厨二黒魔術師・暮地美闇(26)
1
20XX(回生十七)年7月17日。
秋田県北部、竜ヶ森山腹の山道。というか獣道。
「はぁ、はぁ……も~やだ疲れた歩けない~! 何なのよこの酷道は~!」
暮地美闇は後悔していた。
人目を避けて「集合場所」に向かうため、どう見ても整備などされていない、どころか存在すら忘れられているような山道に分け入って、既に二時間。
歩けども歩けども、どれだけ進んでも目的の建物は現れない。
遂に山はどんどん深さを増し、秘境を通り越して魔境の様相を呈していた。
(間違えた……完全に組む相手を間違えた……)
このグループへの参加を決めるにあたり、美闇は検討や比較や相談や検索といった作業を一切していない。つまり即断だった。
それは決して美闇が脊髄反射で生きているからっぽさんというわけではなく、やむにやまれぬ事情があってのことなのだが、しかしならばなおのこと、慎重に考えてから決めるべきだった。後悔先に立たず。
「ねぇ……ちょっと……少しペース落として……」
完全に上がっている息の合間を縫って途切れ途切れに絞り出す言葉は、しかしもちろん先を行く者には届かない。
美闇より一回り以上幼い、長い黒髪の少女。
そんな幼女が、30メートル先を軽快にひょいひょい進んでいく。
明らかに山歩き、いや登山には不向きなひらひらふりふりのゴスロリ服に、ぴょこぴょこ尻尾に、ツンツン猫耳。
冗談みたいな格好の猫娘が、段々とぼやけてきた美闇の視界の中で右に左にゆれていた。
遂に美闇は立ち止まり、天を仰いで叫ぶ。
「うああ~! こんなグループ参加するんじゃなかったー!」
そう言ってみても、もう遅い。
引き返せる限界地点はとうの昔に過ぎ去っており、そして今彼女が立ち往生しているのはおよそ市販されているものでは最も詳細な地図にさえ記載されていない獣道。
一人帰ろうとしたところで、遭難した挙句餓死して動物の餌になるのが関の山。
つまり、進むしかない。どんなに疲れていようとも。
救いがあるとすれば、一日中散々照り付けていた日差しが夕刻に差し掛かってようやく陰り始めてきたことだ。まぁ、汗びっしょりで歩き続けている美闇にとっては大した助けにもならないが。
「あ~つ~い~、冗談抜きで脱水死する~」
只今の気温37度。
都会のようなアスファルト熱がないとはいえ、この気温はそれだけで脅威だ。
加えて、美闇の服装が灼熱地獄に追い打ちをかけていた。
全身を覆う、黒装束。
この夏の日差しは全て私のもの!とでも言わんばかりの、徹頭徹尾の真っ黒衣装だった。
今どき、場末の占い師だってこんなベッタベタな格好はしないだろう。
剣と魔法の世界のキャラクターにしたって、もっとカジュアルなデザインのはずだ。
ではなぜこの酷暑の中そんな格好をしているのかというと、それが彼女の正装だからということに他ならない。
正確には、彼女の所属する宗教団体の。
永久なる闇夜の支配者「ネクロドルーグ」。
十四年前、危険宗教規制法によって解散処分の対象となる第四種に指定され、表向きは消滅したことになっている宗教団体だ。
美闇はその代表として、東京から秋田まで遠路はるばるやってきたのだ。
テロリストとして、テロに参加するために。
美闇が向かっているのは秋田県北部の大館市と北秋田市の境に位置する集落「緋斗潟村」。
四方を山に囲まれ、明治時代に作られた小さなトンネルが唯一の出入り口というまさに秘境の村には、新興宗教団体「アンジュ・デ・ポーム」の聖地が置かれている。
その教団は、危険宗教規制法の制定に端を発する政府対宗教サイドの内戦、通常「宗教浄化」の渦中、宗教サイドの同志を政府に売って生き延びるという裏切り行為を働いていた。
その罪が今年の春、とある人物の告発によって十四年の時を超えて白日の下に晒され、宗教サイドはアンジュ・デ・ポームへの制裁として、七人の最高幹部「七導師」の殺害を決定。
宗教サイドの中核を成す十の宗教団体からそれぞれ一名を代表に選び、天誅を与える十人の刺客集団「十宗使徒」を結成。アンジュ・デ・ポームの聖地「ロワイヨム・エトワーレ」を襲撃することとなった。
美闇は、そんなテログループの一人なのだ。
代表とはいっても、美闇はネクロドルーグの教祖でもなければ、幹部でさえない。
単なる一般信徒、名簿に載っている内の一人でしかない。
男嫌いでオタクで引きこもり気味の、どこにでもいる26歳の日本人女性だった。
