3話: エルノの決意
馬車は宮殿を出て、ベルベットの屋敷に向かっていた。あたりはもう夜だというのに、窓から覗く町にはきらやかに明かりが灯っており、むしろこれでようやく本性を表したかのようだ。
エルノは宮殿を去るときぼそぼそ別れを交わして以来、一言も口を利かなかった。たとえリノアが話しかけてもだ。エルノは虚ろな目で景色を眺めていた。
(騎士団には入りたくないって言ったのに......。)
その思いは帰路をたどるうちにどんどん大きくなった。ベルベットへの嫌悪に加えて、どうして言い返さなかったのかという後悔もあり、すっかり気分は落ち込んでしまった。
砂利道を乗り越え、道にさまよう泥酔した男を通り越す。馬車は止まることを知らない。調教師という主人を前にしては、馬もそれに従うしかないわけだ。今の自分はまさに馬車を引く馬だと、エルノは痛感した。
このままじゃ嫌だ! エルノがそう思ったのは、手足を縛られて町の広場に売り出されている奴隷を目にしたときだ。
「ベルベットさん。お言葉ですが、騎士団には入らないと約束したはずです」
ベルベットの返事は早かった。
「それが、お前を十年育ててきた者に対する言葉か?」
「しかし、ぼくには自分の意思があります。他人にどうこうされる筋合いはない。リノアを連れて帰ったときあなたは歓迎してくれた。でも、それが今日この日のための笑みだったなんて!」
ベルベットはしばらく押し黙った。
「リノア......きみはどうなんだ? このままでいいのか」
「私の名はフレイラ。二年前、ヴェクトから亡命してきたのはさきほどお話し致しました」
リノアはきっぱりと答えた。それがあまりに自分の知らない声だったので驚いたが、初めて会った日に聞いた声だと思いだした。自分のような人間が取りつく島のない、機械的な声だ。
リノアは宴会の場で真実を語ったのだが、エルノはまだ信じられないでいた。
彼女の正体がヴェクトの皇帝リミダの娘、フレイラであること。そして実の兄ノーマスに命を狙われて、ここガルデ公国に亡命してきたこと。
「前皇帝かつ私の父でもあったノーマスの死。公には病死とされていますが、私は見ました......。父は、兄リミダの手により殺害されたのです! 父の葬儀後、すぐにリミダは有力だった側近を私より先に買収し、私の側についた者をほとんど抹殺させました。危険を感じた私は一髪早くヴェクトを去り、ここにきたと言うわけです。......この場で皆さんにお願いがあります。私を守ってください」
信じられないことだ。だが悔しいことに、これまでの生活に彼女は不審な点を持ちすぎていた。ときおり言葉づかいがごちゃまぜになること、色々な作法を知っていること、そして何よりエルノに学問を学ばせたことだ。女性がなぜ勉強をするのか、エルノには分からなかったが、王族の者、ましてや後継ぎの候補者としてなら妥当な処遇だろう。
(どうして守らなければならなくちゃならないのかは問題だけど、どうやら彼女のさげるペンダントに理由はありそうだ。今まで何度きいてもこれについてだけはあやふやなまま終わった。宴会の場で、ベルベットもペンダントについて何か話していた気がする。もっとよく聞いておけばよかった......。)
エルノはしばらく考えたが、話の本筋からそれていることに気づいた。
「二人はグルだったんだな。こうなるのを分かっていて。ベルベットさん、あなたはぼくがこうやって反抗することも分かっていたんじゃないですか? それを楽しんでいるようにしか見えないな、今朝から今日までの言動は」
「今日はやけに、頭が冴えているな」
「なるほど......。あなたには心底がっかりです。そして......リノア、君にもね」
エルノはそう吐き捨て、これまで片隅においていた計画を実行に移した。次の瞬間、エルノの体は宙返りの要領で座席から飛び退き、地面に着地した。馬車がみるみるうちに遠ざかっていく。
常人では困難な身のこなしでも、子どもの軽い体と特別な訓練の賜物だとエルノは思ったが、自分が窓側に座っていたことと、折り畳み式の屋根が空いていたことを考えると、これもベルベットの想定のうちだったに違いないと歯ぎしりした。
頭を殴られたような衝撃も、次第に収まってきた。
(ぼくがバカだった。今まで利用されていただけだったんだ。おかげであいつの屋敷で過ごした10年間を無駄にしたけど、これから挽回のチャンスはある。今日からぼくはもう、あの家の人間じゃない。はやく仕事をもらって、お金を稼ごう。そしてこんな国、さっさとでてやる。なんならヴェクトに行って、今日のことを全部話してやりたい気分だ!)
エルノはまず、秘密基地に向かうことにした。ここからそう遠くはない。城下町のつくりはほとんど覚えていたから、案外あっさりとたどり着くことができた。途中で肉屋にもらった肉団子を頬張りながら、明日からどうしようか考えていた。
(まずは身なりをなんとかするか......いや、眠いや。もう寝よう)
怒りや悔しさも、睡眠欲には勝てなかった。
そのままエルノは心ゆくまで眠ったのだが、少しばかり眠りすぎたみたいだ。気がつけば午前中があっさり過ぎ去っていたのは、言うまでもない。