執着の理由
「ひゃはははははっ! フラれちまったなぁ!」
放心状態の青空を指さした忌島が高らかに笑う。
これまで散々自分をコケにしてきた相手が目の前で女に逃げられた。ここで笑わずしていつ笑うとばかりに忌島はありったけの嘲笑を青空へとぶつけた。
青空からの反応はない。
糸が切れた操り人形のように、ただ呆然と、蓬生が走り去った方向を見つめている。
「なぜだ……」
ようやく絞り出された一言は、絶望に塗れていた。
三人揃えば世界も救える(はずの)掌姫。その二人目である蓬生を城へと連れて行き、洗礼を受けさせる。洗礼を受けて初めて少女は掌姫となるのだ。この短期間で二人を見つけられたのだから、三人目もすぐに見つかるはず。その時こそ教団は本当の意味で救済を開始する。永遠の幸福が信者に約束される。自分も、やっと……
それなのに、
「ザマァねーなぁ兄貴! どーだい? 裏切られる側になった気分はよぉ?」
これまでの鬱憤を晴らすかのように笑い続ける忌島。
蓬生の逃走から数十秒が経ち、聴覚の戻り始めた青空の耳にその声が滑り込んでくる。
無意識のうちに青空は声の方を向いた。ぼやけていた視界にも徐々に輪郭が戻り、声の主の姿をはっきりと捉えた。
(そうか……こいつらか……)
気力を失っていた青空の瞳に再び炎が宿る。激しい怒りの焔が。
(この異教徒共がクロエの心を乱したから……だから彼女はいなくなった! 許さない……俺の理想の邪魔をする奴らは……絶対に許さない!)
青空は一つ大きく呼吸した。全身に酸素を行き渡らせることで、未だ完全ではない身体の制動権を強制徴取するかのように。そしてネクタイを緩め、ボタンを三つ外した。
「お、本気になってきたか?」
忌島がおちょくるように言う。
対する青空は努めて冷静に、しかし確固たる怒りの滲んだ声で返した。
「ああ」
方々から怒声や悲鳴が木霊する修羅場の真ん中で、その呟きは鈴の音のようによく響いた。まるで神の力がその身に宿ったかのように。
「理想を阻む異教徒よ、貴様を排除する」
「ひゃははっ! いーねぇ! やっぱ喧嘩はこうじゃなきゃなぁ!」
しかしそれは不思議なことではないのかもしれない。青空は信者を導くための存在、七導師の一人なのだから。
ともあれ、今は敵同士となったかつての同門師弟対決の火蓋がここに切って落とされた。
☆
「はぁ……はぁっ……!」
青空のもとから逃走した蓬生は巽と合流すべく巨大迷路内を懸命に走っていた。
巽の声は絶えず聞こえている。だが、近くなったかと思えば遠ざかったりの繰り返しで、もうすぐ三分が経過しようかという今になって尚出会うことはできずにいた。
立ち止まるという選択肢はなかった。背後から、正面から、いつどこからあの恐ろしい青空が現れるか分からないからだ。
「はぁはぁ……ふぅ……」
蓬生はどちらかと言えば体力には自信がある方だったが、夏真っ盛りの日差しと、この極度の緊張状態が鼓動のリズムをかき乱し、もうこの場に倒れ込んでしまいたいくらいだった。
「おらぁぁぁっ!」
忌島の咆哮が轟き、蓬生は身体を強張らせた。
トラウマが蘇る。イギリスに住んでいた頃、蓬生は不良グループに監禁され、性的暴行されかけたことがあった。上枝家が日本へ居を移したのは、その一件があったからだ。
事件から月日が経ち、家族や使用人、友人たちの支えもあって自分では完全に立ち直ったと思っていた蓬生だったが、しかし圧倒的な暴力はそんなかさぶたを無慈悲に引き剥がしてしまった。
「たつにぃ……どこなの? どこにいますの?」
蓬生の端正な顔に一筋の涙が流れる。
強大な敵への恐怖、無力な自分への情けなさ、守ってくれるはずの執事への恋しさ、それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って蓬生の心は制御不能に陥った。
「あたくし……ここにいますのよ。どうしてきてくださいませんの?」
会いたい。
今すぐ会いたい。
その頼もしい胸に飛び込んで、震える身体を抱きとめてもらいたい。
(おねがい……おねがいたつにぃ……あたくしをみつけて……)
蓬生の涙腺がいよいよ決壊しようとしたその時、目の前の角を曲がってくる何者かの影が見えた。涙で歪んだ視界に、見覚えのあるシルエットが映る。
間違いない、巽だ。蓬生の心にぱぁっと光が灯った。
「たつにぃっ!」
届いた! 願いが届いた!
