一線を超えた先に
6
「イミわかんない……マジでイミわかんない……」
早く渡れと、対岸で奥州がうんざりした顔をしている。
手招きするつぐらと、腕を組んでにやついている宝生。
此岸に一人残された美闇はリフトの手すりを握りしめ、懸命に震えをこらえようとしていた。
しかし彼女の細い脚は、地に縫い付けられたように一歩も前に進んではくれない。
くじびきの結果は、四番目。
まず奥州が、次につぐらが、そして宝生が渡る様子を、美闇は絶望的な心境で眺めていた。
客観的に考えれば、三人を無事に対岸まで運んだリフトが美闇の番でいきなり切れるというのは心配のし過ぎというものだ。二メートル超の奥州でさえ渡れたのだから、体重50kgにも満たない美闇なら何ら問題ないと判断して差し支えない。
だがしかし。
彼女は暮地美闇。
不運に付きまとわれ、不幸に愛された女。それが彼女なのだ。
この壊れかけたリフトだって、きっと彼女が渡るとなれば待ってましたとばかりに本体も支柱もワイヤーも、バキバキに裂けてビリビリに千切れてコントのように崩れ落ちる。小説や漫画ならありきたりすぎてボツ確定の展開。しかし残念ながらこれは現実なのだ。
それが黒魔術師・暮地美闇の背負った業、宿命だった。
「ミヤちゃん、大丈夫にゃ。全然怖くないにゃあ」
つぐらが子供をあやすような優しい声で諭す。
「天井の染みを数えている間に終わるにゃ」
一体どこでそんな言い回しを。というかここ外だから……と、普段のようなツッコミを入れる余裕も元気もあるわけがない。今や美闇は冗談抜きにマジ泣きしていた。
「無理……むりムリ無理ぃ! 私別の道から行く! ちょっとくらい遅れたって平気でしょ! 決行は明日なんだから!」
「分かった」
不自然なほどに落ち着き払った奥州の声が、全ての音を黙らせた。
美闇も、つぐらも、宝生までもが彼を振り向く。
分かったとは? もしや、美闇の主張を受け入れるのか?
谷を挟んで困惑と期待が渦巻いたが、しかしそんなことがあるはずがなかった。
「お前は置いて行く。覚悟のない者がいたところで、邪魔になるだけだ」
静かな声だった。怒りも呆れも、軽蔑すらも混じってはいない。ただ、目の前で起こったことに対して、ありのままの反応をしただけ。そんな様子だった。
「まぁ、無事に下界に帰れることは祈っておいてやる。そして帰れたなら、もう二度とこちら側へ来ようなどとは考えないことだ。この世の普く総ての存在に、弁えるべき領分というものがあるんだよ」
餞別の言葉を投げた奥州は、それきり振り返ることなく先へ進んで行ってしまう。
そんな彼と美闇の間で、つぐらがおろおろと視線を泳がせている。
(何よ……なによ何よ! 髭もじゃもじゃの小汚いデブオヤジのくせに! なんでもかんでも自分基準で進めないでよ! 自分こそが絶対で、周りはついてきて当然だなんて妄信しちゃって、これだからオヤジは嫌っ! たかがオンボロのリフトに乗れたことがそんなに偉いわけ? いい加減くっだらないことで偉ぶる奴多すぎなのよ! どんだけ程度低いのよこの世の中!)
