袋の鼠は諦めない
(桜が栗夢を……殺す?)
荒唐無稽、支離滅裂。
透がまず思ったのは、栗夢はあまりに精神に疲労を重ねすぎていて、敵と味方の判別がつかないくらい混乱しているのではないかということだった。
けれど、さっきまで栗夢は脱出の経緯を、順序良く時系列を追って説明していた。それにいくら消耗しているとはいえ、栗夢にとっても桜は特別な存在のはずだ。それを別の人物と誤認することなど、ありえるのだろうか。何より、透が最も気になったことは、
(今度こそ、って言ったよな? 前にもあったのか? 「明確な殺意を以て実行された行為」が……)
透は逡巡する。
今の栗夢は考えるまでもなく疲れ切っている。
ADPからの追及を考えると呑気に構えてなどいられないが、しかしかといってこの状態の栗夢から無理に話を聞き出すような、精神に鞭打つ行為をしていいのか?
そんな透の胸中など知ってか知らずか、栗夢は俯きながら話しだした。
「お兄さまが驚くのも無理ないですよね……『表の』砦桜しか知らないのですから」
「表の、って……」
くるみを筆頭に心優しいガールフレンドに恵まれた透だが、流石に女性がいくつもの顔を持っていることくらいは知っている。それでもこの栗夢の発言には少なからずショックを受けた。桜に裏の顔があること、ではなく、見ているだけでこっちまで幸せになれそうな仲良し姉妹の妹が、姉を忌々しげに呼び捨てにしたということに。
「桜は、わたしが邪魔だったんです。もうずっと昔、物心ついた時から」
ありえないと思いつつも、透は一言も口を挟めずに栗夢の話に聞き入った。
桜が大切な友人であることは間違いがない。しかし、だからこそ、どんな裏の顔を持っているのかを知りたいという好奇心を抑えることができなかった。
「砦家は、お母さんの代から急にいがみ合うようになったみたいです。桜の母親の本家当主とわたしのお母さんの分家当主は、いつもお互いを目の敵にして、相手の全てを奪い尽くしてやろうと野心を燃やしていました。でもそれはお母さんたちの話で、わたしたちには関係のないことだと思っていたんです……でも、違った」
何かが取り憑いたように栗夢は話し続ける。
透は、ただ黙って聞くことしかできない。
「あの日、砦家で大きなパーティーが開かれました。まだ五歳だったわたしの一番の楽しみは、優しくて可愛い従姉のお姉さま、桜に会う事でした。ほどなくして、わたしは桜を見つけました。もちろんすぐに駆け寄ろうとしたんですけど、そこでわたしは、見てはいけないものを見てしまったんです」
栗夢が見てしまったもの。
それは、魔女のような邪悪な笑みを浮かべて栗夢の皿に何かを混入する、桜の姿だった。
「まぁ、見ちゃったからこそわたしは今もこうして生きていられるんですけど、でもあれはやっぱり見たくなかったな……今でも時々、夢に見るんです。あの、桜の恐ろしい顔……」
本能的に危険を感じた栗夢は、気分が悪くなったと訴え早々にパーティーから離脱した。
そしてつい一か月前、五年の時を超えて栗夢は知ってしまった。その皿の料理を食べた男性が、その夜死亡していたという事実を。
「今になって思えば、その後にも色々おかしなことはあったんです。でも、それが桜の仕業だなんて考えもしなかった。わたし……桜のこと、本当のお姉さまだと思って……世界でいちばん、だいすきだったのに……」
栗夢のしゃくりあげる声が、静かな居間に響く。
透は思う。栗夢の涙は、悲しみのそれでも、怒りのそれでもない。
悔しさの涙だ。
全幅の信頼を置き、世界の誰よりも慕っていた相手が、裏で自分に牙を向けていた。
足場が完全に崩れ去って、果てのない奈落へ落ちていく心地だろう。
「お願いです、お兄さま……桜には連絡しないでください。お兄さま一人に頼ってしまうのは、本当に申し訳ないです。でも……どうしても桜にだけは……」
ピンポーン
そのインターホンは、鳥の巣箱に鉈を叩きつけるかのように、ふたりが共有していた安心感を打ち砕いた。
透は思わず栗夢を抱き寄せ、息を潜めた。腕の中で栗夢がちいさく悲鳴を上げたが、煩悩を遥か凌駕する恐怖が透の思考を冷たく研ぎ澄ませた。