特に指導的立場の人間でなければならないということもなく、他に自薦他薦もなかったので教団はすんなりと彼女を代表者として送り出すことを決定した。
昨夜、上野駅から寝台特急曙号に乗り込み、一路東北へ。
今朝がた大館駅で花輪線に乗り換え、扇田へ。扇田から竜ヶ森山麓鉄道で終点の夕闇まで乗り通し、そこからここまでひたすら歩いてきた。
一日三本しかない竜ヶ森山麓鉄道は地元の人間からも半ば忘れ去られていて、乗客は美闇と猫娘の二人だけ。明らかに地元住民でない二人が、お互い「代表者」であると気づくのは当然の流れだった。
2
「ミヤちゃ~ん! こっち来て!おもしろいものがあるにゃ!」
猫娘がぶんぶんと手を振っている。
彼女は五宝木つぐら。まだ10歳だが、しかしれっきとした「猫神教」の代表者だ。
本来は教団のトップである「長老」が代表になるはずだったが、彼が急病でダウンしてしまったので実力的にナンバー2である自分が選ばれたのだと、竜ヶ森山麓鉄道の車内でした自己紹介でつぐらはドヤ顔で語ったのだった。
対してこれといって特技も肩書もない美闇は、とりあえず厨二的な抽象論を展開してお茶を濁しておいた。つぐらは内容の一割も理解できなかったようだが、むしろそれでいい。
厨二にとって、相手の理解が追いつかないというのは、勝利と同義だからだ。
「み、ミヤちゃんって言うなっ! ……ふ、ふふふ、良いか物の怪も少女よ。我が高貴なる真名は黒曜院美闇。千年に亘る封印から解き放たれし、漆黒の闇の正統なる伝道者よ。本来ならばこうして下界に赴くことなどないのよ。故に……」
美闇はバイリンガルだ。日本語と、あと厨二語の。
この台詞は意訳すると、
(ミヤちゃんだなんて……し、親友同士みたいで照れちゃうじゃない……せっかく格好良い宗教者ネームがあるんだから、そっちで呼んでよね!)
という感じだ。実社会では役に立ちそうにない。
「そーいうのいいからー! ミヤちゃん、はーやーくー!」
美闇の演説をスルーしてつぐらは無邪気に呼びかけてくる。美闇は諦めた。
「……はぁ、もう仕方ないわね」
美闇は息をつき、つぐらの方へ歩き出す。
疲れてはいるが、しかしそこまで嫌な気はしない。
つぐらは純粋ゆえに人を振り回してしまうだけで、とってもいい子なのだ。ウォーカーズハイな状態も相まって、新しい妹分ができたような気さえしていた。
「ミヤちゃん! これこれ!」
つぐらがしきりに指をさしている先は、美闇の位置からは陰になっていて見えない。
覗き込むため、更に近づいていく。
「だからミヤちゃんじゃないってーの。どれどれ……」
つぐらが満面の笑みを浮かべるものとは一体何だろう。
綺麗な花か、可愛い小動物か。
いくばくかの期待を抱いて藪を覗き込んだ美闇が目にしたものは、しかし思い描いていたような綺麗だったり可愛かったりといったものではなかった。
というか、思いっきり真逆。
「ひっ……」
藪の奥に鎮座していたもの。
それは白骨死体だった。
登山装備を身にまとい、木を背にして力なく座り込んでいる。遭難者だろう。
「い……いいっ……」
白骨。躯。骸骨。
髑髏の水晶だったら、美闇は見たことがあった。
ネクロドルーグは黒魔術信仰の教団なので、儀式で使う道具の中には若干グロテスクなものもなくはなかった。しかしこの白骨は、装備などに「生」の残滓を多く残していて、それゆえに明確で圧倒的な「死」のオーラを美闇に突き付けていた。
存在を前にして、一方のつぐらは呑気なものだった。
「お! 胸ポッケになんか入ってるにゃ! どれどれ……なーんだ、タバコの箱かぁ。いーらないっと」
つぐらがタバコの箱を引き抜きざまに放り捨てると、白骨の身体がガクンと揺れた。
まるで、命を取り戻したみたいに。
そしてそれがダメ押しとなり、美闇の限界点は弾け飛んだ。
「いっ、いやああああああっ!」
叫ぶが早いか、美闇は駆け出していた。真っ白になった頭はただひとつ、ここから離れろという命令だけを狂ったように発している。
冷静になってみれば、あんなものはただの骨であり、そこらへんの石ころや木片と何も変わらない無機物に過ぎない。だが疲労と苛立ちによってその冷静さを失っていた美闇は、そんなことすら分からない状態に陥っていた。
無秩序にせり出した木々の枝葉が黒装束のあちこちに引っかかり、ところどころは破けたりもしたが、しかし美闇はそんなことには気づきもせず無我夢中で駆けた。
後ろからつぐらの叫び声が聞こえた、時にはもう遅かった。
落とし穴にはまった瞬間のように、足元から地面の感覚が消失する。