いつものように心の中で悪態をつきつつ、しかし同時に美闇は突き付けられた事実の重さに打ちのめされてもいた。
覚悟のない者は邪魔なだけ。
覚悟……自分にはなかったのだろうか。
自分の中では決まっていたつもりだった。何といっても自分が今乗りかかっている船はテロ計画なのだ。
成功しても、失敗しても、もう日常には戻れない。
破滅へ向かって時速300キロでかっ飛ばしているような状態なのだ。
自分はこれからテロリストになる。いや、計画に組み込まれた時点でもうテロリストなのだろう。
だから、日常には別れを告げてきた。
教団の仲間、趣味を通じてできた友人、家族、そして……眠ったままのこゆり。
こんなどうしようもない自分でも大切に思ってくれる人はいて、自分も彼女たちを同じくらい大切に思っていて、そんな人たちと二度と会えなくなっても構わないという気持ちでここまでやってきた。
殺したい相手が、殺さなければならない相手がいるから。
自分の人生を滅茶苦茶にし、今度はこゆりの人生さえも壊そうとしている最低最悪の存在。そいつをこの手で、この世から抹消すると誓ったから。そのためなら自分の人生なんて、どうなっても構わないと思ったから。
けれど、それはただの捨て鉢だったのだろうか。
投げやりな自棄に過ぎず、覚悟とは似て非なるものだったのだろうか。
だから、自分の身体はここから一歩も前に進まないのだろうか。
不甲斐なさに、美闇が唇をぎゅっと噛みしめたその時、対岸で宝生が笑った。
「無様だな。黒魔術の女」
先程までの自分のビビリを差し置いての勝ち誇った表情。愉快痛快と顔に書いてある。
美闇は心底こいつを殴り飛ばしてやりたいと思ったが、しかし言い返すことさえできなかった。
宝生は渡り、美闇は渡れなかった。
その事実だけが、重く、重くのしかかる。
「まぁ、そう深く考えないことだ。この世には、選ばれた者とそうでない者がいる。己は前者で、君は後者だった。それだけのことさ」
オーバーな動きで肩をすくめ、鼻息荒く宣言する。
認めたくはないが、こいつも自分と同類だと美闇は思った。
滑稽丸出しで自分の弱さを隠し、優位に立てば鬼の首を取ったがごとく徹底的に相手をこき下ろす。
情けない臆病者だ。
そんな風に思われていることなど露ほども知らない宝生は更に続ける。
「ただ、一応礼は言っておこうか」
「礼?」
訝しむ美闇を、更に馬鹿にするように宝生は語る。
「ああ、これから始まる歴史的ショータイムにおいて、獲物を取り合うライバルが一人、自分から参加を辞退してくれるんだからな。まぁ君なんかはいてもいなくても己にとっては大した問題ではないが、ともかく……」
キザったらしく前髪をかき上げ、宝生は言い放った。
「君の獲物も、ちゃんと己が料理しておいてやるよ」
……ぷつん。
その言葉が美闇の耳に届き、脳内で「獲物」の姿が再生され、目の前の男がそれを横取りすると宣言したことを理解したとき、彼女の中で何かが切れた。
それは目に見えず、物質としての形も有してはいないのだが、しかし確かに存在していた。
美闇を「こちら側」につなぎとめていた鎖。それが今、断ち切られたのだ。
「お、おい……何をする気だ?」
宝生が慌てている。美闇の乗ったリフトが対岸へ向かって動き出していた。
此岸から彼岸まで、およそ二十五メートル。
眼下遥か谷底には、落ちてきたものすべてを粉砕する岩場が死の気配を漂わせている。
美闇の心から恐怖が消え去ったわけではない。
身体の震えが治まったわけでもない。
一瞬後に谷底に転落するかもしれないという絶望は、変わらず彼女を支配し続けている。
そんな精神状態にあって、尚美闇を突き動かしたもの。
それは憎しみか、はたまた使命感か。
美闇自身にも分からない。
だがそんなことは問題ではなかった。とにもかくにもこの谷を渡り切り、この先の行程も歩き切り、そして辿り着いた復讐の舞台で憎き相手を葬り去る。
他の誰でもない、美闇自身の手で。
それだけは絶対に、絶対に譲れない。
「じゃなきゃねぇ……収まりがつかないのよ……きゃあっ?」
半分ほど進んだところで、リフトが大きく揺れた。
美闇の位置からは確認しようもなかったが、実はこの時彼女が恐れていた最悪の事態がまさに起きようとしていたのだ。
このリフトは、かつてこの山にあった作業所が業務に使用していた施設のひとつだ。
撤去されることなく放置されていたのをある人物が発見し、目立たずに緋斗潟村入りすることができるルートとして活用されることとなったのだ。
リフトを支える柱は木製で、戦前から使用されていたそれは耐用年数を優に十数年はオーバーしていた。
日常的に使われていないのだから、もちろん定期的な整備や部品の交換などがなされているわけがない。
つまり、このリフトはとっくに寿命を迎えていて、いつ破損して美闇を谷底へと落下させてもおかしくない状態だったというわけだ。
「にゃああ! ミヤちゃん急ぐにゃ! リフトが壊れるにゃ!」
つぐらの悲痛な叫びが一帯に響き渡る。隣の宝生は笑みこそ崩していないが、その顔は冷や水を浴びせかけられたように固まっていた。
美闇は直感した。もうこのリフトはあと一分もつかどうかだ。
(……で、それが何?)
