偽りの自分
エルノは屋敷を飛び出した。
背後から見下されているような気がして、一心不乱に坂を駆け下りた。門がみるみるうちに遠ざかるが、エルノは一度も振り返らなかった。
日が暮れ始めている、そんな時間帯。地平線の向こうに揺れる太陽は、しかし彼の目に映るには揺れすぎていた。
(なんで......どうしてぼくは、普通に生きられないんだ?)
いくら目を閉じても、歯を食いしばっても、さらに熱が込み上げてくる。
暖かく、やわらかい手のひら。いつもおだやかな光を灯した瞳、ほほえみ。それは万人が持つ母親の存在。人間である以上、誰しもが腹から産み落とされ生を得る。そのとき、初めて覚える感情は『愛』であるのだろう。
決してなくてはならないし、失ってはならない存在。しかしエルノには、それが欠如していた。
六年ほど前になるだろうか。エルノにも両親との別れがやってきたが、それは早すぎた。
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夜のことだった。数回音を立てた扉が開いて、一人の男が入ってきた。
「お父上が、亡くなられました」
上辺だけ取り繕ったような、重々しい声。
側にいた母親ががっくりとうなだれ、自分は為すがままに手を引かれた。雨に濡れているだけでは感じられない、ひどく冷たい手。
母親の制止もきかずに扉を閉め、男は最後の瞬間まで彼女に一瞥もよこさなかった。その男こそ、ベルベットだった。
あまりの恐怖に目を瞑っていたことを覚えている。しばらく時間が経って目を開けたとき、全く知らない屋敷があったのを覚えている。
それからはその屋敷で、大人たちのかわききった嘘の笑みに包まれ、育てられた......。
以来、母親とは会っていない。家も忘れてしまった。
家族、友達、家、町___全てを否定され、“紅の騎士団”を継ぎなさいという名分のもと、エルノは育ったのだ。
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「何が騎士団だよ!」
エルノは我知らずのうちに叫んでいた。
その瞬間、溜め込んできた気持ちがはじけた。積み上げてきた偽りの自分が崩壊するのが分かる。
あふれた涙が頬を打ちつづけた。
(一人のときは、泣いたっていいんだ......。)
ベルベットの、いや、運命の言われるがままにされている自分が悔しかった。
しばらく降りて行くと、城下町が見えてきた。文字通り、ガルデ公の住まう宮殿の下に広がる大きな街だ。
碁盤の目状に張り巡らされた通りの傍に住宅、商店が立ち並んでいた。
中央には広場がある(ちょうどいい円形のスペースがあるので、人々からはそう呼ばれている)。憩いの場所として、待ち合わせ場所として使われるほか、置かれている木箱にはニュースを演説する男が毎日のように立つし、ちょうどいい大きさのスペースは月に二回ほど大きな市がひらかれるときなどにも。
目は縦にも伸びていて、ずっと奥の方にガルデ公の住まう宮殿が見えた。
その膝下には貴族の住まう館が点々と並び、手前のいわゆるふつうの街並みとは一線を画していた。道はきれいに整備されているし(同じ砂利や石畳であれど)、何よりも違うのは家の材料。石造りの家はたいへん珍しく、二階建てや三階建てに加え、庭が付いているものなどもあり身分の差を感じさせた。
ちなみに、公国が誇れる“紅の騎士団”の本部は宮殿の中にある。
エルノは城下町でよく盗みを働いた。肉屋から魚屋を走り、家々の屋根を飛び、闇に紛れ込んで。
別に食料や金に困っているわけではなかった。ただ、遊び程度でやっていた。
エルノはいろいろなものを盗み取ってはためこんで、今やコレクションの山と化したのは人里離れたところにある秘密基地だった。
エルノだけが知る秘密基地は川沿いにあり、木々に囲まれながら自分だけの時間を過ごすことができる。屋敷から抜け出すときはきまってそこに来ていた。基地といっても手製のハンモックが吊るしてあるだけ。しかしエルノにとっては間違いなく大好きな場所だ。
エルノはまず町に入ることにした。
人々の体臭、糞尿の臭い、食べ物の香り。それらがごちゃ混ぜになって、この町の独特の空気を作り出しているのだろう。
エルノはさっそく、大通りをそれて左へと進んだ......が、叶わないものとなった
「おい坊主! 先週のこと、ベルベットさんには言いつけてあるからな」
「......今日はそういう気分じゃないんだ」
エルノを一目見た肉屋の店主は、フンと鼻を鳴らした。
「何をぬかしても、無駄だ。今度こそ、出禁になるかもしれんな!」
それを最後まで聞く前に、エルノは走り出していた。説教をきくのは、ベルベットからだけでじゅうぶんだった。
店主は脅しをかけるように追いかけてきたが、エルノの俊足には到底およばない。
それにしても、一瞬でも店をほっぽりだす傍若無人ぶりには呆れた。それだから盗まれるのだと、エルノは心の底から思った。
そのまま左へ左へと行くうちに、小路にでた。もう、この辺りまで来ると人気はおさまってくる。
空を見上げると、まだ陽は落ち切っていなかった。完全に夜が訪れる頃には戻らないといけない。いくら身勝手なエルノにも、それは分かっていた。
(急がないとな。もうじき魔物もわいてくるだろうし......。早めに行って、早めに帰ろう。いや、あそこまで言ってしまったあとだ。ベルベットに合わせる顔もないか......。)
エルノはここになって、自分の犯した過ちに気づいた。
いくら腹が立つことがあっても、育て親のようなもの。二度も親を失うのはごめんだし、面と向かっては言えないが彼にも感謝はしているつもりだ。
とにかく、顔くらいは洗って帰りたい......。そう思っていたうちはまだ、平和だった。