夢中で駆けこんだ藪の先に地面はなく、代わりに視界一杯に緑鮮やかな夏の山々が広がっていた。
あろうことか、全速力で崖に突撃してしまったのだ。
慣性の法則により、美闇の身体は中空に投げ出される。
無意識に下を見てしまった。ごつごつした岩場を縫うように川が流れている。高さは80メートルくらいだろうか。
(……あ、終わった)
あまりに唐突な展開だったからか、はたまたもはや死から逃れようのない状況だからか、美闇の心は波ひとつない湖のように穏やかだった。
(あーあ、最後まで不運で不憫な人生だったなぁ……これも暮地なんて名字のせいよね。九分九厘「墓地」と空目されるもん。間違いなく相当運気落としてるわ……)
高校でドロップアウトするまでは、それなりに充実していたと言えなくもない美闇の人生だったが、それでもことあるごとに「墓地」とか「お墓」とからかわれ、それが嫌で仕方がなかった。「せっかく面白い名字なんだから、いじられキャラの道を極めてみろよ」と抜かした脳筋教師がいたが、そいつとはそれっきり一度たりとも口をきかなかった。
(いっそ海外……ヨーロッパなんかでもいいわね。いや、もうこの際異世界でもいいんじゃない?ていうかこれ、完全に異世界行く流れでしょ。小さいけど平和で気品のある国のお姫様として生まれて、魔法の才能があって、周りが勝手にちやほやしてくれて、何の苦労も悩みもない毎日を送って……)
このままひと思いに死んで、異世界転生するのも悪くない。
モンスターとかモブキャラとか悪役令嬢なんかになってしまう可能性もなくはないが、でも、少なくともこの世界よりマシなことは確かだ。
なんかもういいや。異世界行っちゃおう。ばいばい現世、永遠にさようなら。
物語の主人公になるなら。
重くて暗くて鬱展開の国内テロサスペンスなんかより、前世でひきこもりだった厨二少女が剣と魔法の世界で無双して幸せを掴むファンタジーの方が良いに決まっている。
だから美闇も、目を閉じようとした。
生きることをやめるのなら、視覚なんてもう必要ないから。
但し。
死んだっていいという諦観も、異世界への転生願望も。
美闇が恨みや憎しみのみを理由とし、破壊と殺戮のみを目的としてこの計画に参加していたらの話だ。
もちろん、恨みや憎しみがないわけではないし、破壊や殺戮をしないと断言もできない。
美闇の目的は、最高幹部「七導師」のメンバーである、一人の女性を殺害することだ。
その女は美闇が三か月だけ在籍していた高校の同級生で、ドロップアウトの原因となった人物だ。美闇の人生を直接的に破壊した加害者であり、百回殺しても飽き足らない存在だ。あいつは絶対に自分の手で葬ると、美闇は決めていた。
だが、殺す一番の理由は、それではない。
大切な存在を守るためだった。
高校時代に美闇を虐げ、廃人寸前にまで追い込んだ女。
それは確かに絶望的なまでの脅威ではあったが、しかし今となってはもう何の関係もない。
過去にどれだけ甚大な影響を及ぼしたといっても、物理的に社会的に心理的に離れてしまえば、関係を寸断してしまえば、もう美闇には一切影響を与えることができない。
言ってしまえば、死んだのと同じ。
あいつは死んだ。消えた。くたばった。もう二度と現れない。
そう言い聞かせることでようやっと、一人で外を歩けるようになった。
それまでは、あの女やその手下が自分を見張っていて、待ち伏せしているという強迫観念で、裏の公園にすら行けない状態だった。
けど、もうそんなことはない。あの女の支配は終わった。
そうやって美闇は少しずつ、活動領域を広げていき、大学卒業後は黒魔術グッズの通信販売の仕事をするまでになった。
だが、そんな美闇の幸せを土足で踏みにじるように、再びあの女は現れた。
美闇が居住しているネクロドルーグ本部はわけありの女性の避難所という一面もある。
最年少は福島こゆりというまだ十歳の少女で、彼女は多くの住人の中で特に美闇によくなついていた。お風呂も寝るのも一緒で、教団内でも評判の仲良し姉妹だった。
そのこゆりが、学校でいじめに遭っていた。
いじめていたのは、あの女の妹だった。
こゆりは毎日ぼろぼろにされて帰ってきた。
それでも美闇たちの前では笑顔を見せて、学校を休もうとはしなかった。
とうとう我慢できなくなった美闇が問い詰めると、誰にも言わないでと念を押した上でこゆりは打ち明けた。
「わたしが逃げたら、ネクロドルーグが非合法団体だって警察に言うって。美闇さまやみんなを……し、死刑にするって……だから、だからわたしね、がんばるよ? まけないよ? ぜったいに美闇さまたちを、そんなことにさせない……から」