喉元にナイフを突きつけられたような絶体絶命の状況で、しかし美闇は落ち着いていた。
短時間に立て続けに衝撃を受け続けたことで、心が研ぎ澄まされたのかもしれないなどと、冷静に分析すらしていた。
第一、壊れかけたリフトに乗り、それが壊れるだなんて、そんなのは当然のことだ。
とにかく、一分以内に渡り切ればいい。今自分のすべきことは、ただそれだけ。
「死ぬ……もんか……こんなわけのわからないところで……あいつを殺さないまま……死んで、たまるかぁっ!」
死ねない、生きるという美闇の強い思いが、迫りくる死の運命を押し返した。
リフトは、もうあと五メートルでつぐらたちのいる岸にたどり着く。
だが、美闇にしつこく絡みつく不幸という名の毒蛇は、最後まで彼女を離しはしなかった。
対岸の支柱が音を立てて裂け、破損した。
支えを失ったリフトは、重力に引かれるまま落下を開始する。
つぐらが必死で手を伸ばすが、届かない。宝生は棒立ちのままだ。
もはや死を待つのみという最期の刻、しかし美闇は悲鳴を迸らせるでもなく、絶望に言葉を失うでもなく、ただ一言、口にした。黒魔術師・黒曜院美闇として。
「漆黒なる闇の下僕よ、我の魂と依代を彼の地へと運べ」
7
十秒の後、美闇はつぐらたちと同じ崖の上にいた。
再度彼女の窮地を救った奥州が、呆れた声で、しかし冷や汗をかいて言う。
「……もしかすると俺たちは、とんでもねぇ化け物を目覚めさせちまったのかも知れねぇな」
奥州は、今度こそ美闇を完全に見捨てたはずだった。寸分の情けもなく、見限ったはずだった。
だというのに、気が付いたらまた彼女を助けていた。
こんな小娘を助けたところで何になる。体力はない。精神力も一般人以下。特殊能力を隠している様子もない。テロを実行する上でプラスになりそうな要素など何一つない、どころか高確率で足手まといになるであろう女を、しかしどうして自分は二度までも助けたのか……
奥州はその答えを求めるように美闇を見やったが、しかし目に映ったのは助けられた立場でありながら尊大な態度の残念女でしかなかった。
「ようやく理解が追いついたようね。力が強すぎるというのも、また難儀なことだわ」
美闇の全身を、高揚感が満たしていた。
死にかけるという経験。それも、この短時間で二回目だ。
死の運命に二度足首を掴まれ、しかし二度ともそこから生還した。
不運を、不幸を、振り払った。
自分は、やっとこの忌々しい宿命に打ち克ったのだ。
「そうよ、我は漆黒の闇の伝道者にして、それを統べる支配者。漆黒、それは何にも染まらない絶対にして不可侵の象徴。絶対と不可侵をこの身に宿す我が、この程度のことで……」
その時強い風が吹いた。
煽られた美闇はバランスを崩し、咄嗟につぐらに支えられる。
その時に見てしまった。根本から折れた支柱の無残な残骸を。
確かに美闇は二度死にかけて二度生還した。しかし、二度も死にかけるということがそもそも異常なのであり、そして三度目がやってこないとは限らない。いや、必ずやってくる。美闇はこれから、命を奪い合う争いの渦中に身を投じるのだから。
「この……こんなことで……死ぬわけ……」
高揚感は嘘のように消え、ぶり返した恐怖だけが残った。
「ミヤちゃん、無理しなくていいにゃよ?」
背伸びをしたつぐらに頭を撫でられてしまう。奥州がやれやれと肩をすくめた。
「ま、人間そう簡単には変わらないってことか」
興味を失ったように、美闇を助ける際辺りに放り捨てた荷物を拾い集めていく。
その背中に、美闇は気力を振り絞って言葉を投げつけた。
弱くても、情けなくても、使えなくても、足手まといでも……
それでも、意地はある。
「私、行くから。来るなって言われても、お荷物って言われても、絶対行くって決めたから」
少女のようなひたむきな表情の美闇に、しかし奥州ははいはいと気のない返事を返しただけ。
抑揚がなく、落ち着いていて、そして少しばかり優しげな響きだった。
「あと、あんた」
次いで美闇は宝生に視線を向ける。
先程散々美闇を馬鹿にしていた宝生はびくっと身を竦ませた。ぶん殴られるとでも思っているのだろう。
こいつには勝ってる。確信した美闇は高らかに宣言した。
「私の獲物は、あんたなんかには絶対に渡さないわ。いいえ、誰にも渡さない」
宝生、つぐら、奥州に、そしてまだ見ぬ六人に向けて美闇は啖呵を切った。
「陵眠の息の根を止めるのは、この私よ」
言葉にした瞬間、陵の姿が美闇の脳裏に鮮明に浮かび上がった。
