復讐の依代人形
7
危険宗教規制法案の成立阻止を目的とした国会前デモにおける拳銃乱射事件、通称「4.9事件」による死者数は42人、負傷者数は537人に上った。
言うまでもなく、近代日本における最悪レベルの大惨事だ。
桜のシーズン真っ只中、都心をはじめ全国各地で桜祭りが行われていたことで、この事件は「血の桜祭り」として後世に語り継がれていくことになる。
成立した法案は半年後に施行され、それから更に一年間の審査期間を経て、宗教団体への規制は予定通り実行された。
初回の審査で第四種団体に指定された十の宗教団体は「生贄十宗」または「見せしめ十宗」と呼ばれた。
尊いかどうかはともかく、彼らの犠牲は政府や諸外国を満足させ、宗教界は処分を回避するため目立つ行動をしなくなる。雨降って地固まるではないが、結果的には社会の安定に繋がるものだと大多数は考えたからだ。
しかし、そんな第三者の希望的観測はこれ以上ないほど粉々に砕かれることになる。
第四種に指定された十の団体は判定を不服とし、徹底抗戦していくことを表明。
「信教の自由を後世に残す守護同盟」を結成し、信仰対象や文化や価値観の違いを超えて共闘していく構えを見せた。
各自の本拠地などで立てこもりゲリラ戦を展開する守護同盟に対し、日本政府は早期決着を図るべく各地の戦線に新日本軍を惜しみなく投入した。紛争が長期化するとロシアを始めとする外国勢力が介入してくる恐れがあったため、それを防ぐための措置だった。
世論も政府の決定を支持しており、数と物資と装備で圧倒する新日本軍によって、守護同盟は容易く崩壊するだろうと見られていた。
だが、世間の楽観は再度裏切られる。
守護同盟との戦闘自体は難しいものではなかった。
人質をとり、生物兵器を使用するなどしてなりふり構わぬ抵抗を見せた守護同盟だったが、純粋な兵力の差は如何ともしがたく、各地の戦線で敗走に次ぐ敗走を重ねた。
厄介だったのは勝利条件の設定とその達成だった。
これが国同士の戦争であれば相手国政府を降伏させれば勝利となり、事務手続きを経て平定された世界がやってくる。
しかし不特定多数の民間人有志を相手取る今回のような場合、どこまで倒せば勝利と見做して良いのかが曖昧模糊としていた。
教祖、指導者、代表といった頭を潰しても、翌日には「後継者」が継戦を宣言するといったケースは枚挙にいとまがなかった。
また、戦闘地域と非戦闘地域の境界が実質的に存在しないのも政府の不利に働いた。
紛争発生後早い段階で、守護同盟は「政府軍の攻撃で死亡した民間人」の存在をインターネット上で執拗にアピールした。
まだあどけない幼児、夢に手が届きかけていた若者、子宝に恵まれたことを知らされるはずだった父親など、犠牲者の人生を感動的に脚色し、それゆえに政府軍による攻撃でこれだけの悲劇が生まれたのだというメッセージは世界中を駆け巡った。
結果としてベトナム戦争の時と同じことが起こった。
世論の中に、攻撃に反対する向きが出始めたのだ。
ベトナム戦争では現地マスコミによってお茶の間に届けられた「悲惨な戦争のリアル」が世間に反戦ムードを巻き起こし、結果としてアメリカは積極的な攻撃に踏み切れなかったという経緯がある。
果たして今回も、政府軍による「過剰な大規模攻撃」への批判が国内のみならず海外からも噴出した。
政府はこれらの批判に対し、「新日本軍はテロリストのみを的確に攻撃しており、現時点で第四種団体と無関係な民間人の死者は確認されていない。悪質なデマを真に受けないように」との声明を出したが、内心は「お前らが攻撃しろって言うからしたのに、調子いいこと言ってんじゃねーよ」と憤慨していたことだろう。
とはいえ、最終的には政府側が押し切った。