(この家を訪ねてくる奴なんて滅多にいない……誰だ? ADPからの追跡者か? だとしたら、くそっ、何てことだ。俺は相手を舐めていた。こんなに早く居場所を特定してくるなんて……)
腕の中で、栗夢がぎゅっと身体を竦ませる。その姿に、透はこの少女を何としても守り通したいという決意を新たにしたが、だからといって何か策があるわけでもない。
焦りばかりが透の中で渦を巻いて暴れ出そうとしていた、その時、
「栗夢様、無事でしたか?」
若い男性の声が、インターホンから部屋に滑り込んだ。
「自分は、栗夢様の自由を願う有志の者です。実は、栗夢様にお渡しした財布の中に、発信機を仕込ませていただきました。それでこの家を特定した次第でございます。これは栗夢様の自由のため、必要な措置と認識しております。どうか、ご容赦を」
栗夢は、ふるふると首を横に振った。確かに、この男の言うことを鵜呑みにはできないと透も思う。自由を願う有志などというものが実在したとして、この男がそうだと確信できる材料はない。もしくは、本人は既に捕まっていて、自白によって計画の全てが筒抜けになっていることも考えられる。情報が、圧倒的に足りない。
「追手も既にここを特定し、あと数分もすれば到着するでしょう。その前に、身を隠さなければなりません。自分なら、それが可能です。栗夢様、ご決断を」
だが、これが本当に栗夢の味方だった場合、またとないチャンスでもある。
いくら覚悟があって決意が固くても、所詮透は一介の高校生に過ぎない。現実的に栗夢を隠遁させ、隠し通すだけの力を持った大人に任せた方が、危機を切り抜けられる可能性は高い。
(このまま無視していれば、もっと色々話すかもな。その内容で判断しよう)
そう決めると同時、透は栗夢の背中に回していた手をほどき、立ち上がるよう指示する。
傍らの携帯を取り、無線でインターホンの音量を最大に。これで家のどこにいても相手の話していることは耳に入る。
相手が栗夢を捕らえる意図を持っていた場合、力づくで家に侵入してくることは大いに考えられる。もはやここは安全地帯ではなくなった。とりあえず、当座の危機を凌ぐため、栗夢の身柄をどこかに隠す必要がある。
(相手の出方を伺いつつ、最適な隠れ場所を探そう)
透は栗夢の目線に合わせると、安心させるように笑みを作って言った。
「とりあえず、見つからない場所に隠れよう。俺はこの一分で、相手が敵か味方かを判断する。敵と判断したら、警察を呼ぶ。警察が来たら、栗夢の事情も話さなきゃいけなくなるけど、いいか?」
「……それは」
てのひらをぎゅっと握り、俯く栗夢。
透も申し訳ない気持ちで一杯だった。警察に頼ることは、イコール栗夢の両親に話が行くということだ。そうなれば、無理やりにでも教団に連れ戻そうとするだろう。追手を素直に迎え入れるのと、結果は同じだ。トラブルになる分、余計に悪手であるとさえいえる。
「俺が警察に説明する。栗夢を、絶対に教団に戻すなって。そのために最も効果的な論理を、絶対に構築してみせる。……まぁ、こんなこと言ってもすぐには信じられないだろうけど、でも俺……栗夢を助けるから! どんなことをしてでも、守ってみせるから!」
「お兄さま……」
「おいおいこらこら……せっかくこっちから迎えに来てやったってのに、いつまでシカトしてくれてんのかなぁ? お姫様?」
獰猛な悪意がふたりを貫き、透と栗夢は竦み上がった。
先程の、優しげな男性ではない。暴力団員といっても全く違和感がない、捕食者のオーラに満ち溢れた声。透や栗夢のような子供なら、聞いただけで地に縫い付けられてしまう威圧。
「……き、鬼頭さん、です」
「鬼頭って、まさか……あの錬金術師の?」
鬼頭紫紅。
七導師が一人、錬金術師にして、株式会社星屑遊園地社長。
経済活動の権限を一手に引き受ける、教団トップの右腕と呼ばれる男。
桜から渡された資料で、透は鬼頭を良く知っていた。東大卒で経営手腕に長け、若くして教団を急成長させた辣腕……といえば聞こえは良いが、そのあまりの苛烈さから敵味方問わず潰された人間は数知れず。自殺に追い込まれた者も数十人に上るという。
