謎の少女
その日はとても風が強く、空にも暗雲が立ち込めようとしていた。
少年は風に煽られながら、黒髪をなびかせていた。
夕立かなにかだと思い、その少年___エルノは急ぎ足に土手を駆け下りた。どうしても行っておきたいという逆らいがたい気持ちに駆られていた。
しかし、エルノのこの判断が、彼の人生を決めてしまうことになる。
エルノはそのまま一直線に走った。例の秘密基地が見え始めたあたりで、異変が起こっているのに気づいた。
風に煽られたせいではなく、吊るされているハンモックは確かな質量をもって揺れていた。エルノのいる位置からでもそれが見える。
誰かが、いる......。エルノは思わず身震いをした。
(この場所を知っている町の人間はいないはずだ。そもそも、この辺りは魔物の出没で閉鎖されているはず......。そんなことも知らないなんて、どこの命知らずだろう?)
木々のざわめきに押され、思考はいったんそこで途切れた。
とっさに隠し持っていた剣を引き抜いた。エルノの身長の半分以上があるそれは、重すぎず軽すぎず、しんなりと手に馴染む。
年季の入りすぎた剣は、若かりし頃のエルナスも使っていたそうで、ベルベットの手から正式に譲り受けることとなった。つまり、斬れないことはない......はずだ。
錆びかかった剣を正面に構えた。
(何か飛び出して来るものなら、叩き斬ってやる)
ベルベットのもとで育てられたエルノは、相当の技術を身につけている。が、このときばかりは恐怖で足が震えていた。エルノは実戦というものを体験したことがない。つまり、人を手にかけたことがない。
ハンモックにおどおど近づきながらも、目だけは本気だった。
柄を握る手に汗がにじむ。心臓がばくばくいっているし、肩はがくがくする。
ついにエルノはハンモックに近づいて、剣を振り上げた。
しかし、体の震えが止まらなくなり、すぐにやめてしまった。
(落ち着け......。ぼくにはそれなりの腕もあるし、やれないことはない。けど、こんな奇襲をするのはずるい.......そうだ、せめて顔だけでも)
自分に言い訳をしたエルノは忍び足で回り込むことにした。そのとき、心臓の音を聞かれてしまわないかと心配になったほどだ。
なんとそこには、少女が眠っていた。
驚くほど肌色は白く、形も整っているのが分かる。少なくとも自分のマメだらけのごわごわした手とは大違いだ。華奢な腰つきに、薄く引き締まった唇と、上品な鼻。特徴的なものは首から下げるペンダント。銀色の鎖で繋げられたそれには獅子の紋章があしらってあって、くぼみには緑色の宝石がはめ込まれている。
髪はぼさぼさ。靴は履いておらず、肩から膝辺りまでを覆っている白のドレスも、泥に汚れている。それなのに、この少女に魅力を感じた。
エルノはごくりと唾を飲んだ。
(相手は人間だったか......。それも女の子? 歳はぼくと同じくらいだろうか? いったい、どうしてこんなところへ)
さっきまでの恐怖はとうに忘れていた。剣をしまったエルノは、胸の奥から込み上げる衝動に駆られた。
胸がどきどきする。おそるおそる手を伸ばし、むき出しの肩に触れようとした。そのとき、雨が降った。
エルノは今日このとき、この瞬間に自分が犯した過ちを怒涛の如く後悔した。
短いあくびと共に、少女が目を覚ましたからだ。
即座に手をのけて立ち去ろうとした。が、少しも足が動かない。咄嗟に用意した言い訳を頭に浮かべつつ、見て見ぬ振りをする。
このときの焦りは、盗みをするときのスリルに似ているものがあった。
「あ、あのさ」
勇気を振り絞った第一声は届いてしまったようで、少女は首をわずかに動かすと、頭を振った。
もうどうすればいいのか、脳が働いてくれない。思考を停止させたエルノは意味不明のうなり声をあげて、
「後ろだよ」
と言った。
できれば目を合わせたくなかったし、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。しかし、時間はそう余裕を与えてはくれないのだと心の底から思った。
「何者だ?」
「こ、こっちのセリフだ」
自分のぎこちない声を聞いたときには恥ずかしさのあまり失神しそうになった。とにかく応答しつつ、手に武器はないと判断したエルノは一歩、踏み出した。
「ここはぼくの家なんだけど。君はこの辺りの住民かい?」
「リミダめ......こんな子供を使うとは!」
「何だって?」
「少年、悪いことは言わん。私の前から立ち去ってくれ。そして、リミダの元からは一刻も早く離れなさい」
エルノは、取りつく島のないといった少女の態度が気に食わなかった。
「話を聞いてくれよ、リミダって、誰のこと?」
「リミダはリミダだ......いや、待て。そうか」
「ぼくはエルノだ。リミダじゃない。質問をしてるんだけど、君はどうしてここにいるんだ?」
「......リミダを知らない?」
「そう言ってるだろ」
「宝石は? 魔法は?」
「やめてくれ、頭がおかしくなりそうだ。言っておくけど、ぼくは君を全く知らないからな。さっき言ったけど、君はどうしてここに?」
少女は若干うつむきながら、「ごめん」と呟いたのだが、エルノにはそれが聞こえなかった。長い沈黙を破ったのは、少女の方だ。
「あたしはリノア。君は?」
エルノは大きなため息をついた。少なくとも、今日はゆっくり休めそうになかった。