暖炉と温もり
窓から見える景色にはまだ空の白みもなく、小鳥たちも起きださない頃。俺達小作人は目を覚ましてネグラから這い出て仕事を始める。
その習慣がどうにも抜けず、俺は真っ暗な部屋の中で目を覚ました。やけにフカフカなベッドから這い出て、靴でも履こうとしたときに、ふと左手が引っ張られる感触に気が付く。手に感じる感触はフニフニとまるで兎の腹を触っているかのように柔らかく、ほんのりと暖かい。
よくよく頭を働かせてみると、そこにはメイドの姿があった。手を繋いで寝てしまった俺を起こすのは忍びないと思ったのだろう。なんと手をつないだままに、自分は冬の冷たい床の上に座って眠っていた。いくら毛足の長いカーペットがあろうと、布団から出れば寒いのである。俺はまだ温もりの残る布団をそっと彼女にかけ、手をほどいて暖炉へと向かう。
暖炉では、真っ白な灰に包まれたままの燃えさしがいくつか転がっているだけで、温かさはなかった。壁に立てかけられたままの火掻き棒で灰をあらためると、まだ燃えさしにはいくつか灰の中で怪しく光る物がある。暖炉横にあった薪をくべ、樹皮から染み出した油に燃えさしを当てた。するとたちまちパチパチと音が鳴って薪が燃え始める。その温かさは冷え切った部屋を暖めるにはちょうど良く、また、メイドの冷めた体を温めてくれるに違いないと思った。
これで体を中から温める白湯でも入れられたらよかったが、残念ながらここには鍋がない。
手を布団から出したまま寝ているメイドを優しく抱き上げて暖炉の前に移動する。仕方なく触った女性の体に息をのんだ。柔らかい。それに温かい。ふわりと香るのは甘いミルクのような香り。ピンク色でプ二っとした唇はハミハミと何かを食べる夢でも見ているようで、可愛らしく動いた。
いかん落ち着け!寝込みを襲ってはいけない!
俺の不純な心を戒めるように、暖炉で薪がパチッと音を立てた。これがよく燃える薪で、火が立った。メイドを後ろから抱くようにして座り、すかさず火掻き棒でカンカンと叩いて火を寝かせる。すると、その音にビックリしたのか、腕の中でもぞもぞと布団に包まれたままのメイドが起きた。しかしまだ眠いようで、長いまつ毛をしばしばとやって暖炉で燃える火を見ている。
「まだ寝てていい」
火が落ち着いたのを見計らって、薪を暖炉の横に立てかける。シュウシュウと音が鳴るのは、薪がよく乾いていないためだった。
「……綺麗」
「おや。火をちゃんと見たことは初めてですか?」
「はい」
「火は火傷もさせますが、大事な人を温めてくれたり、美味しいご飯を作る手伝いをしたり、とても働き者です」
メイドはまたうつらうつらと舟をこぎ出して目を閉じた。まだ彼女の朝には早いのだった。
腹に力を入れ、彼女をベッドに入れる。頭がごわついて眠りの妨げになりそうであるので頭の被り物をそっと脱がせ、枕元に置く。しっとりとした黒髪が枕に広がって暖炉の明かりを吸う。一瞬赤く見えた耳は、寒かったのだろう。可哀想な事をした。次からはちゃんと俺を置いて寝るようにと言わなくてはいけない。
一応念のため、乾かしていた薪を元の薪蔵に戻して寝室を出る。あのままいれば彼女に何かしそうな自分がちょっと怖かった。
外では、いつの間にかお天道様も起きだしたようで、廊下から見える白の中庭に、青白い光が差し込んでいる。その光の中に見たこともないような花がいくつも見える。そのどれもが真っ白な新雪のように白くて、まるで冬の花だなと思った。
その中庭からそう離れていない場所を、猟師が肩に鳥を担いで歩く。おお朝食は肉か。
肉と言えば感謝祭である。豊穣の神への貢物として贈られた豚や牛はその後皆の口に入るわけだ。残念ながら小作人というのはあまり神を信じてはいなかったが8)、どうにもあの肉の味は忘れられない物で、一年に一度しか飲めない肉のスープは高嶺の花だった。
王様は肉も食えるのだろう。それも感謝祭以外に。いいねぇ。
廊下をさらに進むと、見た目からして装飾が変わる。金や銀の燭台があった廊下から銅や鉄の朱や黒色ばかりの燭台が目につくようになり、石を削り出したような床は全て木貼りとなった。扉には使い込まれた手の黒い跡がいくつも見えた。
ここは使用人の部屋か。
俺の鼻を煙でいぶしたような香りと強い香辛料の香りがくすぐる。どうやらここは厨房らしい。その黒ずんだ扉とは対照的に、皆が良く触るために金色になったノブを回すと、その部屋の中央に大きな鍋が見えた。長机に半分埋め込まれたような大鍋である。その周りに大男たちがひしめき合って、鎌から上がる蒸気と良い匂いの中で、見慣れぬ野菜や植物をすりおろし、先ほど見た鳥をお湯につけてブチブチと羽をむしる。
「随分旨そうだ」
「ええ、そうでしょうこれは獲れたての……。王様!!!!なぜこのような所に!!!」
「いや、朝食が気になって」
「まさか毒を疑われているのですか!? 決してそのようなことはございませんから!」
上の物が下の者の仕事場に来ると言えば、それは監視か何か悪いことを疑っている時だけだ。確かに畑でも領主が来るとなれば、必ず悪いことが起きた。あれは酷い。実際に全く悪くない人が、食料を盗んだ盗人としてその場で役人に切り殺されたのも見たことがある。
上の人間の言う事は絶対なのだった。
「今日は肉が出るようだね」俺は王様らしい威厳を持って、作業を止め、頭を下げる男たちの前に立つ。
「あ!これは……しかし」
「……まさか君たちだけで食べて楽しもうという事ではない……ね?」
ハイ圧力!!これぞ力を使うってもんだ!!にーくにーく!!
「も、勿論でございます。しかし朝から肉となると御身に悪くはないですか?」
その汗まみれの顔は、なにも鍋から上がる蒸気のせいではないだろう。せめてもの抵抗として、俺の体長を気使うという事にしているが、肉は他に出すつもりなのだろう。あるいは自分で食べるつもりかもしれない。
「気にするな!俺は若い!うんと脂ののった肉を持って来てくれ!期待しているぞ!」
颯爽と厨房を出る俺の後ろで、やけに顔色を悪くした料理長が自らの帽子を胸に抱いて脂汗を拭った。
8)神様を信じない小作人:いくら神に祈ろうと、お金をはらおうと、凶作は免れないと彼らは知っています。