涙を拭うのも忘れて蓬生はその人物の方へ駆け寄っていく。
会えたのだ。巽にまた会えたのだ。
しかし。
「これはこれはお嬢さん。危ないですよ、一人でこんなところにいては」
曲がり角から現れたのは巽ではなく、フルフェイスのヘルメットを被り二丁の拳銃を手にしたテロリストだった。
☆
青空の本気の拳を腹部奥深くまで穿たれ、内臓に深刻なダメージを負った忌島は思わずカエルが潰れたような声を漏らした。
それでも忌島は全力を集中させた両脚で思い切り地面を蹴り、青空から距離を取って態勢の立て直しを試みる。
かれこれ、もう五回はこの展開が続いている。
蓬生がこの場から逃げ出して三分。
三分で、勝敗の行方はほぼ決まっていた。
序盤こそ相手の出方を測る青空が守りに徹していたため忌島が攻勢をかけていたが、そんな構図はものの十数秒で逆転した。
その数十秒で十分だとばかりに青空は防御を解き、忌島の右ストレートを避けざまに強烈なカウンターを見舞った。
耐久力のある忌島のこと、これには耐えた。だが、これを皮切りに猛攻に転じた青空の前に成すすべなく、忌島は防戦一方に追い込まれてしまった。
状況を打開できないまま、しかしダメージは確実に蓄積されていく。
場数を踏んでいる忌島には、この展開が続けばどうなるかが分かっていた。五分、いや三分ももたないかもしれない。ジリ貧だった。忌島は追いつめられていた。
「はぁ……くっそ……ちきしょおおおおおおおおおおお!」
破れかぶれで放った右はかすりもせず空を切り、今度は顎に掌底を食らった。
「ぐぎっ!」
脳味噌を思い切り揺さぶられた忌島は立っていることもままならず、あえなく最初のダウンを喫した。最低でも一分は立ち上がれそうにない。もはや、勝敗は決した。
しかし、青空は何を思ったかすぐにトドメを刺すことなく忌島をただ見下ろしていた。忌島からは、逆光で青空の表情は読み取れない。いや、逆光でなかったとしても物の輪郭さえあやふやなぐにゃぐにゃな視界では到底判別できなかっただろう。
青空に見下ろされながら、忌島は元々悪い上にダメージを受けていよいよ使い物にならない頭でぼんやりと考えた。どこかから聞こえる蝉の声がやけに大きく感じられた。
(何でトドメを刺しに来ねぇ……俺を嘲笑ってんのか? ふざけやがって……)
舐めプレイされている屈辱で忌島の頭は再び沸騰しかけるが、その一方で自分と青空の実力差を潔く認めてもいた。自分は全力で挑んだ。己の喧嘩人生の総てを出し尽くしたと言ってもいい。それでも青空には全く太刀打ちできなかった。教団史上最強と謳われ、十宗使徒でも一番の使い手であると自負していた自分が、だ。
(くそっ……くそがぁっ! 何でこんなことになってんだよ! 俺をコケにした裏切者の兄貴をこの手で殺してやれると思ってたのに……俺の実力なら簡単なはずだったのに……なんで……なんでだよ畜生!)