戦闘開始から年月が経ち、守護同盟側に継戦に必要な物資がなくなったことに加え、彼らの逃げ道を塞ぎ、そして衰弱させるために成立させたいくつもの新法が威力を発揮した。
それらの中には危険宗教規制法と同じか、それ以上に国民の自由や人権を制限するおそれのあるものもあったが、とにかく一日でも早く戦いを終わらせたかった政府がマスメディアに圧力をかけたため、ほとんど報道されることはなかった。
公式には「回生カルト宗教紛争」、俗称では「宗教浄化」と呼ばれる一連の争いは回生五年7月18日、政府による非常事態宣言の解除を以て終結した。とされている。
血の桜祭りから実に三年と四か月。
太平洋戦争以降大きな混乱なく治安を維持してきた日本にとっては気の遠くなる時間だった。
これに懲りた政府が次の守護同盟を発生させないため、より巧妙な形で国民から爪と牙を削ぎ落としていったことは言うまでもない。
ともあれ、決して少なくない犠牲の上に、「平和」は再びもたらされたのだった。
8
20XX(回生十七)年4月9日。
血の桜祭りから丁度十五年となる、日本宗教界にとっての節目の日。
全国各地の九の団体のもとに、差出人不明の封書が届いた。
封書の届いた九団体には共通点があった。
十四年前、危険宗教規制法による最初の解散命令を受けた十の団体、通称「生贄十宗」。
九団体は全て、その後継団体、もしくは地下で密かに再結成された団体だった。
天草事件がそうだったように、命さえ奪うほどの理不尽な暴力を以てしても消し去ることのできないもの、それこそが信仰だ。攻撃の波が引いていく過程で再び信仰が萌芽することは、道理といってもいい。
いつか太陽の下に舞い戻ることを信じ、再び歩みを始めようとしていた彼らを封書は大いに困惑させた。
宛先には団体の正式名称が記載されているが、彼らは通常一般企業やボランティア団体や文化サークルなど、ダミー団体の皮を被っている。
かつて守護同盟で共同戦線を張った「同士」とも、今では連絡をとっていないどころか音信不通だ。
それ以前に信仰対象も文化も価値観も違うのだから、本来なら相容れない、交わらないはずの存在だ。
これが原因で自分たちの存在が政府に知れたらと冷や汗をかいた者も多かったが、しかし切手には消印が押されていない。直接郵便受けに投函したということだ。
一安心……などできない。
身内以外には決して知られていないはずの教団を、なぜ差出人は知っているのか。
封筒の裏面、本来なら差出人の住所や氏名が記載されている箇所には、代わりに御朱印のような印鑑が押されていた。
鳥居の下に日本人形という、どことなく不気味なデザインだった。
どこかの宗教団体の紋なのかもしれないが、しかしこの印鑑に心当たりのあるものはいなかった。
受け取った者たちは一様に封書を気味悪がったが、しかし差出人の正体や目的を確かめないまま捨ててしまうわけにもいかない。
自分たちの存在を知っている。それだけで、この差出人は彼らにとって脅威だった。
意を決して封書を開けると、戦前の香りのする黄ばんだ便箋が三枚と、現代風の真新しいコピー用紙が十数枚ほど入っていた。
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XXX御中
突然のお手紙という失礼をお許しください。
尊敬する宗教弾圧抗戦運動の先達であるXXX様に、どうしてもお伝えしたいことがあり、筆を執りました。
十五年前の「血の桜祭り」に始まる一連の内戦。信仰を守るため、日本各地で宗教者たちが勇敢に戦ったことは、我々のような小規模組織にとってまさに希望の光でした。
とりわけ最初に解体宣告を受けた十団体が命を賭して誇りを守り抜いた姿は、例え教科書に載らず歪曲された形で後世に伝えられることになろうと、永遠に色褪せることはありません。
ですが、私は知ってしまったのです。
