Nothing Part 125
匂いもなければ音もない鈍色の海を眼下に控えて、そこへ飛び込もうとしている私は一体どうなるのかと不安を感じながらも、最早そこへ飛び込まなければならないところまできてしまったし、それにそうすることを決断したのは他ならぬ自分なのだから、すぐにでも飛び込まなければならなかった。しかし私はぺたりと、地面に生い茂る雑草の上に腰を落ち着かせて、鈍色の海を見下ろすのだった。幸いにも時間はまだある、急ぐ必要はないのだ。
崖の上から頭を突き出して見下ろすのには勇気がいる、それくらいの高さだ。崖に打ち付ける波の音は聞こえず、そのことが不思議には感じられないのがまた不思議だった。名も知らぬ草花を尻に敷いたとき、その哀れな断末魔が耳に届いたのはそうした静けさが理由だったが、同時にまたそのことはこの世界には間違いなく音が存在していることの証左でもあった。海が、この海が音を発することなく世界の中に存在しているのだ。潮の香りがしないこともまた、そのことから考えれば何も不可解なことではない。ともあれ、この海は鈍色なのだ、それ以上に言うことはない。
海とはそういうものだと誰かに教えられたわけではないが、何らの疑いもなくそうした存在を許容できたのは、私がこれまでに過ごしてきた生活の色が他ならぬ鈍色であったことが影響しているのかもしれないが、それにしても死線を越えてきたという程のものでもない。私はもう、そのことを語るための話し相手をもたないのだ。それでも一つだけはっきりとさせておきたいのは、私の中の常識という物差しを使うとしても、通常の海は本来は青いものであるはずだった。鈍色であることの異様さを、私はしっかりと感じている。
それでも嫌悪や不安や恐怖を感じないのは、そこに何かしら超越者の理論を感じているためなのかもしれない。それが聖性であるか否かという次元を超えた、理解の及ばない何か。それでいて、認識のできる何か。そうしたことから察するに、私は、私たちは、そこから来たのだということなのだろう。
その鈍色の海に関して、未だ私の知り得ない情報が二つだけある。味覚と触覚で感じられるものだ。塩の味などしないことは考えなくとも分かることではあったが、それが乳の味であるともマナの味であるとも知れず、またどのような感触であるかもはっきりとしない。さらさらとしているのかべたべたとしているのか、疑問は尽きない。
私はそこまで考えを巡らせたところで、ようやく腰を上げた。随分と長い道のりだった。この思索が、ではない。この人生が、である。
私はどうやって飛び込もうかと思い悩んだ末に、助走をつけてみることにした。たった一度きり堕落のなのだ、好きにやれば良いじゃないかという具合に。少し後ろへ下がって、そして、勢いをつけて、私は何もない空間へ飛び出した。天が笑っているような、そんな日和だった。それが、この世界での最後の感慨だった。
飛び込んだ先に待っていたのは、少しばかり弾力のある水の力だった。そのおかげで、沈んでいきはするのだが、その降下が緩やかなものになるのが分かった。私はきっとここで死にたい、今なら死んでも良いと思えた。しかしそれを決めるのは、天ならぬ海の差配次第だった。
さらさらとした弾力のある水の中で、私はいよいよ口を開こうとした。海を呑み干してやろうというくらいの気勢で以て、私は、口を開いた。自然に息苦しさが襲ってきた。口も鼻も水に塞がれてしまっているから、飲み込むどころの騒ぎではなく、吐き出そうとすればするほど体力が奪われて、どこまでも続く鈍色の世界に堕落していくのが分かった。地獄というのは、このような苦しさを味わいながら、味わい続け、それが終わることがないのかもしれないと、先程は超越者を讃えるようなことを考えた同じ頭でそう思った。
音が、響いた。何も音がしないはずの空間で、何もいないはずの空間で。それは彼方の時間のどこかで聞いた、何かの音だった。あれはいつだったかどこだったか、最早もがくことも忘れ、観念してしまった私は悠長に考え始めた。そうやって思考に力を注ぐことで息苦しさが遠のいていき、その代わりに目に見える世界は少しずつ暗転し始めていく。
ああ、これは胎内で聞いた音だ。
そう思い至った瞬間、空間も時間も目まぐるしい調子で揺動し始め、その胎内で聞いたはずの音とそのときの母の様子が、視界と聴覚ではっきりと認識できた。その視覚だとか聴覚だとかいうのが少しずつ曖昧になっていき、どこで何を感じているのかも分からなくなっていく移り変わりの間に、私は様々なものを見た。
途中、ふと何かに引っかかるような感触があって、私の感覚はそこへ注がれた。まだ人の明かりと闇夜とが住み分けて分明な頃、一人の人物が蝶を追いかけている風景が、最初は静止していたのが少しずつ運動を始め、徐々に映像になっていった。私はその蝶を一緒になって追いかけていたのだが、本当はその蝶を追いかけている人物の横顔が好きなのだった。そうした気持ちを打ち明けることができず、それでも苛立ちや不満足を表に出すことが恐ろしく、そうした感情の谷間につい立ってしまったとき、私はこう尋ねたのだった。
「どうして蝶なの?」
「There's no reason for...」
ああ、馬鹿な質問をしてしまった、好きなのだからそれで良いじゃないか、仕方ないじゃないかと思った矢先、とっくに海の中に溶けてしまったと思い込んでいた肉体の変化が感じられた。口の中で蠢く何か、それは間違いなく、蝶たちの姿だった。
ああ、虹色の味がする。
それは蝶のことではなく、やはりいつかどこかで行われたことの再現なのだろうが、そのたまさかの記憶の邂逅が、私の口から溢れ出ていくのだ。
鈍色の世界に音もなく飛び立っていく蝶たちは、虹色の鱗粉を撒き散らしながら、一匹一匹がたんぽぽの種子のように鈍色の世界に根付いて、そうして役目を終えて消えていくのだ。それが私に与えられた最後の祝福だったのだ。そこに何の理由もない、ただ、そうあるだけの話なのだ。