「納得がいかないか」
歯を食いしばり、目に涙さえ浮かべる忌島に語り掛ける青空の声は人の立ち入らない秘境の湖面のように凪いでいて、まるで説法をする釈迦のようだった。
「いくわけねぇだろ……」
一方的にやられ、もしかしたら情けさえかけられているのかもしれず、そんな状況でそれでも忌島は吠えた。狂犬は噛みつく以外の選択肢を持ち合わせていない。
「テメェだけは許せねぇんだよ……俺を裏切りやがったテメェだけはなぁ……! 絶対に死んで後悔させてやる……それまで、俺は殺されたって死なねぇんだよ!」
地に組み伏せられながらも焦点の定まらない目で青空を睨み付けた忌島は、己の魂を賭して吠え切ってみせた。例えどれだけ絶望的な劣勢に追い込まれても気持ちでは絶対に負けない。それが忌島の悪としての矜持だった。
そんな忌島に、青空は眉一つ動かさずに吐き捨てた。
「だからお前は俺に勝てないということがまだ分からないか」
その時、太陽が雲に遮られ、逆光になっていた青空の顔が忌島からも明らかになった。
忌島を見下ろす青空の表情は衆愚を忌み嫌う聖者のものであり、同時に出来の悪い弟子を憐れむ師のものでもあった。
「お前が感じているほど、俺たちの間に実力の差は存在しない。ならばなぜここまで一方的な展開になったのか。それはな、戦う理由の違いだ」
「あ?」
「俺は教団の理想を実現し、世界を救うために戦っている。自分以外のために戦っているから、常に自分が何を成すべきかを冷静に考えられる。だがお前の戦う理由はむかつく相手をぶちのめしたいという街の喧嘩程度のものだ。自分のためでしかないからすぐ頭に血が昇り、まともな思考ができなくなる。強い肉体という高性能マシンも操る者の腕が悪ければ力を発揮しない。これは当然の結末だ」
青空の演説を忌島は黙って聞いていた。喋るだけの力が残っていないから、ではない。青空との戦いで受けたダメージなど、この演説の間に大方回復していた。忌島の驚異的な回復力は筋肉や内臓の損傷はおろか、脳へのダメージすら元通りにさせていたのだ。
(精々語ってろや……その演説が絶命へのカウントダウンとも知らずになぁ……)
「さて、話はこれで終わりだ。そして、お前の命もな」
演説を終えた青空は遂に最後の一撃を繰り出すべく、ほぼ無傷の両腕に力を込めた。
対する忌島も、一発逆転の切り札を発動すべく、機をうかがう。
太陽を遮っていた雲が途切れ、再び強烈な日差しが二人に降り注いだ。
「さらばだ……瞬毅」
その瞬間、忌島は確かに見た。逆光で、物理的には見ることが難しいはずの青空の顔に、かつての、まだ二人が絆で結ばれていた頃の優しさが浮かんでいるのを。
気がつくと、忌島は青空の渾身の突きを躱しながら飛び起き、相手の背後に移動していた。
忌島の動きを追う青空の表情に変化は見られない。それでも、忌島は確信していた。
青空は自分のことを覚えている。気がついていると。
「何だよ、覚えてんじゃねーか」
「……」
青空は何も言わなかった。忌島のことを覚えていながら知らないふりをしていたのか、はたまたこの三分弱の闘いが青空の記憶を掘り起こしたのか、忌島には判別などつかない。しかしともかく、今の青空は忌島をかつて可愛がった弟子だと認識しているのだ。
「兄貴はさ……俺の憧れ、ヒーローだった。俺もいつかは兄貴みたいにって、俺ずっと思ってたんだ」
想いを述べる忌島の瞳に、もはや憎しみの色はなかった。忌島は青空のことが憎くて憎くて憎くて憎くかったが、それはそれ以上に青空のことが好きで好きで好きで好きだったからだった。
そんなずっと目標にしてきた師が本気で殺すつもりで自分に向かってきて、最後に名前まで言ってくれた。もう憎むなんてできるわけがなかった。
だからこそ。
「今の兄貴は見ていられねぇ……人形に骨抜きにされて、変わり果てちまった……だから、俺が終わらせてやる」
忌島の両手はポケットに突っ込まれている。切り札はそこに入っていた。本来であれば格闘のみで青空を倒したいところだったが、それが難しい状況に陥った時を想定し準備しておいたのだ。
例え不本意な手段に頼ったとしても、青空の息の根は自分が止める。かつての同門、師弟として。それ以上に、青空爽を敬愛する一人の男として。
「戦う理由がどうたらっつったな……」
左ポケットから取り出した物体を忌島は天高く放り投げた。
それは西洋人形だった。青空の注意がそこに向けられる。
「俺の戦う理由はあんただ」
間髪入れずに、忌島は右ポケットから拳銃を取り出して青空へと向ける。
重力に導かれた人形が落下を開始する。予想される落下地点は青空の十メートル後方。
青空は人形を無視することができない。彼にとって人形は御神体だからだ。
かくしてここに、忌島瞬毅にとって千載一遇の勝機が作り出された。
人形を捕まえるため背を向ける青空を狙い放題撃ち放題。
「もうあんたに生き恥は晒させねぇ」
青空の表情が愕然としたものになる。
忌島は勝利を確信し、微笑んで告げた。
「じゃあな……兄貴」
無骨な格闘家の指が引き金を引いた。その瞬間、青空がかすかに笑ったように、忌島の目には映った。