震える声で、しかし決意を秘めてそう言った翌日、こゆりは歩道橋から転落した。
一命は取り留めたが、今も意識は戻っていない。
美闇が聞き出したところによると、いつもいじめを行っているグループに命令されて、歩道橋の手すりを歩かされたということだった。その様子は動画投稿サイトにもアップロードされていた。
美闇はそれを見て泣いた。
そして怒った。
何の罪もない少女を寄ってたかって虐げたガキどもに。
危機に瀕していた信徒を見殺しにしたに等しい教団に。
何よりも、何もできなかった自分自身に。
こゆりを壊した連中は、しかし何の罰も受けることがなかった。
恒常的にいじめが行われていたことが証明されず、転落事故との因果関係も認められなかったからだ。
理由として、表面上こゆりが孤立していなかったことが大きい。
いじめグループの中心である、あの女の妹のグループに所属していたので、傍目にはカースト上位にすら見えていたという。
しかしその実態は仲間でも友達でもなく、サンドバッグだった。
恥ずかしいことや屈辱的なことの強要、トイレや倉庫への監禁、虫やごみや汚物を食べさせ、逆に給食は奪い取り、金品を巻き上げ、犯罪行為を唆した。
およそ考えられるあらゆるいじめが行われていて、しかし「決定的な証拠がない」という理由で美闇たちの訴えは退けられ、逆に「気味の悪い団体がいることが子供たちに悪影響を及ぼしている」と糾弾される始末だった。
美闇は絶望した。
学校、教師、保護者、どいつもこいつも普くみんな、自分と身内のことしか考えていない。こんなやつらに何かを求める方が、期待する方が愚かだ。
そうだ、分かっていたことだ。かつて自分が壊された時だって、一体誰が味方になってくれた?
人は助ける相手を選ぶ。得にならなかったり、嫌いだったり、助けることで誰かの機嫌を損ねる恐れのある者は、助けない。
それは仕方のないことだ。美闇自身だってそうなのだから。
それなら。
この到底受け入れられない運命は、自分の手で打ち破るまでだ。
あの女に自分が受けた痛みを五百倍返しでぶち込んでやった後、妹へ向けて「こゆりに土下座して謝り、二度と手も口も出すな」という命令を出させ、その上で命を絶ち、その首を自宅に送り付ける。
いかに屑な人間性しか持ちえないガキでも、姉の生首を拝めば絶対に思い知る。
自分がどれだけのことをしでかしたのかということを。
だから美闇は、再び目を開ける。
壊すためというより、守るため。
自分のためではなく、人のため。
美闇は選ぶ。例え崖下へ真っ逆さまという絶望的状況だとしても、それでも生を諦めないということを。
(死ねない……私が、私がこゆりを守るんだ!)
もう届く距離ではない。
それは分かっている。
それでも美闇は手を伸ばした。
生きるため。生きて目的を遂げ、大切な存在を残酷な運命の泥沼から引き上げるために。
そんな美闇の想いを嘲笑うかのように、重力という地獄の使者が彼女の身体を捉える。
10センチ、30センチ、50センチと落下が始まっていく。
それが何だと美闇は崖に向かって手を伸ばす。
たとえてのひらが裂けようと、指の骨が砕け散ろうと、崖にしがみつくことで少しでも落下速度を減らして、僅かでも生き延びる可能性を作り出すために。
そして。
その執念が、生きる意思が、彼女を死の淵から救った。
「ったく危なっかしいな。こんな崖っぷちで急に走り出すなんざ、自殺行為だぜ、お姉ちゃん」
左手首を掴まれている感触。誰かがつなぎとめてくれたようだ。
異世界には行かない。少なくとも、この世界でやり残したことがあるうちは。
(た、助かった……のね)
自分の命がつながったことを認識すると、美闇の意識は現実へと戻った。
眼下に広がる岩場。そんな空間で宙ぶらりんになっている自分。
現実の認識や状況判断能力が戻ってくるのに比例して、今頃になって恐怖が湧き上がってきた。背骨の下から上まで、うすら寒いものが走り抜ける。
とりあえず引き上げてもらおうと、美闇は左腕を掴んでいる人物に目を向ける。声と口調からつぐらでないのは明らかだったが、一体誰だろうか。
「あ、ありがと……それじゃあ引き上げて……」
その言葉は途中で止まった。
美闇は宙ぶらりんになったまま、再び恐怖の渦に放り込まれる。
彼女の左腕を掴んでいたもの、それは体長二メートルはあろうかという巨体の、全身に黒い毛を生やした熊だったのだ。