ADPを相手取る上で、最も手強い敵だと透は認識していた。
「そんな大物がどうしていきなり出てくるんだよ!」
「そういえば、鬼頭さんは東京のオフィスに行ってるって聞きました……現場主義だとかで、緋斗潟村でも村の人たちとよく衝突してました。すごく怖い人、です」
鬼頭はただのパワハラエリートではない。総合格闘技の経験者であり、動画投稿サイトには緋斗潟村の住人と小競り合いになった彼が、一人で数人を返り討ちにしてしまった様子も投稿されている。
「ここに居るのは分かってんだ。さっさと出て来ねえと、お前を匿ってる奴ごと攫っちまうぞ?」
(マジかよ……完全にその筋の人間じゃないか)
透は中学時代の担任から、宗教団体に連れ去られた同級生の話を聞いたことがある。悪質な反社会団体は、一度捕まえた鴨は二度と離さない。死ぬまで、或いは壊れるまで酷使し続けるという。
そんな連中に捕まってしまえば、もう一切の希望はない。
「ちょ、どこ行くんだよ栗夢!」
栗夢がふらふらと、玄関へ向かっていこうとする。透は慌ててその手を取ったが、栗夢は進むのをやめようとしない。だが、透がその手に感じる栗夢の力は、あまりにも弱々しかった。
「わ、わたし……帰ります。ここにいたら、お兄さまが……」
「やめろ、俺なら大丈夫だ! 帰りたくなんてないんだろ?」
「でも……そうしないと、お兄さまは殺されちゃうかもしれないんです!」
許容量を超えた恐怖に身体中が痙攣してしまっている栗夢は、しかしそれでも、自分を押し殺してでも透だけは救おうとしていた。
「わたしにも、罪がないわけじゃないんです……桜が何かを混入したのを見て、わたし、それを誰にも言わなかった……誰かに言ったら、酷い目にあうと思って……でも、そのせいで関係ない人が死んでしまった……それは間違いなく、わたしの罪なんです……わたしは、殺されたって仕方がない、罪人なんです……」
「もうやめろ! 自分を責めて何かが解決するか? 死んだその人が生き返るか? 俺は栗夢に生きていてほしい……これからもずっと、一緒に……」
ドカッという衝突音が空間を揺らす。鬼頭が玄関扉を蹴飛ばしたのだ。
「三分待ってやる……一秒でも過ぎたら実力行使だ。賢明な栗夢ちゃんならどうするべきか、とっくに分かってるよなぁ? よーしカウント取るぞ。スタートぉ!」
ひゃっはっはと響く鬼頭の高笑いが、石をぶつけられたような痛みを透に与えた。
(もう……無理なのか? 俺にできることは、もう、何もないのか?)
歯を食いしばった透の手のひらで、携帯が振動した。
呆然としながら画面に目を向けると、メッセージアプリで友人が画像を送信したらしい。
「リューシカのラストコスプレ! 超クオリティ高いお!」
「肝尾但はキモオタだし」の肝尾からだった。リューシカというのは、明日の終業式を最後に国に帰ってしまう留学生、リュボーフィ・ヴラヂェーチェリの愛称である。
(こんな馬鹿馬鹿しい日常とも、永遠にお別れか……)
絶望と無力感に、透は自嘲の笑みを浮かべる。そして、携帯を持った手を力なくだらりと垂らして、
気付いた。
あそこならもしかしたら、警察が来るまでの間、鬼頭ら追手の目から栗夢を隠せるかもしれない。だが、非常に危険な賭けだ。敵があの道具を持っていたら、この方法は何の意味も持たない。しかし……
「お兄さま……」
口では「もういい」と言いながらも、栗夢は繋ぎ留められた手を今も離さない。
それは透を信じているということ。自分の運命を、命を、総てを透に託したということ。
栗夢は諦めていなかった。この状況を切り抜けることを。そしてその先で、何にも縛られず自由に生きることを。
ならば、透のやることは一つだ。
(俺を信じてくれた栗夢を、絶対に見捨てたりしない!)
回れ右した透は、階段の上へと栗夢を促す。鬼頭という、最悪の敵に背を向けて。
ふたりはその手を固く握り合う。絶対に離さない。そう心に決めて。
この先、どんな荒波が襲い掛かってこようとも。