あの聖戦の中で、十団体のうちの一つが裏切り、政府に魂を売り渡し、共同戦線を張る同志たちを人身御供にして生き延びようとしていたことを。
その罪深き者共の名は、「うたかたの小部屋」。
今は「アンジュ・デ・ポーム」と名乗っています。
うたかたの小部屋の幹部は、秘密裏に政府と繋がり、生きるため必死に戦っていた仲間の情報を垂れ流していたのです。
その見返りとして、十団体で真っ先に解散したうたかたの小部屋は、それからわずか半年後には教団名と教典、代表者を一新して再結成されたのです。それも、第二種団体として。
信じられない、信じたくないでしょうが、紛れもない事実です。
XXX様を始めとする「守護同盟」九団体は、うたかたの小部屋が生き延びるための捨て石にされたのです。
それを裏付ける資料を同封しましたので、後ほどご参照ください。
さて、なぜこのような不愉快な事実をわざわざ伝えたのか、疑問に思われていることでしょう。
実は、私たちもうたかたの小部屋に踏みにじられた存在のひとつなのです。
現在、後継団体であるアンジュ・デ・ポームは教団を象徴する聖地として「ロワイヨム・エトワーレ」という遊園地を建設しています。
その場所こそ、私の生まれ育った村、秋田県緋斗潟村なのです。
緋斗潟村は、古くより日本人形の産地として知られ、また日本人形を神の依代として崇める人形信仰の根付く地域でした。
四方を完全に山に囲まれ、外界との繋がりは明治時代にマタギが掘ったといわれる粗末なトンネルだけ。
そんな陸の孤島同然の地形的要因もあり、神仏を敬う心が失われつつある現代日本においては特異とも言えるほどに、緋斗潟村は近代化以前の気風を残す里でした。
奴らが土足で上がり込んでくるまでは。
三年前、アンジュ・デ・ポームは設立十周年記念事業として、「理想の楽園」の建設を開始しました。
その場所に、緋斗潟村が選ばれてしまったのです。
先に述べたような地形的要因もあり、確かに緋斗潟村は俗世とはかけ離れ、認知すらされていないような場所ですから、余計な不純物の混じってはならない理想の楽園を作り上げるには格好の条件だったのかもしれません。
しかし、楽園を作るという目的のために、彼らは邪魔者である私たちを少しの躊躇もなく踏みにじったのです。
彼らは私たちに挨拶したり、説明の席を設けることはおろか、連絡の一つすら寄越したことがありませんでした。
まるで道端の石ころを蹴飛ばすように、資金力、政治力にものを言わせて怒濤のように村の形を変えていきました。
素朴な人々が神の宿りし人形とともに生きる、そんな昔話のような暮らしが何百年も続く里の姿は、実にあっけなく失われました。
いくら巨大な存在が相手でも、私たちだって村が壊されるのを黙って見ていたわけではありません。
建設現場に乗り込んだり、相手の本部に押しかけたり、関係各所への請願や陳情などは何百何千と送ったかも分かりません。
とにかく、この村を、神の依代が生まれる美しい里を守りたい。その一心で私たちは戦い続けました。
しかし、及びませんでした。
圧倒的な資金を有し、政府との繋がりさえ持つ巨大な存在に挑んだ私たちは、象に踏み潰される蟻のようにぺしゃんこにされ、もはや抵抗する気力すら残っていません。
緋斗潟村に息づく、何百年も前から続いてきた日本人形信仰は、遠からず消えるでしょう。
もっとも、深刻な過疎化の進む現代日本のこと、アンジュ・デ・ポームの侵攻がなくとも緋斗潟村はいずれ集落ごとなくなっていたのかもしれません。
その終わりの時が、ほんの数十年、もしくは数年早く訪れただけなのかもしれません。
そう思おうとしました。
故郷を、信仰を蹂躙され、折れそうになる心を守るため、必死で自分に言い聞かせてきました。
およそこの世の全てのものは、いつか終わりの時を迎える。
