を返すリリーに、マルガは眉を釣り上げた。が、その口が開く前にクラーラが仲裁に入る。
「まぁマルガ、お説教はお部屋に行ってからで良いんじゃないかしら?」
「お嬢様のお部屋は紅薔薇館の三階でしたよ〜」
了承の意を示したマルガは、早速マジックバッグを手に寮区画に向け歩き始めた。クラーラとリリーが後を追う。
見通しの良い通路には、リリーの言う通り人影一つ無かった。
「あら?三階って高位貴族のフロアだと思っていたのだけれど……」
「今年は公爵家の御令嬢はお一人だけ、侯爵家の御令嬢もお二人なので部屋が二つ余るそうなので。伯爵家から繰上げですよ〜」
「それは……運が良いか悪いか微妙なところかもしれないですね」
ハイデ王国の高位貴族とは辺境伯以上を指す。高位貴族向けの部屋ならばきっと広いし調度品も良いものが使ってあるだろう。が、同じフロアにやんごとなき身の上の生徒が住っていることを念頭に置いた生活というのは少し息苦しそうでもある。部屋の位置どりは早いもの順なのだが失敗したかもしれない。
辿り着いた紅薔薇館は、その名の冠する通りに深い赤味のあるテラコッタの建物であった。入り口にいる事務員と挨拶を交わし、三階の自室へと向かう。
部屋に入ると、荷物整理の前に部屋中探索を始めたリリーにマルゴの指導が入りまくった。毛足の長い絨毯の上に正座させられたリリーを横目にクラーラは寮の案内図を確認する。
「一番奥の大きいのはもちろん公爵家。端は侯爵家が既に取っていました。なんで、向かいのお部屋がもう一方の伯爵令嬢のお部屋の筈ですよ」
「あら、もう来てる方がいるのね」
前日入りだし一番乗りかと思ってたわ、と不満げな主人にリリーは微笑んだ。
「まぁまぁ、ご令嬢としての一番はお嬢様でしたよ」
「手続きと荷物搬入のために使用人のみ前入りしているのでしょう」
「そういうものなのね」
ふぅん、とクラーラは相槌を打つ。マルガが淹れたハーブティーを少し口にしたところで、疲れと眠気を自覚する。
「二人とも、悪いけどもう休ませてちょうだい」
荷物整理を続ける侍女に告げれば、心得たとばかりに締め付けのない夜着に着替えさせてくれる。
大きな部屋に移れたことで、侍女用の寝室が二つあるのは良かった。明日の入学式楽しみだな、お友達沢山できるといいな。そんなことを考えている内に、クラーラの意識は沈んだ。
翌朝。二人の侍女に見送られ、クラーラは意気揚々と紅薔薇館を後にした。
今日は待ちに待った入学式である。自然、クラーラの顔には笑みが浮かんだ。
入学式が行われる講堂への道すがら、連れ立って歩く令嬢達を横目で見ては、絶対に今日中に友人を作ろうとクラーラはは決意する。
幼少から体が弱く、クラーラはお茶会にすら参加したことがない。家族と使用人以外の話し相手は親戚と幼馴染くらいだ。
そのため、学園内での知り合いはほぼゼロである。幸い人見知りしない性質なので、余程のことがなければ友人を作るのは難しくない筈だ。
講堂で資料を受け取り席に座る。資料によると、クラーラはBクラスらしい。
副学園長の長い挨拶によると、ビーネンシュティヒ学園のクラス分けは、一年生の内はランダムである。二年次からは魔力及び学力順になる。一年次は基礎ばかりのため、魔力量にも学力にもよらず、生徒間の交流を深めるべしというのが学園の考えだからだ。
そんな話をぼんやりと聞いていたクラーラだったが、突如として沸き上がる黄色い声にビクリと肩を揺らした。
何事かと思えば、新入生代表としての王太子殿下からの挨拶らしい。前の席の男子生徒の体が大きいため、残念ながらクラーラには王太子殿下の姿は確認できない。
良い声だなあとこれまたぼんやりと聞くこと十数分。入学式の終わりが告げられた。
隣に座っていた令嬢に声を掛け、教室に向かう生徒達の波に乗じる。
「まぁ、クラーラ様は領を出られるのは初めてなのですね」
クラーラの隣を歩くのは、ルシー子爵令嬢アグネス。先程の入学式で隣に座っていたのは彼女だ。
少し話しただけだが、クラーラはアグネスとその友人達とすっかり仲良くなっていた。小柄な彼女は、クラーラを見上げるようにして言葉を続けた。
「わたくしも、学園都市は初めてですわ。でも、気になっているお店は沢山ありますの!」
「今日は顔合わせで終わるでしょう?みなさんお時間あるようでしたら、最近話題のカフェに行きませんこと?」
アグネスの言葉を引き継いだのは、アルトマン伯爵令嬢のビアンカである。ルシー子爵領とアルトマン子爵領は隣接しており、二人は親戚なのだという。
「まぁ!是非!お友達と一緒にカフェに行けるなんてとっても楽しみですわ」
歌うように返事をするクラーラを見る目は、どれも優しい。道中、クラーラが病弱なことや自領どころか殆ど家から出たことがないなどを説明したからだろう。
「クラーラ嬢の初めてのカフェ参りに同行できるなんてとても光栄だよ」
そう言うのはメルセペル伯爵令嬢のバルバラだ。メルセペル伯爵家は騎士を多く輩出する武門の家柄らしく、バルバラ自身も騎士を志しているのだと語っていた。彼女をクラーラとアグネスの元に連れてきたのはビアンカで、彼女達は茶会で顔見知りになったのだという。
名前で呼び合う程に仲良くなった三人ともがBクラスなので、クラーラは幸先の良さを感じずにはいられない。
放課後は初めてカフェに、それも念願の友人と共に行けるとあって、クラーラは軽快な足取りで教室へと向かった。
──そして、ルンルンで足を踏み入れた教室で。人間の胴体にレモンタルトが生えている異様な光景を目にし、卒倒しそうになるのである。