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或る老人の一生

作者: 早乙女以呂波

風の強いある日、彼は産まれた。

両親からたくさんの愛を受け育った彼もやがて魅力的な青年になり、そして一人の女性を愛すようになった。

短い髪の似合う彼女は切れ長の目と紅くてふっくらとした唇を持つとても綺麗な女性であった。いつしか彼等は愛し合うようになる。そして、結ばれた。

彼等が結ばれて少し経つと彼等の國は大きな戦を始めた。

形勢が悪くなると彼のもとにも徴兵の紙が来た。

彼は突撃歩兵として遠く離れた異国の丘で戦うことになるのだろう。

彼等は彼等の愛した桜の木のもとで写真を撮った。

丁度桜吹雪の綺麗な春の頃であった。


2日ほどすると出兵する青年を迎えに来た汽車に彼は乗った。

別れ際、彼等はゆっくりとその唇を重ねた。車掌が笛を鳴らし、車掌補が合図をすると彼は振り返らずに確かな足取りでステップを踏みしめ汽車に乗り、ホームと反対の座席に座った。

彼等は離れながらも唇の感触を忘れなかった。


彼は戦で心から愛する祖國が為に命の限りを尽くした。

鉄条網を突破するのに迫撃砲を操作した。

塹壕を死にもの狂いで掘り進めた。

敵の突撃で白兵戦となったときはまさに仲間を叩き斬らんとする敵兵を鉄兜ごと斬ってやった。

彼は戦うのを躊躇わなかった。

彼は愛する祖国の為に死ぬのを望んでいたのだ。

戦地に赴く前に撮った妻との写真をいつも持っていた。突撃する前に見るのだ。

幾度となく見るうちにその写真は何かもわからないただの紙屑になってしまっている。しかし彼はそれを手放すことはなかった。

戦では幾度となく敵の機関砲を身体に受けた。でも彼が死ぬことはなかった。

いつも最前線で勇敢に戦う彼は英雄だった。彼はいつもそれを誇りにして戦った。


しかし國の戦は彼の頑張りでどうにかなるものではない。

戦は負けたのだ。

しっとりとした雨の日の早朝、彼は汽車で静かに復員した。ホームに降り立つと同じ場所で迎えの妻と静かにそして、味わうようにまた唇を重ねた。

彼に平穏は戻った。


妻の話を少ししよう。

彼女もまた両親からの愛を受け素敵な女性に育った。彼女は実に献身的で素晴らしい妻であった。

子どもこそ作ることはできなかったが。

銃後の暮らしは決して楽ではない。彼女は國の為に銃座を作った。砲弾も弾丸も作った。

彼女は彼が戦から帰った少し後に死んだ。


彼は悲しんだ。それ以来彼の記憶は止まってしまったのだ。

以来彼は死んだ魚のような目で縁側に座っている。寝ることも少ないし、飯もほとんど食わない。たまに水を飲みたいと代わる代わる世話をしに来る遠縁の親戚に言うだけである。


それからしばらくすると彼のもとにかわいらしい少年が毎日のように遊びに来るようになった。少年と出会ってからの輝くような日々で彼の目は色彩を取り戻し、沢山の記憶を取り戻した。

少年は心の優しい碧眼の小柄な子だった。少年は彼のもとに駆け寄ると決まって

「戦いのお話をしてよ」

と言うのだ。

彼はいつも少年にだけ過去の栄光を語った。すると決まって彼は話の最後に最後に寂しそうに、しかし力強くこう言うのだ

「英雄だって時が経てば忘れられるのさ。」

と。

しかし少年も成長するに連れて来なくなった。彼は悲しんだ。

彼は随分と色々少年に教えた。魚のとり方から牛の屠り方まで。

盗みのうまいやり方だって教えてあげた。

そんな日々も終わってしまったのだ。


またそれから大分時が経った。

今、彼はもう自分で動くのもやっとなほど衰弱している。

家族はいない。彼を気に留めるものなど無論居ない。

食べ物などいつから食べてないだろう。水を飲んだのは多分昨日の朝だ。

そんなことを思いながら彼はもう長くない事を悟ると若くして死んだ彼の心から愛した綺麗な妻のよく涼んでいた漆喰の壁のあたりに身体をゆっくりと擡げた。

すると彼はいつから使っているかもわからぬ古い扇子を着物の袂から取り出すし、おもむろに開くとゆっくりと仰ぎ始めた。

少しすると目を瞑った。彼は"準備"をしたのだ。

また少し経つと彼は

「老兵は砂漠の砂の如く、桜の花びらの如く。」

そう言うと静かにくたばった。

夏の暑い日の夕方の事であった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 人の一生とは本当に様々で、一概に語ることは出来ませんが、その多くは鉄砲玉の様にあっという間に過ぎ去ってしまうものなのかな、と思います。 その中で体感したことが後々になって思い出になり、…
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