残酷なことに終わりの形を選ぶことはできず、そしてこれが私たちの終わりの時なのだと。
もちろん、アンジュ・デ・ポームは憎い。
可能ならいっそ、この世から燃えカスも残さず焼き尽くしてしまいたい。
けれど、そんなことをしたって、もう私たちの愛した里は戻ってこない。
ならば、せめて……御人形様への感謝で心をいっぱいにして、安らかに最期を迎えよう。
私たちは身を引き裂かれる思いで、その結論を受け入れました。
過去よりも、未来を見据えようと。ですが……見てしまったのです。
畑を潰して作られた廃棄物置場にうち捨てられている、無数の御人形様を。
恐らくはアンジュ・デ・ポームの連中が破壊した社や祠から持ってきたのでしょう。
彼らにとっては異教徒の祀る偶像などゴミ同然ですから、泥水の中に沈めていたところで欠片の憐憫も抱くことはないのです。
しかし私には、それが死体の山に見えました。
生まれてから死ぬまで。
24時間365日。
緋斗潟村の人間は、常に御人形様に見守られ、感謝を忘れず生きてきたのです。
そんな存在が無残な姿を晒しているのを見て、どうして平静を保っていられるでしょうか。
自失していた私は、ふと手前の童女人形と目が合いました。
髪の毛はぼさぼさ、首は取れかけ、下半身が捻じれるように曲がっていました。
一体どんな扱われ方をしたのかと思いましたが、その時の私は憤慨するだけの気力を持ち合わせていませんでした。
彼女は、泣いていました。
小雨がぱらついていましたから、その雨粒かもしれません。
地面がぬかるんでいましたから、泥がはねただけかもしれません。
それでも、彼女は泣いていたのです。泣きながら、訴えてきました。
「帰りたい……おうちに、帰りたい……」
彼女が喋ったのは、それが最初で最後でした。
私は気が付くと彼女を抱きかかえていましたが、彼女が何か訴えてくることは終ぞありませんでした。
しかしそれは当然のことです。なぜなら……
彼女と私は、一心同体となったのですから。
彼女は依代である私の中に、神として降臨されたのです。
里のあるべき姿を取り戻すために。荒廃した私たちの心を癒すために。
何よりも、私たちに絶望をもたらす破壊者、アンジュ・デ・ポームを討ち滅ぼすために。
私はもう人間ではありません。
御人形様の意思を具現するためにのみ動く、依代人形なのです。
私は依代人形として、この身ある限り、アンジュ・デ・ポームと戦い続けるのです。
しかし、現実問題として私の力で相手に与えられるダメージなど微々たるものでしょう。
呪詛によって相手を破滅させる、などと言いたいところですが、現実を直視しない限りは目的の達成はあり得ません。
そんな折、御人形様より啓示を受けました。
「志を同じくする同胞を集めよ」と。
それからひと月、思考と検討によって眠れぬ夜を過ごし、私は一つの結論に辿り着きました。
「この私、依代人形と皆様九団体で再度守護同盟を結成し、その力を以て悪の根城、ロワイヨム・エトワーレを討ち滅ぼす」
4.9事件、血の桜祭りから十五年の節目を迎える今年こそ、決起の時です。
共に戦い、そして勝利しましょう。
卑劣な裏切り者であり、忌むべき破壊者であるアンジュ・デ・ポームに制裁を、天誅を、神罰を。
そして何よりも、死を!
御人形様の意思を具現する者 依代人形
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かつて存在を否定された者たちが国家を相手取り起こした戦いは、三年以上にわたり国内に恐怖と混乱を撒き散らして終結した。
しかしそれから十年の月日が流れたこの回生十七年春、人々を恐怖のどん底に突き落とす新たな争いの影が、桜舞い散る季節の中で静かに、しかし確実に動き始めていたのだ。