それだけで、美闇の身体は怒りで震える。奥歯を噛みしめる。
殺すだけではとても収まりがつきそうにない。
嬲ろう。嬲り尽くそう。
バトル漫画のキャラがこれをやると大抵遅れてやってきた主人公に倒されることになるが、知ったことか。殺すだけなら、殺し屋でも雇えばいい。美闇は、自分の手で陵に苦痛を与えたかった。
そうすることで、陵という存在を超えたかった。
踏みにじられた過去を、いたぶられる現在を、悲嘆に暮れる未来を、否定し、消し去ってやるのだ。血を吐く思いで獣道を踏破し、幾度も挫折しそうになりながらも必死に食らいついてここまで辿り着いたのは、全てはそのため。それだけのためだ。
全ての後ろ盾を奪って無防備の状態にひん剥き、
これまで受けた虐待と屈辱を倍にして返し、
人生の全てを、自分が生まれてきたことさえも後悔させ、
その上で地獄に送る。
(虫唾が走ることに、あの手の強者は虫けら扱いしている相手にはどこまでも残酷になるくせに、仲間や身内のことはとことん大切にしているのよね。DQNあるあるだわ。陵も例外じゃない。あの女は早くに両親を亡くしていて、三人の妹の母親代わりをしている。特にまだ5歳の末っ子は目に入れても痛くないんだとか。チッ、外道のくせに、マジむかつく。でも、それこそが決定的なあいつの弱点。その大事な末娘にガソリンぶっかけて火をつけてやるなんて言ったら、あの女どんな反応するかしらね……ふふ……あはっ、あははははっ! ……やば、ニヤけるの止めらんない)
不気味な笑いをこぼしている美闇に、宝生は完全に引いている。
「こ……この女には関わらないでおこう」
「なんで?」
対してつぐらはいたって平気な顔。不思議そうに彼の顔を覗き込むのだった。
「ま、いいんじゃねえか?」
いつの間にか先を行っていた奥州が呟く。その声音に、三人ははっとした。
その声には、山賊すら超越した、獰猛な獣の気配が含まれていた。
彼もまた獲物を仕留めるためにやってきた狩人なのだから不思議なことではないが、しかし美闇たちはそれだけではない何かがあることを感じ取った。
「お前ら、早くこっちに来てみろ。奴らの根城が見えるぜ」
親指で後方を示した奥州は奇妙な表情をしていた。
口は笑っているが、目は笑っていない。これから獲物を狩る高揚と、獲物への抑えきれない憎しみが同居している、陽と陰の混沌がそこにあった。
美闇たちは言葉を発することも忘れて奥州の隣へと駆ける。
四人は横一列に並ぶ格好となり、眼下に広がる景色を食い入るように見つめた。
緋斗潟村だ。
夕刻の農村。山々にぐるりと囲まれた田畑や茅葺屋根の家々が、夕日に照らされて朱く煌めいている。
まるで、このまま世界が終焉を迎えてしまうかのような、「終わり」を感じさせる風景。
陳腐な感傷だと人は笑うだろう。
だが、美闇たちは知っている。
この美しい風景は、今を最後に永遠に失われる。
名画をペンキで塗り潰すように、花壇を土足で踏み荒らすように、単純な、しかし圧倒的な暴力によって破壊し尽くされるのだ。他ならぬ、美闇たちの手によって。
「とうとう来たのだな……しかし、実際に見てみると、いやはや」
「あれが『ろわいよむ・えとわーれ』……」
「……ふん」
アンジュ・デ・ポームの聖地「ロワイヨム・エトワーレ」は緋斗潟村の中心で、病的なまでに場違いに、しかし逆らえないほどに堂々と存在していた。
(あそこに、あいつがいる)
遂に辿り着いたのだ。目に見えるところまで。
次は、手の届くところまで。
必ず陵を殺す。あいつの存在を終わらせる。こゆりと、そして自分自身を、陵の呪縛から解き放つ。
「ふざけた外観ね。完膚なきまでに破壊してやりたい」
美闇が零すと、奥州が笑った。
「案ずるな……明日の今頃はそうなっている。窓ガラス一枚残りはしないさ」
風が吹き抜ける。
まるで、ラストダンジョンに辿り着いた四人のパーティーを後押ししているかのように。
ファンタジーと違うのは、これから攻略するダンジョンは魔王城というより国王城で、倒すのは魔王一派というより王族だいうところだろう。
美闇たちは正義ではない。
しかし、それは相手にしても同じこと。
現実世界はゲームと違って、単純に正義や悪という言葉でカテゴライズなどできないのだ。
奥州が眼下の景色から視線を外し、再び歩き出した。
「さぁ、もう展望台観光は十分だろう。ここまで来れば、もうすぐだ。集合場所はな」
美闇たちも奥州の後を追う。
もうすぐという一言が、美闇の足取りを軽くさせた。